- 天正13年(1585)11月13日、岡崎城代の石川数正が出奔すると、家康は大きく動揺しました。三河支配の要である岡崎城を、急いでだれかに任せなければなりません
- 家康が新たに岡崎城を任せたのは、「鬼作左」こと本多作左衛門重次でした。本多正信がその場で作左を推したという話も伝わります
- 家康は北条家に数正の出奔を知らせ、岡崎の守りを固めたことを伝えています。数正が徳川の内情を知り尽くしていたため、軍法を武田流に改めたとも伝わります
- 翌天正14年、秀吉の母・大政所が人質として岡崎に来たとき、宿所のまわりに薪を積んだのが、この岡崎城の作左でした
『豊臣兄弟!』第40回では、迫田孝也さん演じる石川数正が岡崎から姿を消します。数正は、家康の生まれた城・岡崎城を預かる城代でした。その城代が秀吉のもとへ走ったあと、岡崎城はだれが守ったのでしょうか。この記事では、出奔直後の家康の対応と、岡崎城を引き継いだ本多作左衛門、そして大政所の人質事件までを紹介します。

岡崎城はなぜ大事な城だったのか
岡崎城は、家康が天文11年(1542)に生まれた城です。元亀元年(1570)に家康が遠江の浜松城へ本拠を移すと、岡崎城には嫡男の信康が入りました。天正7年(1579)に信康が亡くなったあとは、重臣が城代として岡崎を預かります。石川数正は、その岡崎城代を務めていました。
岡崎は、三河を治める要であると同時に、尾張との国境に近い最前線でもありました。秀吉と向き合う徳川家にとって、西の守りの中心となる城だったのです。その城を任されていたこと自体が、数正への深い信頼を示していました。

図のように、天正13年ごろの家康は、三河・遠江・駿河・甲斐・南信濃の五か国を治めていました。本拠の浜松城は領国のほぼ真ん中にあり、岡崎城はその西の端で、尾張・美濃の秀吉方と向き合っています。東の駿河・甲斐の先には同盟相手の北条がいて、北の信濃には真田昌幸がいました。岡崎が破られれば、三河はもちろん、浜松まで一気に危うくなります。
数正の出奔と家康の動揺
天正13年11月13日、数正は妻子や家臣を連れて岡崎から尾張へ去りました。西の守りの要を預けていた重臣が、よりによって秀吉のもとへ走ったのです。家康の驚きは大きなものでした。
家康は11月15日、同盟相手の北条氏直に手紙を送り、数正が小笠原貞慶の子・幸松丸を連れて尾張へ退いたことを知らせています。さらに11月28日には、北条氏規にあてて、数正が退いたあと守りを固めたことを伝えました。同盟相手に動揺を見せず、徳川はゆるがないと示す必要があったのです(家康と北条氏政の会見(天正14年))。

新しい城代は「鬼作左」本多作左衛門
空いた岡崎城を、家康はだれに任せたのでしょうか。新たに城代となったのは、本多作左衛門重次でした。家康が「岡崎をだれに任せればよいのか」とつぶやくと、そばにいた本多正信がすぐに作左の名を挙げ、家康もそれに従った、という話が伝わります。
作左は、家康より13歳年上の三河以来の家臣で、厳しく恐れられた人柄から「鬼作左」と呼ばれていました。陣中から妻に送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という短い手紙でも知られます。かつては高力清長、天野康景とともに「三河三奉行」と呼ばれ、民政にも通じた人物でした(本多作左衛門重次とは)。
数正の後任として、作左は打ってつけの人物でした。家康への忠義はだれよりも固く、秀吉にこびる心配はまったくありません。作左は、天正18年(1590)に家康が関東へ移るまで、岡崎城を預かったとされます。
守りの立て直し ─ 軍法を武田流に
家康にとって本当の痛手は、兵の数ではありませんでした。数正は、徳川の軍の編成や城の守り、家臣団の内情を知り尽くしています。その数正が秀吉のもとにいる以上、徳川のやり方は秀吉に筒抜けになっていると考えなければなりません。
そこで家康は、軍の仕組みを改めたと伝わります。天正10年に武田家が滅んだあと、徳川家は多くの武田の旧臣を召し抱えていました。家康は彼らから武田の軍法を学び、徳川の軍制を武田流に切り替えたというのです。この話は江戸時代の記録に見えるもので、どこまで実際に改めたのかはわかりませんが、数正の出奔が徳川家に与えた衝撃の大きさを物語っています。くわしくは家康はなぜ軍法を「武田流」に改めたのかで紹介しています(石川数正の出奔で徳川家はどう変わったのか)。
数正の出奔からわずか16日後の11月29日、天正地震が起き、秀吉の家康攻めは止まりました。家康は、最大の危機を地震に救われた形になります(石川数正が去っても、家康はなぜ秀吉と戦おうとしたのか)。
大政所の人質事件 ─ 岡崎城の作左の見せ場
天正14年(1586)10月、秀吉は家康を上洛させるため、母の大政所を人質として岡崎へ送りました。大政所を迎えたのは、岡崎城を預かる作左です。作左は大政所の宿所のまわりに薪を積み上げ、大坂で家康に万一のことがあれば、すぐに火をかける構えを見せたと伝わります(本多作左衛門はなぜ大政所の宿所に薪を積んだのか)。
数正の出奔で城代が替わっていなければ、この有名な場面は生まれなかったことになります。岡崎城の城代が、秀吉と通じていた数正から、秀吉を少しも恐れない作左に替わったこと。それが、大政所の人質事件の緊張感を生んだのです。

作左のその後と子孫 ─ 越前丸岡藩の本多家
この一件で秀吉の怒りを買った作左は、家康が関東へ移ったあと、上総の古井戸に蟄居させられたとされます。慶長元年(1596)、68歳で亡くなりました。
子の成重 ─ 「お仙」は大名になった
作左の子・成重は、元亀3年(1572)生まれで、幼名を仙千代といいました。作左が陣中から送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙」は、この仙千代のことだと伝わります。仙千代は天正12年、家康の次男・於義丸が秀吉の養子として大坂へ送られたとき、付き従った一人でした(結城秀康(於義丸)とは)。
成重はその後、於義丸(結城秀康)とその子・松平忠直に仕え、慶長18年(1613)に忠直の付家老として越前丸岡に4万石を与えられました。元和9年(1623)に忠直が処分されると、成重は翌寛永元年(1624)、幕府から独立した大名として取り立てられます。これが越前丸岡藩の本多家です。成重は正保4年(1647)、76歳で亡くなりました(丸岡城)。
丸岡藩の本多家はどうなったのか
丸岡藩の本多家は、成重のあと重能、重昭、重益と四代続きました。しかし元禄8年(1695)、四代目の重益が酒におぼれて政治をおろそかにし、家臣の争いを招いたとして改易されます。大名としての本多家は、ここで終わりました。丸岡にはそのあと有馬家が入り、幕末まで治めています。
ただし、作左の血筋がとだえたわけではありません。成重の次男と三男は、それぞれ3000石の旗本として家を立てていました。鬼作左の家は、大名としては四代で終わったものの、徳川家の旗本として続いていったのです。
| 代 | 人物 | できごと |
|---|---|---|
| 父 | 本多重次(作左) | 岡崎城代。大政所の宿所に薪を積む。慶長元年(1596)没 |
| 子 | 本多成重(仙千代) | 寛永元年(1624)丸岡藩主。正保4年(1647)没 |
| 孫以降 | 重能・重昭・重益 | 丸岡藩主。元禄8年(1695)重益のとき改易 |
| 分家 | 成重の次男・三男 | それぞれ3000石の旗本となる |

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よくある質問
Q. 石川数正の出奔後、岡崎城代になったのはだれですか?
A. 本多作左衛門重次です。「鬼作左」と呼ばれた三河以来の家臣で、天正18年(1590)に家康が関東へ移るまで岡崎城を預かったとされます。
Q. 数正の出奔で岡崎城は空になったのですか?
A. いいえ。数正に従ったのは妻子や一族、自身の家来が中心で、西三河の武士の多くは家康直属の与力として徳川家に残りました。
Q. 家康は数正の出奔のあと何をしたのですか?
A. 北条家に出奔を知らせて守りを固めたことを伝え、岡崎城代に本多作左衛門を任じました。数正が徳川の内情を知っていたため、軍法を武田流に改めたとも伝わります。
Q. 本多作左衛門の子孫はどうなりましたか?
A. 子の成重は越前丸岡藩の初代藩主となりましたが、元禄8年(1695)に四代目の重益のとき改易されました。成重の次男・三男はそれぞれ3000石の旗本となり、家を立てています。
Q. 大政所が岡崎に来たとき、岡崎城にいたのはだれですか?
A. 城代の本多作左衛門です。大政所の宿所のまわりに薪を積み、家康に万一のことがあれば火をかける構えを見せたと伝わります。
まとめ
石川数正が出奔したあと、家康は岡崎城を本多作左衛門に任せ、守りを立て直しました。家康は同盟相手の北条家に動揺を見せないよう手紙を送り、数正に知られた軍法も改めたと伝わります。そして翌年、大政所が人質として岡崎に来たとき、宿所に薪を積んだのがこの作左でした。数正の出奔は、岡崎城の主を替え、のちの名場面を生むことにもなったのです。
参考:『家忠日記』/『徳川実紀』/『寛政重修諸家譜』/柴裕之『徳川家康』平凡社
