足利義昭は本能寺の変の黒幕だったのか|『豊臣兄弟!』第42回「光秀を死なせたのはこのわし」と史実 ─ 光秀の書状、鞆幕府、黒幕説への反論

本能寺の変のイメージイラスト:燃える寺と、押し寄せる軍勢
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第42回で、足利義昭(昌山)は「光秀を死なせたのはこのわしだ」と語りました
  • 史実では、義昭が本能寺の変の黒幕だったとする「足利義昭黒幕説」がありますが、学界では賛否が分かれ、通説にはなっていません
  • 黒幕説の大きな根拠は、変の10日後に光秀が紀伊の土橋重治に宛てた書状で、義昭の上洛に協力する旨が書かれていました
  • ただしこの書状は、変のあとに光秀が義昭を担ごうとした証拠にはなっても、変の前から二人が通じていた証拠にはならない、という反論が有力です

『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」で、秀長のもとを訪ねた足利義昭が「光秀を死なせたのはこのわしだ」と語った場面は、多くの視聴者の胸に残ったのではないでしょうか。本能寺の変には、義昭が光秀を動かしたという「足利義昭黒幕説」があります。義昭は本当に本能寺の変の黒幕だったのでしょうか。

この記事では、ドラマの描き方を整理したうえで、黒幕説がどこから生まれ、どんな史料が根拠とされ、どのような反論があるのかを見ていきます。本能寺の変そのものの流れは本能寺の変:なぜ明智光秀は天下を取れなかったのかで解説しています。

▷ 大河ドラマではどう描かれたか
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)で25話ぶりに再登場した義昭(クレジットは「足利昌山」、演・尾上右近さん)は、秀長に、幕府による天下静謐を目指したはずが信長憎しになってしまった、力の使い方を間違えた、と語り、明智光秀だけが変わらぬ人物だったのに、光秀を死なせたのはこのわしだ、と自らを責めました。ドラマではこれまで、信澄が義昭の花押をまねて光秀に「信長を討ち取るべし」と記した密書を書いていたことが明かされ、義昭が光秀を突き放す場面もあって、義昭が変を命じた黒幕ではないことが描かれています。今回の告白は、黒幕ではないが、信長への憎しみが光秀を追い詰めた、という責任の背負い方だったといえます。
本能寺の変のイメージ(イラスト)
本能寺の変のイメージ(イラスト)
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結論 ─ 黒幕説はあるが、通説ではない

先に答えを書くと、足利義昭が本能寺の変を命じた、あるいは光秀と事前に打ち合わせていたことを示す確かな史料は見つかっていません。義昭黒幕説は、三重大学の藤田達生さんらが唱える有力な説のひとつですが、反論も多く、学界の通説にはなっていません。

ただ、光秀がもとは義昭に仕えていたこと、変のあと光秀が義昭を京に迎えようとしていたことは、史料から確かめられます。義昭と光秀の間に、ほかの武将とはちがう深いつながりがあったのは事実で、ドラマの義昭の告白も、そのつながりをふまえたものと言えるでしょう。

義昭と光秀の関係

明智光秀の前半生にはわからないことが多いのですが、永禄11年(1568)に義昭が信長に奉じられて上洛したころ、光秀は義昭の側近くに仕え、義昭と信長の両方に属するような立場にいました。義昭が将軍になってからも、光秀は幕府の家臣として京の政務にかかわりながら、信長の家臣としても重く用いられていきます。

元亀4年(1573)、義昭が信長と決裂して挙兵したとき、光秀は信長の側につきました。義昭は京を追われ、やがて毛利氏を頼って備後の鞆に移ります。ここから天正10年(1582)の本能寺の変まで、およそ9年。かつての主君が、信長を討つよう全国の大名に呼びかけ続けるなか、光秀は信長の重臣として近江坂本城と丹波を治める大名になっていました。

鞆の浦の館から瀬戸内海を眺める足利義昭のイメージ(イラスト)
鞆の浦の館から瀬戸内海を眺める足利義昭のイメージ(イラスト)

足利義昭黒幕説とは

義昭黒幕説の考え方は、おおよそ次のようなものです。鞆にいた義昭は、将軍として毛利氏や各地の大名に御内書を送り、信長を倒して幕府を立て直そうとしていました。この時期を「鞆幕府」と呼ぶ研究者もいます。義昭はかつての家臣である光秀にも働きかけ、光秀は幕府の再興という大義を掲げて信長を討った、というものです。

この説の大きな根拠とされるのが、変の10日後、天正10年6月12日付で光秀が紀伊雑賀の土橋重治に宛てた書状です。書状には、将軍の京への帰還(上意)について協力することを承知した、という内容が書かれていて、貴人への敬意を示す書き方から、この「上意」の主は鞆の義昭だと考えられています。この書状の原本は2017年に見つかり、大きな話題になりました。

黒幕説への反論

一方で、黒幕説には有力な反論があります。土橋重治宛ての書状は、変が起きたあとに光秀が義昭を担いで味方を集めようとしたことを示すもので、変の前から二人が通じていた証拠にはならない、というものです。天理大学の天野忠幸さんは、光秀が義昭を戴く政権に最後の望みをかけたことは認めつつ、黒幕とまでは言えないとし、藤本正行さんは、書状はむしろ光秀の孤立を示すものだと述べています。

さらに、黒幕説全般に向けられた疑問として、黒幕がどうやって光秀を誘ったのか、秘密をどう守ったのか、変のあと黒幕がなぜ光秀を具体的に助けなかったのか、という点があげられます。実際、変のあと毛利氏は秀吉と和睦して動かず、義昭も光秀を救うために何もできないまま、光秀は11日後の山崎の戦いで敗れました。また、信長が京の本能寺に少ない供回りで泊まり、光秀だけが近くで大軍を動かせるという状況は、変の直前に偶然そろったもので、遠くの鞆から前もって計画するのは難しかったとも指摘されています。

本能寺の変のおもな説

本能寺の変の動機をめぐっては、義昭黒幕説のほかにもさまざまな説があります。主なものを並べると次のとおりです。

説 内容
怨恨説 信長から受けた屈辱や仕打ちへの恨みから討ったとする説
野望説 光秀自身が天下を取ろうとしたとする説
四国説 信長が長宗我部氏への方針を変え、取次役の光秀の面目がつぶれたためとする説。2014年に見つかった石谷家文書で注目された
足利義昭黒幕説 鞆の義昭が光秀を動かし、幕府の再興を目指したとする説
朝廷黒幕説 近衛前久ら朝廷の勢力が関わったとする説
その他 秀吉黒幕説、家康黒幕説、イエズス会黒幕説など。いずれも確かな根拠に乏しい

いまの研究では、ひとつの理由に絞るのではなく、四国政策の転換や光秀の立場の変化など、いくつもの要因が重なったところへ、信長が手薄な本能寺に泊まるという偶然が訪れた、と考える見方が多くなっています。朝廷との関わりについては近衛前久とは何者かもあわせてどうぞ。

ドラマの義昭は何を背負ったのか

こうして見ると、ドラマの義昭の描き方は、史実の研究の流れをよくふまえています。義昭が光秀に謀反を命じたわけではない。それでも、かつての主君として光秀を苦しい立場に置き、信長への憎しみを募らせて各地に呼びかけ続けたことが、光秀を追い詰める一因になったかもしれない。「光秀を死なせたのはこのわし」という言葉は、黒幕という意味ではなく、そうした責任を背負った言葉として描かれていました。

そして義昭は、その反省を秀長に託します。力は人を変え、誰にも止められず、意見されなくなった者は勘違いをする。殿下を止められるのはおぬししかいない、と。権力の頂点と転落を知る元将軍が、天下人の弟に向けたこの忠告は、秀長が亡くなったあとの秀吉の歩みを知っていると、いっそう重く響きます。義昭のその後は足利義昭のその後、秀吉の御伽衆となった晩年は足利義昭はなぜ秀吉の御伽衆になったのかで解説しています。

▶ 第42回のあらすじと史実全体は豊臣兄弟!第42回「北野大茶湯」あらすじ予想と史実でまとめています。

▶ 「内々のことは利休に」と言われた蜜月から切腹まで、秀吉と利休の関係がどう変わったのかは秀吉と利休の対立はいつ始まったのかで年表とともに解説しています。

よくある質問

Q. 足利義昭は本能寺の変の黒幕だったのですか?
A. そうした説はありますが、確かな史料はなく、通説にはなっていません。

Q. 義昭黒幕説の根拠は何ですか?
A. 変の10日後に光秀が紀伊の土橋重治に宛てた書状で、義昭の上洛に協力する内容が書かれていることです。

Q. 光秀と義昭はどんな関係でしたか?
A. 光秀はもともと義昭の側近くに仕え、義昭と信長の両方に属するような立場でした。義昭が信長と決裂したとき、光秀は信長の側につきました。

Q. ドラマで義昭は何と言いましたか?
A. 第42回で、光秀を死なせたのはこのわしだ、と語り、秀長に、殿下を止められるのはおぬししかいない、と託しました。

まとめ

足利義昭は本能寺の変の黒幕だったのか、という問いに、確かな答えは出ていません。光秀がもとは義昭に仕え、変のあと義昭を京に迎えようとしたことは史料で確かめられますが、変の前から二人が通じていた証拠はなく、黒幕説は有力な説のひとつにとどまっています。ドラマの義昭は、黒幕としてではなく、信長への憎しみが光秀を追い詰めたという責任を背負う人物として描かれ、その反省を「兄を止めよ」という言葉で秀長に託しました。

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