福田龍世が演じる鍋丸はなぜ秀長の養子になれたのか|秀次の「血のつながらぬ者を」は正しかった?豊臣家の養子は他家の子ばかり ─ 秀勝・秀康・秀家・仙丸と秀次・秀保・秀秋『豊臣兄弟!』第42回

農家の土間で母なかを囲む、とも・藤吉郎・小一郎・旭の四人きょうだいのイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第42回で、秀次は秀長が鍋丸を養子にすることに「血のつながらぬ者を」と反対しました
  • ところが史実の秀吉・秀長の養子は、信長の子、家康の子、宇喜多の子、丹羽の子と、血のつながらない他家の子が多く、秀吉と血がつながるのは姉ともの3人の息子だけでした
  • 天正10年代の前半は同盟や取り込みのために他家の子を迎え、天正16年ごろからは一族を重んじて他家の養子を外へ出す流れに変わります
  • その一族の跡継ぎたちも次々に亡くなり、秀次事件を経て、豊臣家は幼い秀頼ひとりに託されることになりました

『豊臣兄弟!』第42回で、秀長が鍋丸を養子にしようとしたとき、秀次は「血のつながらぬ者を」と反対しました。豊臣一門の跡継ぎの座に、血縁のない者が入ることへの警戒です。では史実の豊臣家では、養子はどのように選ばれていたのでしょうか。

じつは秀吉と秀長が迎えた養子を並べてみると、その多くは血のつながらない他家の子でした。この記事では、豊臣兄弟の養子を一覧にして、「血のつながらぬ者」がなぜ迎えられ、やがてなぜ外されていったのかを見ていきます。後継ぎ候補が次々に消えていった流れは三好信吉(豊臣秀次)と秀吉の養子たちでも解説しています。

▷ 大河ドラマではどう描かれたか
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)で、秀長と慶は、かつて直が救った娘の子・鍋丸(福田龍世さん)を養子に迎えることにしました。これに秀次(山田涼介さん)は「血のつながらぬ、わけも分からぬ者を」と強く反対しますが、秀吉が養子を認めます。鍋丸の素性は鍋丸とは誰かでくわしく解説しています。
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秀吉と秀長の養子一覧

秀吉と秀長が迎えた主な養子(猶子を含む)をまとめると、次のようになります。「血縁」の欄は、秀吉・秀長と血がつながっているかどうかです。

名前 実の親 血縁 養子になった時期とその後
羽柴秀勝(於次) 織田信長 なし 天正年間のはじめごろ秀吉の養子に。天正13年(1585)、18歳で病死
結城秀康(於義丸) 徳川家康 なし 天正12年(1584)、小牧・長久手の和睦で秀吉の養子に。天正18年(1590)、結城家へ
宇喜多秀家 宇喜多直家 なし 秀吉の猶子となり、秀吉の養女・豪姫(前田利家の娘)を妻に迎える。五大老のひとりに
仙丸(藤堂高吉) 丹羽長秀 なし 天正10年(1582)秋ごろ秀長の養子に。天正16年(1588)ごろ藤堂高虎の養子へ
羽柴秀俊(小早川秀秋) 木下家定(寧々の兄) なし(寧々の甥) 幼くして秀吉・寧々の養子に。文禄3年(1594)、小早川家へ
豊臣秀次 三好吉房・とも あり(秀吉の甥) 天正19年(1591)、秀吉の養子となり関白に。文禄4年(1595)、切腹
豊臣秀勝(小吉) 三好吉房・とも あり(秀吉の甥) 於次秀勝の死後、その名を継ぐ。文禄元年(1592)、朝鮮で病死
豊臣秀保 三好吉房・とも あり(秀吉・秀長の甥) 天正16年(1588)ごろ秀長の養子に。文禄4年(1595)、17歳で病死

一覧を見ると、秀吉・秀長と血がつながっている養子は、姉ともの3人の息子、秀次・秀勝(小吉)・秀保だけです。秀次が「血のつながらぬ者を」と言ったのは、自分たち兄弟こそが豊臣の血を引く数少ない男子だという自負の裏返しでもあったのでしょう。とものと3人の息子についてはとも(日秀尼)とはで紹介しています。

農家の土間で母なかを囲む、とも・藤吉郎・小一郎・旭の四人きょうだいのイメージ(イラスト)
農家の土間で母なかを囲む、とも・藤吉郎・小一郎・旭の四人きょうだいのイメージ(イラスト)

なぜ他家の子を養子に迎えたのか

尾張の農民の家に生まれた秀吉と秀長には、もともと頼れる一族がほとんどいませんでした。秀吉には実子の男子が長く生まれず、秀長も唯一の男子を早くに失ったとされます。そこで二人は、養子縁組を家をつなぐためだけでなく、有力な大名とのきずなを結ぶ手段として使いました。

信長の四男・於次秀勝を養子にしたのは、主君の子を迎えて織田家とのつながりを強めるためで、本能寺の変のあと、秀吉はこの秀勝を喪主として信長の葬儀をおこない、織田家の後継者争いで優位に立ちました。家康の次男・於義丸(結城秀康)は、小牧・長久手の和睦のときに養子という名目で迎えた、事実上の人質です。丹羽長秀の三男・仙丸を秀長の養子にしたのも、織田家の重臣である丹羽を味方につけるためだったといわれます。くわしくは羽柴秀勝(於次秀勝)とは、結城秀康(於義丸)とはもどうぞ。

「血のつながらぬ者」が外されていく

ところが豊臣政権が固まった天正10年代の後半になると、流れが変わります。天正16年(1588)ごろ、秀吉は秀長の跡継ぎを一族から選ぶことにして、甥の秀保を秀長の養子にし、仙丸は藤堂高虎に引き取られました。天正18年(1590)には秀康が下総の結城家の養子に出され、文禄3年(1594)には寧々の甥の秀俊も小早川家へ養子に出されます。

天下を取ったあとの豊臣家にとって、他家の子は同盟の証であると同時に、跡継ぎをめぐる争いの種にもなりかねない存在でした。秀吉は、豊臣の家と領地を一族の手で固めようとしたのです。ドラマで秀次が鍋丸に反対したのは、まさにこの流れを先取りした態度だったと言えます。

そして一族も消えていった

しかし、頼みの一族の跡継ぎたちは、次々に姿を消していきます。秀勝(小吉)は文禄元年(1592)に朝鮮で病死し、秀次は文禄4年(1595)7月に切腹、秀保もその3か月前に17歳で亡くなりました。秀吉の実子の鶴松は天正19年(1591)に3歳で亡くなっており、残ったのは文禄2年(1593)に生まれた秀頼ひとりでした。

一方、外へ出された「血のつながらぬ者」たちは、それぞれの家で生き延びます。秀康は越前68万石の大名となって越前松平家の祖となり、仙丸こと藤堂高吉は93歳まで生きて名張藤堂家を開きました。皮肉なことに、豊臣の血を守ろうとして一族で固めた跡継ぎたちが先に絶え、他家に出された養子たちのほうが、家を残したのです。秀次事件については秀次事件をわかりやすく解説で解説しています。

鍋丸の養子入りが意味するもの

こうした史実を知ったうえで第42回を見返すと、秀長と慶が血のつながらない鍋丸を迎え、秀吉がそれを認めた場面は、豊臣家がまだ「他家の子を受け入れる家」だった最後の時期の姿として映ります。直が救った命を大切にしようという秀長と慶の思いと、血筋を重んじる秀次。この対立は、豊臣家がこの先たどる道そのものを映していたのかもしれません。秀長の家のその後は豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのかで解説しています。

▶ 第42回のあらすじと史実全体は豊臣兄弟!第42回「北野大茶湯」あらすじ予想と史実でまとめています。

▶ 上川周作さんが演じる、ともの夫で秀次の父・弥助については三好吉房(弥助)とはで、その生涯と秀次事件後の配流まで解説しています。

▶ 白石聖さんが演じた小一郎の初恋の人・直の歩みと最期、第42回で鍋丸を通してつながった物語は直(なお)とはで解説しています。

▶ 秀長の養子になった鍋丸が最終回までにどうなるのか、史実の仙丸・秀保をもとにした筆者の予想は鍋丸はこのあとどうなる?最終回までの予想で。

よくある質問

Q. 秀吉の養子には誰がいましたか?
A. 信長の四男・於次秀勝、家康の次男・結城秀康、宇喜多秀家(猶子)、寧々の甥・羽柴秀俊(小早川秀秋)、甥の豊臣秀次・秀勝(小吉)などです。

Q. 秀長の養子は誰ですか?
A. 丹羽長秀の三男・仙丸(のちの藤堂高吉)と、甥の豊臣秀保です。跡を継いだのは秀保でした。

Q. 秀吉と血がつながっている養子は誰ですか?
A. 姉ともの息子である秀次・秀勝(小吉)・秀保の3人です。

Q. 鍋丸は史実の養子ですか?
A. 鍋丸はドラマオリジナルの人物と考えられます。

まとめ

『豊臣兄弟!』で秀次は「血のつながらぬ者を」と鍋丸の養子入りに反対しましたが、史実の秀吉・秀長の養子の多くは、信長・家康・宇喜多・丹羽など他家の子でした。農民から出た兄弟は、養子縁組を同盟と取り込みの手段として使い、政権が固まると一族を重んじて他家の養子を外へ出しましたが、その一族の跡継ぎたちは次々に亡くなり、外に出された養子のほうが家を残しました。血縁にこだわった秀次の反対は、豊臣家の行く末を映す鏡でもあったのです。

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