キリシタン大名とは|一覧で見る9人と、バテレン追放令のあと信仰を守ったのは誰か ─ 大村純忠・大友宗麟・高山右近・小西行長・黒田官兵衛【豊臣兄弟!】

港町の南蛮寺の前で宣教師と語らうキリシタン大名たちのイメージイラスト

キリシタン大名とは、キリスト教の洗礼を受けた戦国大名のことで、九州の大村純忠・大友宗麟・有馬晴信や、畿内の高山右近・小西行長などが知られています。11月1日放送の『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」では、キリシタン追放令に恨みを抱く者による刃傷沙汰が描かれると予告されていますが、その追放令が出た天正15年(1587)は、キリシタン大名たちにとっても大きな分かれ目になりました。主なキリシタン大名を一覧にして、追放令のあと誰が信仰を守り、誰が手放したのかを見ていきます。

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最初のキリシタン大名は大村純忠

最初に洗礼を受けた大名は、肥前の大村純忠です。永禄6年(1563)に洗礼を受けてバルトロメオと名乗り、天正8年(1580)には長崎と茂木をイエズス会に寄進しています。大名たちがキリスト教に近づいた背景には、信仰そのものに加えて、宣教師とともにやって来るポルトガル船との南蛮貿易がありました。鉄砲や火薬、生糸をもたらす南蛮船を自分の港に呼べるかどうかは、九州の大名にとって死活問題だったのです。

主なキリシタン大名の一覧

大名 洗礼名 洗礼 追放令のあと 最期
大村純忠(肥前) バルトロメオ 永禄6年(1563) 追放令の約1か月前に死去 天正15年(1587)病没
大友宗麟(豊後) フランシスコ 天正6年(1578) 追放令の直前に死去 天正15年(1587)病没
有馬晴信(肥前) プロタジオ 天正8年(1580) 信仰を保ち、宣教師をかくまう 慶長17年(1612)岡本大八事件で死を命じられる
高山右近(播磨明石) ジュスト 永禄7年(1564) 信仰を選んで明石6万石を返上 1615年、追放先のマニラで病没
小西行長(のち肥後) アゴスティーニョ 天正12年(1584)ごろ 信仰を保ったまま大名を続け、右近をかくまう 慶長5年(1600)関ヶ原のあと斬首
黒田官兵衛(豊前) シメオン 天正13年(1585)ごろ 表向きは信仰を控えたとされる 慶長9年(1604)伏見で病没
蒲生氏郷(伊勢松坂) レオン 天正13年(1585)ごろ 表立った信仰は控えたとされる 文禄4年(1595)40歳で病没
大友義統(豊後) コンスタンチノ 天正15年(1587) 洗礼から間もなく棄教 慶長15年(1610)死去
宗義智(対馬) ダリオ 天正18年(1590)ごろ 小西行長の娘を妻に迎えて入信、関ヶ原のあと信仰から離れる 元和元年(1615)死去

洗礼の年には諸説あるものもあり、表は目安としてご覧ください。こうして並べると、九州の大名が早くから入信し、畿内では高山右近を中心に秀吉の家臣たちへ信仰が広がっていったことがわかります。黒田官兵衛や蒲生氏郷が洗礼を受けたのも、右近のすすめによるところが大きいといわれています。

最初と最大のキリシタン大名が、追放令の直前に亡くなっていた

天正15年の春、九州攻めのさなかに、最初のキリシタン大名である大村純忠と、九州最大のキリシタン大名だった大友宗麟が、あいついで病で亡くなりました。秀吉が博多でバテレン追放令を出したのは、その直後の6月19日のことです。キリシタンの後ろ盾として最も大きかった二人が世を去った、ちょうどそのときに追放令が出されたことになります。

丹生島の崖の上に残る臼杵城の櫓と石垣

大友宗麟が本拠とした臼杵城(大分県臼杵市)。宗麟の時代には城下に教会や学校が建てられました。

秀吉は大名の信仰を何と比べていたのか

追放令の前日、6月18日付で出された「覚」では、一定以上の知行を持つ武士がキリシタンになるには秀吉の許しが必要とされ、身分の低い人々が信仰するのは自由とされました。秀吉がこの覚のなかで引き合いに出したのが一向宗で、一向一揆が加賀の国を支配して年貢を納めなかったことを挙げ、キリシタンも同じように天下の障りになりかねないと警戒しています。秀吉が恐れたのは信仰そのものより、大名が家臣や領民をまとめて信徒にし、宣教師のもとで一つの勢力になることでした。長崎がイエズス会に寄進されていたことも、秀吉には見過ごせなかったとみられ、追放令のあと長崎は没収されて秀吉の直轄地になっています。

▽ よく語られる話
バテレン追放令によって、キリシタン大名はみな信仰を捨てさせられた。
▼ 史実ではこうです
追放令が直接迫ったのは宣教師の国外退去で、南蛮船との貿易は続けてよいとされたうえ、実際には多くの宣教師が九州に残りました。小西行長や有馬晴信のように信仰を保ったまま大名を続けた者もいて、信仰のために領地を失ったのは高山右近がほぼ唯一です。キリシタン大名への本当の締めつけは、秀吉の時代ではなく、江戸幕府が禁教令を出した慶長17年(1612)以降に始まります。

追放令のあと、それぞれの道

追放令に正面から応えたのは高山右近で、信仰を捨てるよう求められると明石6万石を返上し、小西行長にかくまわれたのち、前田利家のもとで加賀に身を寄せました。行長自身は信仰を保ったまま肥後の南半国を任され、関ヶ原のあとはキリシタンとして切腹を拒み、京の六条河原で斬首されています。一方、大友宗麟の跡を継いだ大友義統は、洗礼を受けて間もなく追放令が出ると、すぐに信仰を捨てました。黒田官兵衛や蒲生氏郷は表立った信仰を控えながらも、宣教師との関わりは保ったとされ、信仰の守り方は大名ごとに大きく違っていたのです。

『豊臣兄弟!』第42回とのつながり

北野大茶湯が開かれたのは、追放令からわずか4か月後の天正15年10月1日です。茶会の会場で起きる刃傷沙汰は記録には見当たらないドラマの創作とみられますが、追放令で領地や居場所を失った人々が実際にいたことを思えば、その恨みを描くための土台は史実のなかにあります。利休七哲には高山右近や蒲生氏郷といったキリシタンが名を連ねていて、茶の湯とキリシタンが近いところにあったことも、第42回を見るときの手がかりになりそうです。

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