秀吉は宣教師を侵略の先兵と考えていたのか|『豊臣兄弟!』第42回「ルソンがそうだった」と史実 ─ スペインのマニラ支配、コエリョの軍船、サン・フェリペ号事件、右近が最期を迎えたルソン

島原半島の海辺の城と、港に入る南蛮船、城下の教会のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第42回で秀吉は、伴天連が民を手なずけたあとに軍勢が来て土地を奪う、ルソンがそうだった、と語りました
  • ルソン(フィリピン)は、スペインが1571年にマニラを拠点に支配を固めた土地で、当時の日本にもその話は伝わっていました
  • ただ「宣教師のあとに征服者が来る」という話が記録にはっきり出てくるのは、9年後の慶長元年(1596)のサン・フェリペ号事件のときです
  • 追放令の時点でも、コエリョが軍船を見せたことや長崎が教会領になっていたことなど、秀吉が警戒する材料はそろっていました

『豊臣兄弟!』第42回で、秀吉が高山右近に語った「ルソンがそうだった」という言葉。宣教師は他国を征服するための先兵ではないか、という警戒は、秀吉がキリスト教を禁じた理由としてよく語られます。では、秀吉は本当にそう考えていたのでしょうか。そしてルソンでは何が起きていたのでしょうか。

▷ 大河ドラマではどう描かれたか
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)で、秀吉は高山右近に信仰を捨てるよう迫る場面で、伴天連を送り込んで民を手なずけ、そのあとに軍勢を送り込んでその地を乗っ取る、ルソンがそうだった、と語りました。九州では日本人が奴隷として売られていたことも理由に挙げています。右近は、キリシタンが日の本を乗っ取ることなどない、と反論しました。
島原半島の城と南蛮船のイメージ(イラスト)
島原半島の城と南蛮船のイメージ(イラスト)
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ルソンで何が起きていたのか

ルソンは、いまのフィリピンの中心となる島です。16世紀、スペインは太平洋を越えてこの地に進出し、1565年にセブ島に拠点を置いたあと、1571年にはルソン島のマニラを占領して、フィリピン支配の本拠としました。スペインの支配は、軍事力とともに、修道会の宣教師による布教と一体になって進められ、現地の人びとの改宗が支配を固める役割を果たしました。

当時の日本とマニラの間には商船の行き来があり、マニラには日本人の町もできていました。スペインがルソンを支配した経緯は、商人などを通じて日本にも伝わっていたと考えられます。ドラマの秀吉の言葉は、こうした知識をふまえたものとして描かれています。

追放令のとき、秀吉は何を警戒したのか

天正15年(1587)6月に秀吉が出した伴天連追放令は、日本は神国であり、キリシタンの国から邪法を広めるのはよくない、として宣教師に国外退去を命じています。前日の「覚」では、大名が家臣や領民に改宗を強いることや、日本人を南蛮に売ることを禁じ、キリシタンが大名のもとで団結することを一向一揆になぞらえて警戒しました。

この時点で「スペインが宣教師のあとに軍勢を送る」という話が秀吉の口から出たという、確かな記録は見つかっていません。ただ、秀吉が警戒する材料はそろっていました。ひとつは、イエズス会の日本準管区長コエリョが、博多で秀吉に武装したフスタ船(小型の軍船)を見せ、九州のキリシタン大名を味方につけられると誇示したとされることです。もうひとつは、キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会に寄進し、日本の中に教会の領地ができていたことです。

教会の領地だった長崎の岬を見下ろす武士たちのイメージ(イラスト)
教会の領地だった長崎の岬を見下ろす武士たちのイメージ(イラスト)

さらに近年の研究では、コエリョらイエズス会士の一部が、日本のキリシタンを守るためにマニラやマカオから兵を送ってほしいと求めていたことも知られています。巡察師ヴァリニャーノはこうした動きを危ういものとして退けましたが、宣教と武力が結びつく危険は、まったくの絵空事ではなかったのです。コエリョについてはコエリョとは、長崎の教会領は長崎はなぜイエズス会の領地になっていたのか、追放令の理由は秀吉はなぜバテレン追放令を出したのかで解説しています。

サン・フェリペ号事件 ─ 「宣教師のあとに征服者が来る」

「宣教師のあとに軍勢が来る」という話がはっきり記録に現れるのは、追放令から9年後の慶長元年(1596)です。マニラからメキシコへ向かっていたスペイン船サン・フェリペ号が嵐にあい、土佐の浦戸に漂着しました。積み荷の没収をめぐる取り調べの中で、乗組員が、スペインはまず宣教師を送って人びとを改宗させ、そのあとに征服者を送って国を奪う、という趣旨のことを語ったと伝えられます。

この話は秀吉に伝わり、秀吉は京や大坂のフランシスコ会の宣教師と信徒を捕らえるよう命じます。翌慶長元年12月(1597年2月)、宣教師と日本人信徒の26人が長崎の西坂で処刑されました。これが日本二十六聖人の殉教です。追放令のあとも黙認されていた布教が、ここで初めて大規模な処刑という形で弾圧されたのです。

年 できごと
1571年 スペインがルソン島のマニラを占領し、フィリピン支配の本拠とする
天正15年(1587) 秀吉、伴天連追放令を出す。高山右近が改易される
天正19年(1591) 秀吉、マニラのスペイン総督に使者を送り、服属を求める
慶長元年(1596) サン・フェリペ号が土佐に漂着。「宣教師のあとに征服者」の話が伝わる
慶長元年12月(1597年2月) 長崎の西坂で26人が処刑される(日本二十六聖人)
慶長19年(1614) 江戸幕府の禁教令。高山右近らがマニラへ追放される

秀吉自身もルソンを狙っていた

興味深いのは、秀吉自身がルソンを従わせようとしていたことです。天正19年(1591)、秀吉はマニラのスペイン総督に使者を送り、日本に服属して貢ぎ物を差し出すよう求めています。朝鮮や明への出兵と同じように、秀吉の目は海の向こうにも向いていました。スペインの征服を警戒しながら、自分もまた海外の征服を夢見ていたのです。

右近の反論と、ルソンでの最期

ドラマで右近は、キリシタンが日の本を乗っ取ることなどない、と秀吉に反論しました。史実の右近も、信仰を捨てない一方で、主君への忠義を守り続けた人物です。改易のあとも秀吉に恨みごとを言わず、のちに前田家のもとで仕えました。

その右近が最後にたどり着いたのは、皮肉にもルソンでした。慶長19年(1614)、江戸幕府の禁教令によって右近は国外へ追放され、マニラに渡ります。スペインの総督やマニラの人びとに手厚く迎えられた右近は、到着からわずか40日ほどで病に倒れ、慶長20年(1615)にマニラで亡くなりました。秀吉が「乗っ取られた地」として名を挙げたルソンは、日本を追われたキリシタンが最後に身を寄せた地でもあったのです。右近の生涯は高山右近とは、改易のあとは高山右近は改易のあとどこにいたのかで解説しています。

▶ 追放令のころのキリシタンの人数は追放令のころ、日本にキリシタンは何人いたのか、処罰された人びとはバテレン追放令で追放・処罰されたのは誰かでまとめています。

▶ 第42回で秀吉が語った「九州で日本人が奴隷にされていた」の史実と、追放令前日の「覚」については戦国時代、日本人は奴隷として海外に売られていたのかで解説しています。

よくある質問

Q. 秀吉は宣教師を侵略の先兵だと考えていたのですか?
A. そうした警戒があったと考えられますが、記録にはっきり出てくるのは慶長元年(1596)のサン・フェリペ号事件のときです。

Q. ルソンとはどこですか?
A. いまのフィリピンの中心の島で、1571年からスペインがマニラを拠点に支配していました。

Q. サン・フェリペ号事件とは?
A. 慶長元年(1596)、土佐に漂着したスペイン船の乗組員の発言が伝わり、秀吉が宣教師と信徒を捕らえて26人を処刑するきっかけとなった事件です。

Q. 高山右近はルソンと関係がありますか?
A. 江戸幕府の禁教令でマニラへ追放され、慶長20年(1615)にマニラで亡くなりました。

まとめ

『豊臣兄弟!』第42回で秀吉が語った「ルソンがそうだった」という言葉は、スペインが宣教と武力でフィリピンを支配した史実をふまえたものです。追放令の時点では、コエリョの軍船や長崎の教会領が秀吉の警戒を招いていましたが、「宣教師のあとに征服者が来る」という話がはっきり記録に現れるのは9年後のサン・フェリペ号事件でした。その秀吉自身もルソンに服属を求めており、そして秀吉に反論した右近は、最後にそのルソンの地で生涯を閉じたのです。

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