- 足利義昭は、天正15年(1587)に秀吉と和解して京に戻り、翌年1月に将軍をやめて出家したあと、秀吉の御伽衆になりました
- 御伽衆とは、主君のそばに控えて話し相手をつとめる人たちで、義昭は元将軍として武家のしきたりの相談相手にもなったといわれます
- 扶持は山城国槇島(いまの宇治市)の1万石で、かつて義昭が信長に最後の抵抗をした槇島城の地でした。朝廷からは准三后の待遇を受け、席次は大大名より上だったとされます
- 名前は「覚慶」→「義秋」→「義昭」→「昌山(道休)」と、生涯で4度変わっています
- 義昭は慶長2年(1597)に大坂で亡くなり、子の義尋の系統は孫の代で途絶えたため、将軍家は大名としては残りませんでした。江戸時代まで続いた喜連川家は、関東の足利氏の流れです
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」では、尾上右近さんが演じる足利義昭が久しぶりに姿を見せるそうです。信長に京を追われてから十数年、毛利氏を頼って備後の鞆にいた最後の将軍は、このあと秀吉の「御伽衆」となって、かつて信長の家臣だった秀吉のそばで晩年を過ごすことになります。
この記事では、御伽衆とはどんな役目だったのか、義昭はなぜ御伽衆になったのか、扶持はどのくらいで、そばで何をしていたのか、そして生涯で4度変わった名前まで、くわしく見ていきます。義昭の生涯全体は足利義昭のその後でまとめています。

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■
当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります
※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。
御伽衆とは ─ 主君の「話し相手」という仕事
御伽衆(おとぎしゅう)は、戦国大名のそばに控えて話し相手をつとめた人たちのことで、「御咄衆(おはなししゅう)」とも呼ばれます。「伽」はもともと、退屈をなぐさめるために相手をすることを意味する言葉です。合戦の経験談や諸国の噂、昔の家々の話をして主君の気をまぎらわせるほか、相談役として意見を求められることもあり、茶会や囲碁・将棋の相手、出陣のお供もつとめました。
とくに秀吉の御伽衆は人数が多く、顔ぶれが変わっていることで知られます。信長の次男の織田信雄(出家して常真)、信長にそむいた荒木村重(道薫)、かつての守護家の斯波義銀や赤松則房、山名氏といった、元の主筋や名門、かつての敵がそろって秀吉の話し相手になりました。御伽衆という役目そのものについては秀吉の御伽衆とはでくわしく解説しています。その中でも最も格の高い一人が、元将軍の足利義昭でした。
御伽衆になるまでの義昭の経歴
義昭は、はじめから将軍になるはずの人ではありませんでした。将軍家では跡継ぎ以外の男子は寺に入るのが慣わしで、義昭も幼くして僧になっています。その義昭が将軍になり、信長と争い、京を追われ、最後に秀吉の話し相手になるまでの歩みを年表にまとめると次のようになります。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天文6年(1537) | 12代将軍・足利義晴の子として京に生まれる |
| 天文11年(1542) | 6歳で奈良・興福寺の一乗院に入り、僧「覚慶」となる |
| 永禄8年(1565) | 兄の13代将軍・義輝が三好氏の軍勢に殺される(永禄の変)。幽閉されるが、細川藤孝らに助け出される |
| 永禄9年(1566) | 近江の矢島で還俗して「義秋」と名乗り、越前の朝倉義景を頼る |
| 永禄11年(1568) | 「義昭」と改名。信長を頼って美濃へ移り、9月に信長とともに上洛、10月に15代将軍になる |
| 永禄12年(1569) | 宿所の本圀寺を三好三人衆に襲われるが、守り抜く。信長が新しい将軍御所(二条御所)を築く |
| 元亀年間(1570〜73) | 信長との仲が悪化。武田・朝倉・浅井・本願寺らに呼びかけ、信長包囲網をつくる |
| 天正元年(1573) | 槇島城で挙兵するが敗れ、京を追われる |
| 天正4年(1576) | 毛利輝元を頼って備後の鞆へ移り、将軍として御内書を送り続ける |
| 天正10年(1582) | 本能寺の変で信長が倒れる |
| 天正15年(1587) | 九州攻めに向かう秀吉と対面して和解。10月ごろ京に戻る |
| 天正16年(1588) | 1月に将軍をやめて出家し「昌山道休」と号す。槇島1万石と准三后の待遇を受け、秀吉の御伽衆となる |
| 文禄元年(1592) | 朝鮮出兵で秀吉に従い、肥前の名護屋まで出陣 |
| 慶長2年(1597) | 8月28日、大坂で死去。61歳 |
こうして見ると、義昭の人生は、僧から将軍へ、将軍から流浪の身へ、そして天下人の話し相手へと、大きく三度変わっています。信長と組んで上洛してから、わずか5年で京を追われ、その後の15年近くを鞆で過ごしたことを思うと、秀吉のそばでの晩年は、ようやく落ち着いた日々だったのかもしれません。
鞆から京へ ─ 秀吉との和解
天正元年(1573)に信長に京を追われた義昭は、その後も将軍の地位を手放さず、天正4年(1576)からは毛利輝元を頼って備後の鞆(いまの広島県福山市)に移り、各地の大名に信長を討つよう呼びかける御内書を送り続けました。将軍に仕える者たちも集まっていたため、この時期を「鞆幕府」と呼ぶ研究者もいます。
天正10年(1582)の本能寺の変で信長が倒れても、義昭はすぐには京に戻れませんでした。転機は天正15年(1587)の九州攻めです。九州へ向かう秀吉は、3月に備後の義昭の御所の近くを通り、近くの寺で義昭と対面したと伝わります。義昭は島津義久に使者を送って秀吉との和睦を勧めるなど、元将軍としての顔を生かして九州攻めにも関わっています。そして島津氏が降伏したあとの10月ごろ、義昭はついに京へ戻りました。京を追われてから、およそ15年がたっていました。
将軍をやめた日 ─ 室町幕府の本当の終わり
京に戻った義昭は、天正16年(1588)1月13日、正式に征夷大将軍をやめて出家し、「昌山道休」と号しました。一般には信長が義昭を追放した天正元年を室町幕府の滅亡とすることが多いのですが、義昭はこの日まで将軍の地位にあったので、形のうえでも幕府が終わったのはこのときと言えます。
なお、秀吉が義昭の養子になって将軍になろうとし、義昭に断られたという話がよく知られていますが、これは後の時代の書物に見える話で、確かな史料では確かめられていません。秀吉は将軍ではなく関白という朝廷の最高の地位を選び、聚楽第を拠点に天下を治めました。秀吉の城の名前については聚楽第と聚楽亭、本当の名前はどっち?で解説しています。
扶持はどのくらいか ─ 槇島1万石と准三后
出家した義昭に、秀吉は山城国の槇島(まきしま、いまの京都府宇治市)で1万石の領地を与えました。1万石は大名としてはいちばん小さい規模で、たとえば大和・紀伊・和泉をあわせて百万石ともいわれた秀長とくらべれば百分の一ほどにすぎません。ただし、この槇島という土地には深い因縁がありました。天正元年(1573)、義昭が信長に最後の戦いを挑んで立てこもり、敗れて京を去ることになったのが、この槇島城だったのです。

一方で、義昭は朝廷から准三后(じゅさんごう)の待遇を受けました。准三后とは、太皇太后・皇太后・皇后の三后に准ずるという意味の破格の称号で、摂関家の人などごく限られた人にしか与えられないものです。石高は小さくても、前将軍として殿中での席次は大大名より上に置かれたとされ、秀吉は義昭を貴人として丁重に扱いました。
御伽衆として何をしたのか
御伽衆になった義昭は、秀吉のそばで話し相手をつとめました。元将軍として室町幕府のしきたりや武家の礼儀作法にくわしかったため、そうしたことの相談相手としても重宝されたといわれます。天正16年(1588)に毛利輝元が上洛したときなど、豊臣政権の大事な場面でも義昭の名前が記録に見られ、かつて自分を支えた毛利家と秀吉との間をつなぐ役目もあったと考えられます。
文禄元年(1592)、秀吉が朝鮮出兵のために肥前の名護屋城(いまの佐賀県唐津市)へ向かったとき、義昭も秀吉のたっての求めで、奉公衆などの名家の者たち二百人ほどを率いて名護屋まで従いました。名護屋城の陣跡の配置図にも、波戸浦沿いに義昭の陣の名が見えます。京を出発する秀吉の行列の中に前将軍の姿を見つけて、見送りの公家たちが驚いたという話も伝わっています。
秀吉はなぜ義昭をそばに置いたのか
秀吉が義昭を丁重に迎えたのには、いくつかの理由が考えられます。ひとつは、将軍の地位を正式に終わらせることでした。義昭が将軍でいる限り、その名で兵を集めようとする者が現れるおそれがありましたが、京に迎えて将軍をやめさせれば、関白秀吉の政権がただひとつの正統な政権になります。
ふたつめは、元将軍を従えている姿そのものが、秀吉の権威を高めたことです。尾張の農民の家に生まれた秀吉にとって、かつて信長が仕えた将軍を自分の話し相手にすることは、天下人になったことを何よりもはっきり示すものでした。みっつめは、義昭の持つ人脈や知識の利用で、毛利氏や九州の大名とのつながり、室町幕府のしきたりについての知識は、新しい政権にとって役に立つものでした。
義昭の側から見ても、1万石と准三后の待遇は、追放された将軍としては望みうる最もよい落ち着き先だったと言えるでしょう。
義昭の最期 ─ 秀吉より1年早く
名護屋から戻ったあとの義昭は、表舞台に出ることも少なく、静かな日々を送りました。慶長2年(1597)8月28日、義昭は大坂で亡くなります。61歳で、死因は腫物(はれもの)だったと伝わります。亡きがらは京都の相国寺の霊陽院に葬られ、法名は「霊陽院昌山道休」とされました。足利将軍家の菩提寺である等持院には、歴代将軍の木像とともに義昭の像も残されています。
義昭が亡くなった翌年の慶長3年(1598)8月、秀吉も伏見城で世を去ります。信長に担がれて将軍になり、信長と争い、最後は信長の家臣だった秀吉の話し相手として生涯を終えた義昭は、戦国の三人の天下人のうち二人の時代を、すぐそばで見届けたことになります。
義昭の子孫はどうなったのか ─ 大名としては残らなかった将軍家
義昭には正室がなく、跡継ぎとされたのは側室の産んだ義尋(ぎじん)でした。義尋は元亀3年(1572)の生まれで、翌年に義昭が槇島城で信長に降伏したとき、わずか2歳で人質として信長に差し出されています。信長ははじめ、この義尋を義昭のかわりの将軍に立てることも考えていたようです。
その後、義尋は僧となり、天正15年(1587)には奈良の興福寺大乗院の門跡に入りました。これは義昭が九州攻めで島津氏との和睦を勧めたことへの、秀吉からの褒美だったと考えられています。義尋はのちに還俗して義尊と常尊という二人の子をもうけましたが、二人とも京都の門跡寺院(実相院と円満院)に入って僧として生涯を送り、子を残しませんでした。こうして、尊氏から続いた足利将軍家の嫡流は、義昭の孫の代で途絶えます。
つまり義昭の家は、大名としては生き残れませんでした。槇島の1万石は義昭一代限りの扶持で、跡を継いで大名となる者はいなかったのです。秀吉にとって義昭は「最後の将軍」として丁重に遇する相手ではあっても、その家を大名として残す必要はなかったと言えるでしょう。義昭には義尋のほかにも子がいたとする説や、各地にその子孫を名乗る家が伝わっていますが、確かな史料で裏づけられるものはほとんどありません。
喜連川家との関係 ─ 生き残ったのは関東の足利氏
一方、江戸時代まで大名として続いた足利氏もいます。それが下野国(いまの栃木県さくら市)の喜連川(きつれがわ)家です。ただし喜連川家は義昭の子孫ではありません。足利尊氏の子で、2代将軍義詮の弟にあたる基氏が関東を治める鎌倉公方となり、その子孫が古河公方・小弓公方と分かれて関東に根を張りました。喜連川家は、この関東の足利氏の流れです。
しかも喜連川家を立てたのも秀吉でした。天正18年(1590)の小田原攻めのあと、秀吉は古河公方の家を継ぐ氏姫と、小弓公方の家の国朝を結婚させ、下野の喜連川に領地を与えて足利の名跡を残しました。国朝が早くに亡くなると、弟の頼氏が氏姫と結ばれて家を継ぎ、江戸時代には5千石ほどの小さな領地ながら、足利の血筋を引く家として10万石の大名なみに扱われました。明治になると喜連川家は姓を足利に戻し、子爵となっています。
京の将軍家は義昭の代で大名の座を失い、関東の足利氏は秀吉に取り立てられて江戸時代を生き抜いたのですから、皮肉な対照と言えます。ほかに、14代将軍義栄を出した足利義維の系統が阿波で「平島公方」として続いたことも知られています。
義昭は名前を何度変えたのか
義昭は生涯に何度も名前を変えています。主なものをまとめると次のとおりです。
| 名前 | いつ・なぜ |
|---|---|
| 覚慶(かくけい) | 6歳で奈良・興福寺の一乗院に入ったときの僧名です。将軍家の跡継ぎ以外の男子は、寺に入るのが慣わしでした |
| 義秋(よしあき) | 永禄9年(1566)、兄の将軍義輝が殺されたあと寺を脱け出し、近江の矢島で還俗したときの名です |
| 義昭(よしあき) | 永禄11年(1568)、越前の朝倉氏のもとで元服したときに改めた名です。「秋」の字を嫌ったためといわれます。この年、信長に奉じられて上洛し、15代将軍になります |
| 昌山(しょうざん)道休 | 天正16年(1588)1月、将軍をやめて出家したときの号です。御伽衆になったのはこの名のときでした |
つまり、御伽衆として秀吉のそばにいたころの義昭は、正式には「昌山」という出家後の名で呼ばれていたことになります。『豊臣兄弟!』第42回でも、冒頭のクレジットに「足利昌山」と表記されていました。ドラマや本で「義昭」と呼ぶのは、いちばんよく知られた名前を使っているためです。
▶ 第42回のあらすじと史実全体は豊臣兄弟!第42回「北野大茶湯」あらすじ予想と史実でまとめています。
- 第42回の予想7つ、答え合わせ
- 足利義昭は本能寺の変の黒幕だったのか
- 鍋丸とは誰か
- 追放令のころ、キリシタンは何人いたのか
- 聚楽第と聚楽亭、本当の名前はどっち?
- 伴天連(バテレン)とは
- バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か
- 黒田官兵衛はキリシタンだったのか
- 秀次はなぜヒゲを生やしたのか
- 秀次は秀長を嫌っていたのか
- 第42回「北野大茶湯」あらすじ予想と史実
- 第42回、見どころ7つ
- 秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか
- キリシタン大名とは
- 肥後国人一揆とは
- 北野大茶湯とは
- 足利義昭のその後
- コエリョとは
- 日本二十六聖人とは
- 高山右近は改易のあとどこにいたのか
- 小西行長とは
- 大友宗麟とは
- 有馬晴信とは
- 天正遣欧少年使節とは
- 大村純忠とは
- 国人一揆とは何か
- 天草国人一揆とは
- 高山右近とは
- 高山右近
- 黒田官兵衛(如水)
- 秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか
- 豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか
- 三好信吉(豊臣秀次)の兄弟はどうなったのか
- 天正十三年の論功行賞
- なぜ秀長は「秀次には殿下の器はない」と言ったのか
- 九州攻めはどう終わったのか
- 天下三宗匠とは
- 北野大茶湯・名護屋の瓜畑遊び・醍醐の花見はどう違う?
- 北野大茶湯に庶民はどう参加したのか
- 利休七哲とは
- 松井友閑とは
- 秀吉の甥とねねの甥を関係図で整理
- 黒田官兵衛はなぜ天正17年に隠居したのか
- 天正17年の豊臣秀次は何をしていたのか
- 天正15年の豊臣秀次は何をしていたのか
- 豊前国人一揆とは
- 蒲生氏郷とは
- 慶長の禁教令とは
▶ 『豊臣兄弟!』第42回で義昭が語った「光秀を死なせたのはこのわし」と、足利義昭黒幕説の根拠と反論は足利義昭は本能寺の変の黒幕だったのかで解説しています。
よくある質問
Q. 足利義昭は秀吉の家臣になったのですか?
A. 将軍をやめて出家したあと、秀吉の御伽衆になり、1万石の領地を与えられました。ただし准三后という破格の待遇を受け、前将軍として大名より上の席次で扱われたとされます。
Q. 御伽衆とは何をする人ですか?
A. 主君のそばで話し相手をつとめる人です。経験談や世間話のほか、相談役や茶会・囲碁の相手、出陣のお供もしました。
Q. 足利義昭の扶持(領地)はどのくらいでしたか?
A. 山城国槇島(いまの京都府宇治市)で1万石です。
Q. 義昭が将軍をやめたのはいつですか?
A. 天正16年(1588)1月13日です。このとき出家して昌山道休と号しました。
Q. 義昭の名前はいくつありますか?
A. 覚慶、義秋、義昭、昌山(道休)の4つが知られています。
Q. 足利義昭の子孫は大名として残りましたか?
A. 残りませんでした。子の義尋の系統は孫の代で途絶え、槇島1万石も義昭一代限りでした。
Q. 喜連川家は義昭の子孫ですか?
A. ちがいます。喜連川家は鎌倉公方・足利基氏の流れで、秀吉が古河公方と小弓公方の家を合わせて立てた家です。
まとめ
信長に追われて鞆に移った足利義昭は、天正15年の九州攻めをきっかけに秀吉と和解して京へ戻り、翌年1月に将軍をやめて出家すると、秀吉の御伽衆になりました。扶持はかつて信長に最後の抵抗をした槇島の1万石で、石高は小さいながら准三后の待遇を受け、元将軍として武家のしきたりの相談相手をつとめ、朝鮮出兵では名護屋にも従っています。慶長2年に大坂で亡くなったあと、その家は大名として残らず、足利の名跡を江戸時代に伝えたのは関東の喜連川家でした。覚慶、義秋、義昭、昌山と名前を変えながら、僧から将軍、そして天下人の話し相手へと移っていったその生涯は、戦国の世の移り変わりそのものと言えるでしょう。
