三好吉房(弥助)とは|『豊臣兄弟!』で上川周作が演じる、ともの夫で秀次の父 ─ 第42回で鍋丸をかばった人物の生涯、犬山城と三位法印、秀次事件と讃岐への配流

犬山城の天守と石垣
この記事のポイント
  • 三好吉房は、秀吉・秀長の姉ともの夫で、関白秀次・秀勝・秀保の父です。『豊臣兄弟!』では上川周作さんが「弥助」として演じています
  • 尾張の庶民の出で、もとは「弥助」と名乗り、秀吉の出世とともに取り立てられました。三好の姓は、息子の秀次が三好康長の養子になったことにちなみます
  • 天正18年(1590)ごろからは尾張の犬山城を預かり、出家して「三位法印」と呼ばれました
  • 文禄4年(1595)の秀次事件で讃岐へ流され、3人の息子をすべて失いました

『豊臣兄弟!』第42回で、北野の茶会の騒ぎの中、捕まった少年・鍋丸をかばったのが、秀吉・秀長の姉ともの夫、弥助こと三好吉房でした。上川周作さんが演じる吉房は、これまでも豊臣家の家族の場面で、ともを支える人のよい夫として登場してきました。

史実の吉房は、関白となった秀次の父として、豊臣政権の中で重い立場にのぼりながら、最後はその秀次の事件に巻き込まれた人物です。この記事では、ドラマの描き方を整理したうえで、三好吉房の生涯を見ていきます。

▷ 大河ドラマではどう描かれたか
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)では、上川周作さんが演じる吉房(弥助)が妻のともとともに北野の茶会の現場に駆けつけ、賊の仲間と疑われて捕まった少年・鍋丸を、強くあたる息子の秀次から身を挺してかばいました。じつは吉房は、尾張中村の旧友である源太とひそかに連絡を取り合っていて、源太が面倒を見ていた鍋丸を今回の茶会に招いたのも吉房でした。弟の秀長さえ知らなかったこのつながりから、吉房は鍋丸が、かつて直が救った娘の子であることを明かします。秀長は「それを言ってくれれば」とこぼしますが、吉房たちが黙っていたのは、秀長がいつまでも直のことを心に留めているのを知っていて、気を遣っていたからでした。秀長が鍋丸を養子にすると決めると、「養子にとは」と驚く場面もありました。息子の秀次が血筋を重んじて反対するのに対し、父の吉房は身寄りのない子に情けをかける人物として描かれています。鍋丸については鍋丸とは誰かで解説しています。
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三好吉房とは

ドラマの弥助は、第8回で直が命を落とした事件に責任を感じ、第9回では「わしを斬れ」と叫ぶほど立ち直れずにいました。直が救った少女の行く末を気にかけ、その子の鍋丸を見守り続けていたのは、その思いがあったからかもしれません。直については直(なお)とはで解説しています。

ドラマの吉房が中村の旧友と連絡を取り続けていたという設定は、故郷の人びととのつながりを大事にする人物像を表しています。史実の吉房も、秀吉の出世で取り立てられるまでは、尾張の庶民の暮らしの中にいた人でした。

三好吉房は、尾張の出身で、もとは「弥助」と名乗っていた人物です。生まれた年や家の出自にはわからないことが多く、農民だったとも、馬を使った運送を生業にしていたともいわれます。秀吉の姉のとも(のちの日秀尼)と結婚し、永禄11年(1568)に長男の秀次が生まれました。のちに秀勝(小吉)、秀保と、3人の男子をもうけています。

秀吉が信長のもとで出世していくと、吉房も義弟の秀吉に従い、身内の少ない羽柴家を支える一人となりました。妻のともについてはとも(日秀尼)とは、兄弟の故郷については秀吉・秀長の故郷、尾張中村はどんな村だったのかで紹介しています。

農家の土間で母なかを囲む、とも・藤吉郎・小一郎・旭の四人きょうだいのイメージ(イラスト)
農家の土間で母なかを囲む、とも・藤吉郎・小一郎・旭の四人きょうだいのイメージ(イラスト)

なぜ「三好」なのか

吉房が「三好」を名乗るのは、長男の秀次の縁によるものです。秀次は少年のころ、阿波の名門・三好氏の三好康長(笑岩)の養子となり、「三好信吉」と名乗りました。四国に勢力を持つ三好氏と結んで、長宗我部氏に対抗しようとした秀吉の政略です。この縁で、父の弥助も三好の姓を名乗るようになり、「三好吉房」となりました。

秀吉の姉の夫が、息子の養子先の名字を名乗るというのは少し不思議な話ですが、農民の出で名字を持たなかった一家が、武家としての名前を必要としていたことの表れでもあります。

犬山城と「三位法印」

秀次が出世していくにつれ、父の吉房の地位も上がっていきます。天正18年(1590)、秀吉は小田原攻めのあと尾張の織田信雄を改易し、尾張を秀次に与えました。このとき吉房は、尾張と美濃の境を守る要の城、犬山城を預かったとされます。木曽川のほとりに立つ犬山城は、いまも天守が残る国宝の城です。

三好吉房が預かったとされる犬山城の天守(愛知県犬山市)
三好吉房が預かったとされる犬山城の天守(愛知県犬山市)

その後、吉房は出家して「三位法印」と呼ばれました。翌天正19年(1591)には息子の秀次が関白となり、吉房は関白の父という、豊臣一門の中でも特別な立場に立ったことになります。犬山城については犬山城:三度落ちた国宝天守でくわしく紹介しています。

3人の息子を失う

しかし、そこからの数年で、吉房とともは3人の息子を次々に失います。

息子 最期
秀勝(小吉) 文禄元年(1592)、朝鮮出兵のさなかに巨済島で病死。24歳
秀保 文禄4年(1595)4月、大和の十津川で亡くなる。17歳。秀長の跡を継いで大和郡山の大名となっていた
秀次 文禄4年(1595)7月、謀反の疑いで高野山に送られ切腹。28歳

秀次の切腹のあと、その妻子三十九人が京の三条河原で処刑され、吉房自身も連座して讃岐へ流されました。わずか3年のあいだに、3人の息子と多くの孫を失ったことになります。秀次事件については秀次事件をわかりやすく解説と秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか、3兄弟については三好信吉(豊臣秀次)の兄弟はどうなったのかで解説しています。

吉房のその後と最期

慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、吉房は許されて京に戻ったとされます。その後は京で静かに暮らし、慶長17年(1612)に亡くなったとする説が知られていますが、晩年のことはよくわかっていません。妻のともは出家して日秀尼となり、秀次一族の菩提を弔うために京に瑞龍寺を開いて、寛永2年(1625)に92歳まで生きました。

ドラマの第42回で、吉房は息子の秀次の強い態度から、身寄りのない少年をかばいました。その秀次が切腹し、自分も罪人として流されるという未来を思うと、鍋丸をかばった吉房の姿は、いっそう胸に残ります。

▶ 秀次が「血のつながらぬ者を」と反対した背景は鍋丸はなぜ秀長の養子になれたのか、秀次と秀長の関係は秀次は秀長を嫌っていたのかでまとめています。

▶ 秀長の養子になった鍋丸が最終回までにどうなるのか、史実の仙丸・秀保をもとにした筆者の予想は鍋丸はこのあとどうなる?最終回までの予想で。

よくある質問

Q. 『豊臣兄弟!』で三好吉房(弥助)を演じているのは誰ですか?
A. 上川周作さんです。

Q. 三好吉房は誰の父ですか?
A. 関白となった豊臣秀次と、秀勝(小吉)、秀保の父です。妻は秀吉・秀長の姉のともです。

Q. なぜ三好という名字なのですか?
A. 長男の秀次が阿波の三好康長の養子となった縁で、三好の姓を名乗りました。

Q. 秀次事件のあと吉房はどうなりましたか?
A. 讃岐に流されたとされます。秀吉の死後に許されて京に戻ったといわれます。

まとめ

三好吉房は、尾張の庶民から秀吉の義兄として取り立てられ、息子の秀次の縁で三好の姓を名乗り、犬山城を預かって関白の父となった人物です。しかし文禄年間のわずか3年で秀勝・秀保・秀次の3人の息子をすべて失い、自らも秀次事件に連座して讃岐へ流されました。『豊臣兄弟!』第42回で鍋丸をかばった優しい父の姿は、こうした行く末を知ると、豊臣家の栄華の陰にいた家族の物語として見えてきます。

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