戦国時代、日本人は奴隷として海外に売られていたのか|秀吉が九州で見た人身売買と追放令前日の「覚」 ─ 乱取り、コエリョへの詰問、ポルトガル船 『豊臣兄弟!』第42回

教会の領地だった長崎の岬を見下ろす武士たち
この記事のポイント
  • 戦国時代には、戦場で人をさらって売り買いする「乱取り」が広くおこなわれ、売られた人の一部はポルトガル船で海外へ連れて行かれました
  • 秀吉は九州攻めのあと、伴天連追放令の前日に出した「覚」で、日本人を明・南蛮・朝鮮へ売ることを禁じました
  • 秀吉はイエズス会のコエリョを問いただし、売られた日本人を連れ戻すよう求めたと、宣教師フロイスが記しています
  • 海外へ売られた日本人の数ははっきりせず、数万人とする推計もありますが、確かなことはわかっていません

『豊臣兄弟!』第42回で、秀吉が高山右近に語った「九州で日本人が奴隷にされていた」という言葉。戦国時代、日本人がポルトガル船で海外へ売られていたというのは本当なのでしょうか。秀吉は九州で何を見て、どんな手を打ったのでしょうか。

▷ 大河ドラマではどう描かれたか
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)で、秀吉は高山右近に信仰を捨てるよう迫る場面で、伴天連のあとに軍勢が来るという警戒とともに、九州で日本人が奴隷にされていたのを目にしてきた、と語りました。追放令の理由のひとつとして、海外へ売られる日本人の問題が描かれています。
教会の領地だった長崎の岬を見下ろす武士たちのイメージ(イラスト)
教会の領地だった長崎の岬を見下ろす武士たちのイメージ(イラスト)
目次

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戦国時代の「乱取り」とは

戦国時代の戦では、勝った側の兵が敵の領地に入り、物や家畜だけでなく人までも奪い去ることがよくありました。これを「乱取り」や「人取り」と呼びます。さらわれた人は、身代金と引きかえに家族のもとへ返されることもありましたが、多くは労働力として売り買いされました。戦に加わる足軽や雑兵にとって、乱取りは大事な稼ぎでもあったのです。

つまり、人の売り買いそのものは、日本の戦国社会の中に根づいていたものでした。そこへ16世紀半ば、ポルトガル船が九州の港にやって来るようになると、売られた人の一部が船に乗せられ、マカオや東南アジア、さらに遠くへと連れて行かれるようになりました。

秀吉が九州で見たもの

秀吉が九州攻めをおこなう直前、九州では島津氏が大友氏の豊後へ攻め込み、激しい戦いが続いていました。宣教師フロイスの記録には、このとき島津方の兵が豊後で多くの人をさらい、肥後などで売り払ったことが書かれています。九州攻めで豊後や肥後、筑前を進んだ秀吉は、戦乱で連れ去られた人びとの話を耳にし、その一部が長崎などからポルトガル船で海外へ送られていることを知ったと考えられます。

天正15年(1587)6月、筥崎に陣を置いた秀吉は、イエズス会の日本準管区長コエリョを問いただしました。フロイスによれば、秀吉はポルトガル人が日本人を買って奴隷として連れて行くことをとがめ、すでに売られた日本人を連れ戻すよう求めたといいます。コエリョは、売っているのは日本人自身であり、日本の領主が売買をやめさせるべきだと答えたと伝えられます。九州攻めの流れは九州攻めはどう終わったのかで解説しています。

追放令の前日の「覚」

秀吉は、伴天連追放令の前日、6月18日付で「覚」という定めを出しています。そこでは、大名が家臣や領民に無理にキリシタンになることを強いるのを禁じるなどの条文とともに、日本人を大唐(明)・南蛮・高麗(朝鮮)に売り渡すことを禁じる一条が置かれました。海外への人身売買を、天下人として正式に禁じたのです。

ドラマの秀吉が、追放令の理由として日本人の奴隷のことを口にしたのは、この「覚」の内容をふまえたものです。ただし、追放令そのもの(6月19日付の定)は宣教師の退去を命じるもので、人身売買の禁止は前日の「覚」に書かれていた、というちがいがあります。追放令の中身は秀吉はなぜバテレン追放令を出したのかでくわしく解説しています。

ポルトガル側はどうしていたのか

ポルトガルの側でも、日本人の売買は問題になっていました。イエズス会は日本人を奴隷として扱うことに反対し、ポルトガル国王も1570年ごろ、日本人を奴隷として買うことを禁じる命令を出しています。それでも、遠く離れたアジアの港では取り締まりが行き届かず、売買はなかなかなくなりませんでした。

天正遣欧少年使節の見聞をもとにしたとされる書物には、使節の少年たちが旅先で売られていく日本人を見て心を痛めたという話も記されています。海外へ売られた日本人の数ははっきりせず、数万人にのぼったとする推計もありますが、確かな数はわかっていません。

追放令のあと平戸に集まった宣教師たちのイメージ(イラスト)
追放令のあと平戸に集まった宣教師たちのイメージ(イラスト)

その後 ─ 朝鮮出兵という皮肉

秀吉の禁令のあとも、海外への人身売買がすぐになくなったわけではありません。そして皮肉なことに、秀吉自身が始めた文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、朝鮮の人びとが数多く日本へ連れて来られ、その一部が長崎でポルトガル商人に売られたことが知られています。日本人の売買を禁じた天下人の戦が、別の国の人びとを売買の渦に巻き込んだのです。

江戸時代に入ると、幕府はキリスト教の禁止と海外との往来の制限を進め、やがて日本人の海外渡航そのものが禁じられていきます。

ドラマの秀吉の言葉をどう見るか

ドラマの秀吉は、伴天連のあとに軍勢が来るという警戒と、日本人が奴隷にされていたことを、右近に信仰を捨てさせる理由として並べました。前者がはっきり記録に現れるのは9年後のサン・フェリペ号事件のときですが(秀吉は宣教師を侵略の先兵と考えていたのか)、後者は追放令の時点で秀吉が実際に問題にしていたことです。追放令には、宗教だけでなく、九州の戦乱が生んだ人身売買という現実への怒りも込められていたと言えるでしょう。

▶ 追放令のころのキリシタンの人数は追放令のころ、日本にキリシタンは何人いたのか、コエリョについてはコエリョとは、長崎の教会領は長崎はなぜイエズス会の領地になっていたのかでまとめています。

よくある質問

Q. 戦国時代、日本人は奴隷として海外に売られていたのですか?
A. はい。戦乱で連れ去られた人の一部が、ポルトガル船でマカオや東南アジアなどへ送られたことが、宣教師の記録などからわかっています。

Q. 秀吉は人身売買を禁じたのですか?
A. 天正15年(1587)6月18日付の「覚」で、日本人を明・南蛮・朝鮮へ売ることを禁じました。

Q. 何人くらいが売られたのですか?
A. はっきりした数はわかっていません。数万人とする推計もあります。

Q. 乱取りとは何ですか?
A. 戦で勝った側の兵が、敵の領地で物や人を奪い去ることです。さらわれた人は売り買いされることが多くありました。

まとめ

戦国時代の日本では、戦場で人をさらう乱取りが広くおこなわれ、売られた人の一部はポルトガル船で海外へ運ばれていました。九州攻めでその実態を知った秀吉は、イエズス会のコエリョを問いただし、伴天連追放令の前日の「覚」で日本人の海外への売買を禁じます。『豊臣兄弟!』第42回で秀吉が右近に語った「九州で日本人が奴隷にされていた」という言葉は、こうした史実をふまえたものでした。

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