秀長は北野大茶湯で何をしていたのか|記録に名前のない「大和大納言」、天正15年秋の動きと千利休との関係【豊臣兄弟!】

郡山城の石垣の上から城下と奈良盆地を見渡す秀長の後ろ姿のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 北野大茶湯の当日を伝える記録や主な解説を見るかぎり、秀長の名前は見当たりません。秀長が参加したのか、何をしていたのかは、はっきりわかっていないのが実際のところです
  • 記録に名前が残るのは、茶頭の秀吉・千利休・津田宗及・今井宗久、利休の一族、変わり者の茶人・丿貫、実務を担った前田玄以らです
  • 天正15年の秀長は、九州攻めで日向方面の総大将を務め、8月8日に従二位権大納言(大和大納言)となりました。同じ年、紀伊の北山一揆への対応にもあたっています
  • 秀長は茶の湯を好み、利休と近い間がらでした。秀長は大友宗麟に「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と語ったと伝わります

天正15年(1587)10月1日の北野大茶湯。秀吉と千利休らが茶を点て、町人や百姓までが茶席を並べたこの日、弟の秀長は何をしていたのでしょうか。『豊臣兄弟!』第42回では、秀長が大茶会に反対する場面があると伝えられています。この記事では、記録からわかることとわからないこと、そして天正15年秋の秀長の動きと、秀長と茶の湯の関係を紹介します。

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記録に秀長の名前はあるのか

北野大茶湯のようすは、「北野大茶湯之記」や、公家の吉田兼見の日記『兼見卿記』、奈良・興福寺の僧の日記『多聞院日記』などに書かれています。しかし、これらの記録や、それをもとにした主な解説を見るかぎり、秀長の名前は見当たりません。

記録に名前が出てくるのは、次のような人たちです。

立場 名前
茶頭 豊臣秀吉・千利休・津田宗及・今井宗久
利休の一族の茶席 千道安・千少庵・万代屋宗安・円乗坊宗円ら
松原の茶人 丿貫(へちかん)。朱塗りの大傘を立てた茶席で秀吉の目にとまった
実務 前田玄以・宮城頼久ら
招かれた商人 博多の神屋宗湛(来られず、のちに秀吉があらためて茶会を開いたと伝わる)

大名の名前は、記録にほとんど出てきません。北野大茶湯の記録は、茶席と茶道具を中心に書かれているためです。秀長が会場にいたとしても、記録に残らなかった可能性はあります。一方で、参加したことを示す史料もないため、「秀長は茶会でこうしていた」と言いきることはできません。

▽ よく語られる話
秀長は北野大茶湯で秀吉のそばに控え、大茶会を取りしきった。
▼ 史実ではこうです
秀長が大茶会を取りしきったことを示す記録はありません。実務を担ったのは利休ら茶頭と、前田玄以・宮城頼久らでした。秀長が当日どこで何をしていたのかは、はっきりしていません。

天正15年の秀長の動き

時期 秀長の動き
3月〜 九州攻めで日向方面の総大将として出陣
4月17日 根白坂の戦いで島津の救援軍を破る
5月 島津家久が秀長に降り、日向方面の戦いが終わる
6月5日 秀長とともに上洛するはずだった島津家久が急死
8月8日 従二位権大納言となる(家康も同じ日に権大納言)
8月〜 紀伊・奥熊野の北山一揆に対応
10月1日 北野大茶湯(秀長の動きは記録に見えない)

九州攻めで秀長は、日向方面の総大将として島津家と戦い、根白坂の戦いで勝利をおさめました(根白坂の戦いで秀長は何をしたのか)。その功によって、8月8日には従二位権大納言に任じられます。これ以後、秀長は「大和大納言」と呼ばれるようになりました。同じ日、徳川家康も権大納言になっています。

同じころ、秀長の領国である紀伊の奥熊野では、地侍たちが一揆を起こしていました(北山一揆)。秀長は兵を出しましたが、雪のために鎮圧を見送ったと伝わります。大和・紀伊・和泉をおさめる秀長には、九州から戻ったあとも、自分の領国で片づけるべき仕事が山ほどありました(豊臣秀長は実際に何をしていたのか)。

郡山城の石垣の上から城下と奈良盆地を見わたす秀長のイメージイラスト
大和郡山城から領国を見わたす秀長(イメージ)

秀長と茶の湯 ─ 利休との近さ

秀長は茶の湯を好み、千利休とも近い間がらでした。天正14年(1586)、大坂城を訪れた大友宗麟は、国もとへの手紙に、秀長から手を取られ「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と言われたと書いています(大友宗麟の大坂城訪問)。表の政治は秀長が、裏の相談ごとは利休が受けもつ、という意味です。豊臣政権の中で、秀長と利休は並び立つ存在でした。

秀長のまわりには、のちに茶の湯で名を残す人たちもいました。秀長の家臣・小堀正次の子が、のちに大名茶人として知られる小堀遠州です(小堀家の家系)。また、秀長の家老・桑山重晴の家とゆかりのある片桐石州は、大和郡山に茶の寺・慈光院を建てました(慈光院)。

天正19年(1591)正月、秀長は大和郡山城で亡くなります(豊臣秀長の死因は何だったのか)。そのわずか1か月後、利休は秀吉の怒りを買って切腹を命じられました。秀長の死が利休の後ろ盾を失わせた、という見方はよく知られています(秀吉はなぜ千利休を切腹させたのか)。北野大茶湯は、秀長と利休がともに健在だった最後の大きな茶会の一つでした。

二畳の草庵茶室で黒楽茶碗を前に座す千利休のイメージイラスト
二畳の茶室で茶を点てる千利休(イメージ)

ドラマの秀長はなぜ反対するのか

『豊臣兄弟!』第42回では、秀長が「時期尚早」と大茶会に反対すると伝えられています。これはドラマの筋ですが、天正15年秋の状況を見ると、反対する理由を想像することはできます。

九州は平定されたものの、肥後では7月から国人一揆が広がっていました(肥後国人一揆と佐々成政の切腹)。6月にはバテレン追放令が出され、キリシタン大名や信者たちの間には不安が広がっています(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。関東の北条家や奥羽の大名たちも、まだ秀吉に従っていません。秀長の領国でも北山一揆が起きていました。

天下はまだ固まっていない。そんな中で大がかりな祝いの茶会を開くことを、政権の内側を支える秀長が心配したとしても不思議ではありません。ドラマが秀長にどんな言葉を言わせ、利休が秀長に何を語るのか。第42回の見どころの一つになりそうです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」は11月1日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、聚楽第の完成を祝う大茶会を秀次(山田涼介)が提案し、秀長(仲野太賀)は「時期尚早」と諫めますが、秀吉(池松壮亮)の勢いは止められません。当日は、吉岡秀隆さん演じる千利休のわびた茶室に人が集まり、利休が秀長に意味深な言葉をかける場面があると伝えられています。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 秀長は北野大茶湯に参加したのですか?
A. 当日を伝える記録や主な解説には秀長の名前が見当たらず、参加したかどうかははっきりしません。記録は茶席と茶道具が中心で、大名の名前はほとんど出てこないため、参加していても書かれなかった可能性はあります。

Q. 北野大茶湯のころ、秀長の官位は?
A. 天正15年8月8日に従二位権大納言となり、「大和大納言」と呼ばれるようになりました。

Q. 秀長と千利休はどんな関係でしたか?
A. 豊臣政権を支える二本柱で、秀長自身が大友宗麟に「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相(秀長)」と語ったと伝わります。秀長が亡くなった1か月後に利休は切腹を命じられました。

Q. ドラマで秀長が大茶会に反対するのは史実ですか?
A. 記録にはありません。ドラマの筋と考えられます。

まとめ

北野大茶湯の当日を伝える記録には、秀長の名前は見当たりません。秀長が会場にいたのか、何をしていたのかは、はっきりしていないのが実際のところです。この年の秀長は、九州攻めで日向方面の総大将を務め、8月に権大納言となり、領国の北山一揆にも向きあっていました。茶の湯を好み、利休と並んで政権を支えた秀長が、天下人の大茶会をどんな思いで見ていたのか。ドラマがそこをどう描くのかに注目です。

参考:「北野大茶湯之記」/『兼見卿記』/『多聞院日記』/大友宗麟書状(天正14年)/『公卿補任』

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