黄金の茶室とは|秀吉はなぜ金の茶室を作ったのか、広さ・造り・使われた場所、利休はどう見たのか、いまどこで見られる? ─ 『豊臣兄弟!』第42回の北野大茶湯

金の柱と壁、赤い障子と畳の黄金の茶室(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 黄金の茶室は、秀吉が作らせた組み立て式の茶室で、壁・天井・柱から茶道具まで金で仕上げられていました
  • 広さは三畳ほど。障子には赤い紗、畳には猩々緋(深紅)の毛氈が使われていたと伝わります
  • 天正14年(1586)正月に御所へ運び込んで正親町天皇に茶を献じ、翌年の北野大茶湯では天満宮の拝殿に置かれました
  • 実物は残っておらず、MOA美術館(静岡県熱海市)や佐賀県立名護屋城博物館などで復元を見ることができます

『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」で、天満宮の拝殿にきらびやかな姿を見せた黄金の茶室。秀吉の派手好みを象徴する茶室として知られていますが、いつ、何のために作られ、どんな造りだったのでしょうか。そして、わび茶を大成した利休は、この茶室をどう見ていたのでしょうか。

▷ 大河ドラマではどう描かれたか
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)では、天満宮の拝殿に金箔張りの黄金の茶室が置かれ、秀吉が茶を振る舞いました。ところが、秀吉に気を遣ってわびた質素な席を設けた利休のほうに長い列ができ、秀吉は「わしが一番だ」と張り合います。黄金の茶室の秀吉と、わび茶の利休。二人の茶のちがいが、のちの対立の芽として描かれました。
黄金の茶室のイメージ(イラスト)
黄金の茶室のイメージ(イラスト)
目次

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黄金の茶室とは

黄金の茶室は、秀吉が作らせた組み立て式の茶室です。柱や壁、天井、障子の骨にいたるまで金箔で覆われ、茶をいれる台子や茶碗、釜などの道具も金で作られていました。広さは三畳ほどの小さな茶室で、障子には赤い紗が張られ、畳には猩々緋と呼ばれる深い紅色の毛氈が敷かれていたと伝わります。金と紅が照らし合う、ほかに例のない空間でした。

この茶室の大きな特徴は、部品に分けて運び、別の場所で組み立てられることでした。秀吉は、大坂城に置くだけでなく、自分の権威を示したい大事な場面に、この茶室を運び込んでいます。

黄金の茶室はどこで使われたのか

年 場所 できごと
天正14年(1586)正月 京の御所 正親町天皇に黄金の茶室で茶を献じる(禁中茶会)
天正14年(1586)4月 大坂城 大坂に来た大友宗麟が黄金の茶室を見せられ、その様子を書き残す
天正15年(1587)10月 北野天満宮 北野大茶湯で拝殿に置かれる
文禄元年(1592) 肥前名護屋城 朝鮮出兵の拠点となった名護屋城にも運ばれたと伝わる

最初の披露の場は、なんと御所でした。関白になったばかりの秀吉は、天正14年の正月、黄金の茶室を御所に運び込み、正親町天皇に茶を献じています。天皇に茶を献じた関白という姿を見せることで、尾張の農民の出である秀吉は、自分の権威を朝廷の権威に重ねたのです。

同じ年の4月には、九州から助けを求めて大坂に来た大友宗麟が、大坂城で黄金の茶室を見せられ、その驚きを国元への手紙に書き残しています。宗麟が見た大坂城と黄金の茶室は家康が見た大坂城でも紹介しています。そして天正15年10月の北野大茶湯では、天満宮の拝殿に置かれ、天下に開かれた茶会の主役となりました。秀吉が大茶会で何を見せようとしたのかは秀吉はなぜ大茶会を開いたのかで解説しています。

黄金の茶室とわび茶 ─ 利休はどう見たのか

黄金の茶室は、よく利休のわび茶と正反対のものとして語られます。わび茶は、豪華な名物道具よりも、質素な道具や小さな草庵の茶室に美を見いだす茶の湯で、利休が造ったとされる妙喜庵の待庵は、わずか二畳の茶室です。金ぴかの黄金の茶室とは、まさに対照的です。

ただ、黄金の茶室も広さはわずか三畳ほどで、小間(小さな茶室)の造りになっています。茶頭として秀吉に仕えていた利休が、この茶室の設計にかかわったとする見方もあり、黄金の茶室は利休の美意識と秀吉の権勢欲が合わさって生まれたもの、と考える研究者もいます。利休にとって、黄金の茶室は必ずしも否定すべきものではなく、天下人の茶としてのひとつの答えだったのかもしれません。

千利休とわびの茶室のイメージ(イラスト)
千利休とわびの茶室のイメージ(イラスト)

それでもドラマが描いたように、北野大茶湯で黄金の茶室の秀吉と、わびた席の利休が並んだことは、二人の茶のちがいを人びとの目にはっきり見せる場面になりました。その4年後、利休は秀吉の怒りを買って切腹します。利休の生涯は千利休とは、切腹の理由とされる事件は利休の木像事件とは、わび茶の美意識の移り変わりはわび茶の美意識はどう変わったのかで解説しています。

黄金の茶室はいまどこにあるのか

秀吉の黄金の茶室そのものは残っていません。大坂城に置かれていたものは、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で城とともに失われたと考えられています。

いまは、記録をもとにした復元をいくつかの場所で見ることができます。静岡県熱海市のMOA美術館には、昭和に復元された黄金の茶室が展示されていて、秀吉の茶室の姿を間近に感じることができます。また、朝鮮出兵の拠点だった佐賀県唐津市の名護屋城跡に建つ佐賀県立名護屋城博物館でも、復元された黄金の茶室が公開されています。展示の時期や内容は変わることがあるので、訪れる前に各館の情報を確かめてください。

▶ 第42回のあらすじと史実全体は豊臣兄弟!第42回「北野大茶湯」あらすじ予想と史実、茶会の会場は北野大茶湯の「北野」とはどこ?でまとめています。

▶ 「内々のことは利休に」と言われた蜜月から切腹まで、秀吉と利休の関係がどう変わったのかは秀吉と利休の対立はいつ始まったのかで年表とともに解説しています。

よくある質問

Q. 黄金の茶室とは何ですか?
A. 秀吉が作らせた組み立て式の茶室で、壁・天井・柱や茶道具まで金で仕上げられていました。

Q. 黄金の茶室の広さは?
A. 三畳ほどの小さな茶室だったと伝わります。

Q. 黄金の茶室はいつ使われましたか?
A. 天正14年(1586)正月の御所での献茶、同年の大坂城での大友宗麟への披露、天正15年(1587)の北野大茶湯などで使われました。

Q. 黄金の茶室はどこで見られますか?
A. 実物は残っていませんが、MOA美術館(静岡県熱海市)や佐賀県立名護屋城博物館などに復元があります。

Q. 利休は黄金の茶室に反対していたのですか?
A. 反対したという確かな記録はなく、利休が設計にかかわったとする見方もあります。

まとめ

黄金の茶室は、秀吉が作らせた三畳ほどの組み立て式の茶室で、金と紅に彩られた空間でした。御所での献茶、大坂城での大友宗麟への披露、北野大茶湯と、秀吉は権威を示したい場面にこの茶室を運び込みました。わび茶と正反対に見えながら、小間の造りには利休の美意識が通じているともいわれます。『豊臣兄弟!』第42回で利休の行列と並んだ黄金の茶室は、天下人と茶頭の関係が変わりはじめる、その象徴として描かれていました。

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