茶器はなぜ一国に値したのか|滝川一益が欲しがった珠光小茄子、信長の名物狩りと「御茶湯御政道」をわかりやすく【豊臣兄弟!】

堺の豪商の座敷で、僧形の側近と商人たちが茶会を開くイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 天正10年(1582)、武田家を滅ぼした功で上野一国と関東の取りまとめ役を与えられた滝川一益は、「本当は珠光小茄子という茶入がほしかった」と嘆く手紙を残しています
  • 織田信長は名物の茶道具を集め、手柄を立てた家臣にだけ与えました。茶会を開くことも、許された家臣にしか認めませんでした。秀吉はこれを「御茶湯御政道」と呼んでいます
  • 名物は数がかぎられ、天下人から与えられた者しか持てない「格」のしるしでした。領地はほかの家臣にも与えられますが、名物は天下に一つしかありません
  • 秀吉もこのしくみを受けつぎ、天下三肩衝をそろえ、北野大茶湯で名物を天下に披露しました

戦国時代の名物の茶器は、「一国一城に値する」といわれました。手のひらにのる小さな茶入や茶碗が、なぜ国や城と比べられるほどの値打ちを持ったのでしょうか。この記事では、茶器をほしがった滝川一益の話から始めて、信長が始め秀吉が受けついだ「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」のしくみをわかりやすく紹介します。

目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

上野一国より茶入がほしかった滝川一益

天正10年(1582)3月、織田信長は甲斐の武田家を滅ぼしました。この戦いで手柄を立てた滝川一益には、上野一国と信濃の一部が与えられ、関東の大名たちを取りまとめる役目も任されます。織田家の家臣として、これ以上ない出世でした。

ところが一益は、知り合いにあてた手紙で、本当は「珠光小茄子(じゅこうこなす)」という茶入をいただきたかったのに、遠い国に置かれてしまい、茶の湯の冥加も尽きた、という意味のことを書いています。

一益は関東という遠い土地に置かれたことを嘆いており、茶入がほしかったというのは、その気持ちを茶の湯に託した言い方だったのかもしれません。それでも、一国の大名になった武将が、恩賞として茶入を望んでいたと書いても不自然でなかったことは確かです。茶器は、それほどの値打ちを持つものと見られていました。

信長の名物狩り

茶器の値打ちを大きく高めたのは、織田信長でした。信長は上洛した翌年の永禄12年(1569)から翌年にかけて、京や堺の豪商たちが持っていた名物の茶道具を、金銀や米などと引きかえに次々と自分のものにしました。これを「名物狩り」といいます。

名物狩りといっても、無理やり取り上げたというより、代金を払って買い上げたり、目利きの会を開いて集めたりしたという見方もあります。いずれにしても、天下の名物は信長のもとに集まり、信長が持つことで、その値打ちはさらに上がっていきました。

名物を差し出すことが、臣従のしるしになることもありました。大和の松永久秀は、信長が上洛したとき、名物の茶入「九十九髪茄子(つくもがみなす)」を差し出して降っています(松永久秀は本当に「三悪」を働いたのか)。

「御茶湯御政道」とは

信長は、集めた名物を手柄を立てた家臣に与えました。そして、茶会を開くことも、信長が許した家臣にしか認めませんでした。茶道具を持つことと、茶会を開くことが、どちらも信長からの「ごほうび」になったのです。

武将 茶会を許された時期
羽柴秀吉 天正6年(1578)10月
織田信忠 天正7年(1579)1月
明智光秀 天正7年(1579)1月
佐久間信栄 天正7年(1579)1月

秀吉は、名物の茶道具を与えられてから2年ほどたって、ようやく茶会を開くことを許されました。本能寺の変のあと、秀吉は織田信孝側の家臣にあてた手紙の中で、「御茶湯御政道」というなかで自分は茶の湯を許していただいた、このことは今生でも後世でも忘れられない、という意味のことを書いています。「御茶湯御政道」という言葉は、この手紙に出てくるものです。

茶会を開けるということは、自分の屋敷に客を招き、名物を見せて、人と人とのつながりを作れるということでした。茶の湯は、ただの趣味ではなく、武将の格と人脈を示す場だったのです(天下三宗匠とは)。

堺の豪商の座敷で茶会が開かれているイメージイラスト
堺の豪商たちの茶会。名物の茶道具は、まず堺や京の商人たちが持っていました(イメージ)

なぜ茶器は一国に値したのか

天下に一つしかない

名物の茶器は、中国から渡ってきた唐物や、足利将軍家が持っていた品など、来歴のはっきりしたものでした。同じものは二つとありません。領地は戦で増やすことができますが、名物は天下に一つしかなく、手に入れられる者はかぎられていました。

天下人から与えられた「格」のしるし

名物の茶器を持っていることは、信長や秀吉に認められた家臣であることのしるしでした。領地の広さは他の大名と比べられますが、名物は「天下人がこの者を特別に重んじている」ことを示します。いまでいえば、勲章のような意味を持っていたといえるでしょう。

茶会を開く力と結びついていた

名物があれば茶会を開き、客を招いて見せることができます。茶会には大名や公家、豪商が集まり、そこで情報が交わされ、つながりが作られました。名物の茶器は、そうした政治と外交の場を持つための道具でもありました。

土地は限りがある

天下統一が進むと、家臣に与えられる新しい領地は少なくなっていきます。土地のかわりに茶器を恩賞にすれば、領地を減らさずに家臣の手柄に報いることができました。茶器の値打ちを高くしておくことは、天下人にとっても都合のよいしくみだったのです。

▽ よく語られる話
戦国武将たちは茶の湯が好きで、趣味として高価な茶器を集めていた。
▼ 史実ではこうです
茶の湯を好んだ武将が多いのは確かですが、名物の茶器は天下人から与えられる恩賞であり、持ち主の「格」を示すしるしでした。茶会を開くことも許可制だった時期があります。茶器の値打ちは、信長と秀吉が作りあげた政治のしくみに支えられていました。

秀吉が受けついだ茶の湯の政治

本能寺の変のあと、秀吉は信長の茶の湯の政治を受けつぎました。千利休・津田宗及・今井宗久を茶頭に迎え、名物の茶道具を集めていきます。天正11年には家康から初花を、天正15年には降伏した秋月種実から楢柴を受けとり、信長が果たせなかった天下三肩衝をそろえました(天下三肩衝とは)。

そして同じ天正15年10月、北野大茶湯で秀吉は名物を天下に披露します。ただし秀吉は、信長のように茶会を一部の家臣にかぎるのではなく、身分を問わず誰でも来てよいと呼びかけました。茶の湯の世界の頂点に、天下人の自分が立っていることを示したのです(北野大茶湯はなぜ開かれたのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」は11月1日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、聚楽第の完成を祝う大茶会を秀次(山田涼介)が提案し、秀長(仲野太賀)は「時期尚早」と諫めますが、秀吉(池松壮亮)の勢いは止められません。北野大茶湯では、秀吉の名物の茶道具が拝殿に並べられました。ドラマで名物の茶器がどう描かれるのかにも注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 茶器はなぜ一国に値するといわれたのですか?
A. 名物の茶器は天下に一つしかなく、天下人から与えられた者しか持てない「格」のしるしだったためです。茶会を開く力とも結びつき、恩賞として領地と同じかそれ以上の値打ちを持ちました。

Q. 御茶湯御政道とは何ですか?
A. 織田信長が名物の茶道具を集めて家臣に与え、茶会を開くことも許可制にした、茶の湯を使った家臣統制のしくみです。言葉そのものは、本能寺の変のあとの秀吉の手紙に出てきます。

Q. 滝川一益が欲しがった茶入は何ですか?
A. 「珠光小茄子」という茶入です。上野一国などを与えられた一益は、本当はこの茶入がほしかったと手紙に書いています。

Q. 名物狩りとは何ですか?
A. 信長が永禄12年(1569)ごろから、京や堺の商人が持つ名物の茶道具を、金銀などと引きかえに集めたことをいいます。

まとめ

名物の茶器が一国に値したのは、天下に一つしかない宝物であり、天下人から与えられた者しか持てない「格」のしるしだったからです。信長は名物を集めて家臣に与え、茶会を開くことも許可制にしました。秀吉はこれを「御茶湯御政道」と呼び、自らも天下三肩衝をそろえて、北野大茶湯で天下に示しました。小さな茶器の値打ちは、天下人が作った政治のしくみに支えられていたのです。

参考:『信長公記』/滝川一益書状/羽柴秀吉書状(天正10年10月18日)/竹本千鶴『織豊期の茶会と政治』思文閣出版/桑田忠親『茶道の歴史』講談社学術文庫

  • URLをコピーしました!
目次