秀吉と利休の対立はいつ始まったのか|「内々のことは利休に」から切腹まで6年 ─ 黄金の茶室とわび茶、山上宗二の処刑、秀長の死の翌月の切腹『豊臣兄弟!』第42回「また利休か」

二畳の草庵茶室で、黒楽茶碗を前に静かに座る千利休(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 秀吉と利休の関係は、天正13年(1585)ごろの蜜月から、天正19年(1591)2月の利休切腹まで、わずか6年ほどで大きく変わりました
  • はっきりした「対立の始まり」を示す記録はありませんが、天正18年(1590)に利休の高弟・山上宗二が秀吉に処刑されたころから、二人の間の空気が変わったとみる見方があります
  • 決定的だったのは天正19年1月の秀長の死で、その翌月に利休は堺へ追放され、聚楽の屋敷で切腹しました
  • 『豊臣兄弟!』第42回は、北野大茶湯で利休の人気に秀吉がひがむ姿を、対立の芽として描きました

『豊臣兄弟!』第42回で、利休の人気に「また利休か」とこぼした秀吉。天下一の茶人として秀吉に重く用いられた利休は、この4年後、秀吉の命で切腹することになります。二人の関係は、いつから、どのように変わっていったのでしょうか。

この記事では、秀吉と利休の関係を年表で追いながら、対立の始まりとされる出来事や、切腹の理由とされるさまざまな説を見ていきます。利休の生涯全体は千利休とはで解説しています。

▷ 大河ドラマではどう描かれたか
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)では、利休(吉岡秀隆さん)が秀吉に気を遣ってわびた質素な席を設けたのに、黄金の茶室の秀吉よりも利休の席に長い列ができ、秀吉は「わしが一番だ」と張り合いました。さらに秀次が「利休に教わった」と茶を点てると、秀吉は「また利休か」とこぼします。利休は、意見の分かれる秀吉と秀長を見て、これまでは天下人という的に向かって同じ方を向いていたが、敵がいなくなった今は互いを見るようになった、と語りました。
堺の侘びた茶室の千利休のイメージ(イラスト)
堺の侘びた茶室の千利休のイメージ(イラスト)
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秀吉と利休の関係を年表で見る

年 できごと
天正10年(1582) 本能寺の変。信長の茶頭だった宗易(利休)は、その後秀吉に仕える
天正13年(1585) 秀吉が関白に。禁中茶会にあたり、宗易は「利休」の居士号を授かる
天正14年(1586) 黄金の茶室で正親町天皇に献茶。大坂に来た大友宗麟が「内々のことは宗易に、公のことは宰相(秀長)に」と聞かされる
天正15年(1587) 北野大茶湯。利休は津田宗及・今井宗久とともに茶頭をつとめる
天正17年(1589) 利休の寄進で大徳寺の山門・金毛閣の上層が完成し、利休の木像が置かれる
天正18年(1590) 小田原攻めに利休も同行。利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りを買い、処刑される
天正19年(1591)1月 秀長が大和郡山城で亡くなる
天正19年(1591)2月 利休は堺へ蟄居を命じられ、京に呼び戻されて聚楽の屋敷で切腹。70歳。木像は一条戻橋でさらされる

蜜月の時代 ─ 「内々のことは利休に」

関白になった秀吉にとって、利休は欠かせない存在でした。茶の湯は、信長の時代から武家の政治に深く結びつき、名物の茶道具は一国にも匹敵する価値を持っていました。茶会の席は、大名たちが顔を合わせ、秘密の話を交わす場でもあったのです。その茶会を取り仕切る茶頭の利休は、秀吉と大名をつなぐ役目を担っていました。

天正14年に大坂を訪れた大友宗麟は、国元への手紙に、秀吉の弟の秀長から「内々のことは宗易(利休)に、公のことは宰相(秀長)に」と言われたことを書き残しています。豊臣政権の表と裏を、秀長と利休の二人が支えていたことがわかる有名な言葉です。この年、利休は黄金の茶室での献茶にもかかわり、まさに秀吉の茶の湯の中心にいました。

すれちがいの兆し

二人の関係に影が差しはじめた時期を、はっきり示す記録はありません。ただ、いくつかの出来事が、その兆しとして語られます。

ひとつは、茶の美意識のちがいです。秀吉は黄金の茶室に象徴されるきらびやかな茶を好み、利休は質素な道具と小さな草庵に美を見いだすわび茶を突きつめていきました。利休が好んだ長次郎の黒い楽茶碗を、秀吉は好まなかったという逸話も伝わります。また、利休が庭の朝顔をすべて摘み取り、茶室に一輪だけ生けて秀吉を迎えたという「朝顔の茶会」の話も有名です。いずれも後の時代の書物に見える逸話ですが、二人の美意識のちがいをよく表しています。

もうひとつは、天正18年(1590)の小田原攻めの陣中で、利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りを買い、処刑されたことです。宗二は口の悪さで知られ、秀吉に対しても遠慮のない物言いをしたためといわれます。弟子の処刑は、利休にとって大きな衝撃だったはずで、このころから二人の間の空気が変わったとみる見方があります。

秀長の死と利休の切腹

決定的だったのは、天正19年(1591)1月22日の秀長の死でした。「公のことは秀長に」と言われた秀長は、秀吉に意見できる数少ない人物で、利休の後ろ盾でもありました。その秀長が亡くなったわずか3週間後の2月13日、利休は秀吉から堺での蟄居を命じられます。そして2月28日、京に呼び戻された利休は、聚楽第のそばの自分の屋敷で切腹しました。

千利休の切腹のイメージ(イラスト)
千利休の切腹のイメージ(イラスト)

切腹の理由としては、利休が寄進した大徳寺山門の上に利休の木像が置かれ、その下を秀吉がくぐることになったのが不敬とされた「木像事件」、茶道具の目利きで不当な利益を得たという疑い、娘を秀吉に差し出すのを断ったという話、朝鮮出兵に反対したという説など、さまざまに語られています。どれか一つに決められるだけの史料はなく、本当の理由はいまもわかっていません。木像事件については利休の木像事件とはでくわしく解説しています。

第42回が描いた「対立の芽」

こうして見ると、『豊臣兄弟!』第42回の描き方は、史実のすき間をうまく埋めています。北野大茶湯で利休の席に人が集まり、秀吉がひがむ。わびた茶で秀吉に気を遣ったはずの利休が、かえって秀吉の心をざわつかせてしまう。記録に残らない二人の心の動きを、ドラマは「天下人が茶頭に人気で負けるひがみ」として描きました。

そして利休は、秀吉と秀長の亀裂を見抜き、これまで見えなかったものが見えてくるかもしれない、と語ります。秀長と利休という豊臣政権の二人の歯止めが、ともに天正19年に姿を消す未来を知っていると、この言葉は利休自身の運命を語っているようにも聞こえます。同じ回で足利義昭が秀長に「殿下を止められるのはおぬししかいない」と託したことも、あわせて思い出されます(足利義昭は本能寺の変の黒幕だったのか)。

▶ 北野大茶湯で並んだ黄金の茶室とわび茶は黄金の茶室とは、利休の弟子たちのその後は千利休の弟子たちはどうなったのか、利休七哲は利休七哲とはでまとめています。

よくある質問

Q. 秀吉と利休の対立はいつ始まったのですか?
A. はっきりした記録はありませんが、天正18年(1590)に利休の高弟・山上宗二が処刑されたころから関係が変わったとみる見方があります。

Q. 利休はいつ切腹したのですか?
A. 天正19年(1591)2月28日、京の聚楽の屋敷で切腹しました。70歳でした。

Q. 利休が切腹させられた理由は?
A. 大徳寺山門の木像事件、茶道具の売買の疑い、娘をめぐる話など諸説ありますが、本当の理由はわかっていません。

Q. 秀長の死と利休の切腹は関係がありますか?
A. 秀長が亡くなった翌月に利休が切腹していることから、後ろ盾を失ったことが影響したとみる見方があります。

まとめ

秀吉と利休は、天正13年ごろには「内々のことは利休に」と言われるほど近い関係でしたが、茶の美意識のちがいや高弟・山上宗二の処刑を経て、天正19年1月の秀長の死の翌月、利休は切腹に追い込まれました。切腹の本当の理由はわかっていませんが、『豊臣兄弟!』第42回は、北野大茶湯での利休の人気と秀吉のひがみを、その対立の芽として描きました。利休の「見えなかったものが見えてくる」という言葉は、この先の豊臣家と利休自身の運命を予告するものだったのかもしれません。

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