バテレン追放令のころ、日本にキリシタンは何人いたのか|信者は約20万人で人口の1〜2%、伴天連は百数十人 ─ どこに多かった?『豊臣兄弟!』第42回の背景

港町の南蛮寺の前で宣教師と語らうキリシタン大名たちのイメージイラスト
この記事のポイント
  • バテレン追放令が出た天正15年(1587)ごろ、日本のキリシタンはおよそ20万人いたと推定されています
  • 当時の日本の人口は1,200万〜1,700万人ほどとされ、キリシタンは人口の1〜2%にあたります。いまの日本のキリスト教徒の割合(1%前後)と同じか、それ以上です
  • 信者の大半は九州に集中し、天正10年(1582)ごろの推計では九州の肥前・肥後・壱岐などで11万5千人、豊後で1万人、畿内で2万5千人でした
  • 伴天連(宣教師)は、日本人の修道士などを合わせても百数十人ほどで、20万人の信者に対してごくわずかでした
  • 追放令のあとも信者は増え続け、江戸幕府の禁教令が出た慶長19年(1614)ごろには約37万人に達したとされます

『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」では、茶会の会場で「キリシタン追放令に恨みを抱く者」による刃傷沙汰が起きると予告されています。天正15年(1587)6月、秀吉は九州の博多(筥崎)で伴天連(宣教師)に国外退去を命じる追放令を出しましたが、そのころ日本にはいったいどれくらいのキリシタンがいて、伴天連は何人いたのでしょうか。

この記事では、イエズス会の報告などをもとにした推計から、キリシタンの人数とその移り変わり、当時の人口に占める割合、どの地方に多かったのか、そして宣教師の人数までを見ていきます。伴天連という言葉の意味は伴天連(バテレン)とはで解説しています。

港町の南蛮寺の前で宣教師と語らうキリシタン大名たちのイメージ(イラスト)
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目次

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結論 ─ 追放令のころのキリシタンは約20万人

当時の日本には、いまのような人口調査や信者の名簿はありません。キリシタンの人数は、布教にあたったイエズス会の宣教師たちがローマに送った報告書(イエズス会日本年報など)に書かれた数字をもとに、研究者が推計したものです。そのため数字には幅がありますが、追放令が出た天正15年(1587)ごろのキリシタンは、およそ20万人だったとするのが一般的です。

宣教師たちは布教の成果を本国に伝えるために報告を書いていたので、数字がやや多めになっている可能性もあります。それでも、ザビエルが鹿児島に来てからわずか40年ほどで、日本に数十万人規模の信者が生まれていたことは確かです。

キリシタンの人数の移り変わり

ザビエルの来日から江戸幕府の禁教令まで、キリシタンの人数の推計をまとめると次のようになります。

年 キリシタンの推計 できごと
天文18年(1549) ― ザビエルが鹿児島に上陸し、布教が始まる
永禄4年(1561) 平戸だけで約2,000人 平戸の籠手田氏らの領地で信者が増える
永禄6年(1563) ― 大村純忠が洗礼を受け、最初のキリシタン大名となる
天正10年(1582) 約15万人(教会は約200か所) 天正遣欧少年使節がローマへ出発。本能寺の変
天正15年(1587) 約20万人 秀吉がバテレン追放令を出す
慶長6年(1601)ごろ 約30万人 追放令のあとも信者は増え続ける
慶長19年(1614) 約37万人 江戸幕府が全国に禁教令を出す。高山右近らがマニラへ追放される

表を見ると、追放令が出たあとも信者の数が減るどころか増えていることがわかります。秀吉の追放令は宣教師に国外退去を命じたものの、南蛮貿易は続けてよいとしていたうえ、実際に国外へ出た宣教師はわずかで、多くは九州の各地にとどまって目立たないように活動を続けたからです。信者の数が本格的に減っていくのは、江戸幕府が禁教を徹底し、厳しい取り締まりと殉教が始まってからのことでした。

当時の人口の何%だったのか

戦国時代の終わりごろの日本の人口は、1,200万人から1,700万人ほどと推計されています。そこに20万人のキリシタンがいたとすると、人口のおよそ1〜2%がキリシタンだったことになります。慶長19年(1614)の約37万人という推計は、当時の人口を1,700万人とすると約2.2%にあたります。

いまの日本でキリスト教を信じている人は、人口のおよそ1%前後といわれています。つまり戦国時代の終わりは、割合で見れば現代と同じか、それ以上にキリシタンが多い時代だったのです。しかも、その信者の多くは一部の地方に集まっていました。

どこに多かったのか ─ 九州と畿内

天正10年(1582)ごろの推計では、約15万人の信者のうち、肥前・肥後・壱岐などの九州西部に11万5千人、豊後に1万人、畿内に2万5千人がいたとされます。信者の4分の3以上が九州西部に集中していたことになります。

地域 信者の推計(1582年ごろ) おもな背景
九州西部(肥前・肥後・壱岐など) 約11万5千人 大村純忠・有馬晴信の領内で、領民がまとまって改宗した。大村純忠が寄進した長崎はイエズス会の領地となっていた
豊後 約1万人 大友宗麟の保護のもとで布教が進んだ
畿内 約2万5千人 高山右近の高槻をはじめ、京・堺・河内などに信者が広がった

九州西部に信者が多かったのは、キリシタン大名となった領主が領民にも改宗を勧め、ときには寺社を壊して村ごと信者にする例があったためです。ポルトガル船がもたらす南蛮貿易の利益を求めて、領主が宣教師を手厚く保護したことも大きな理由でした。長崎がイエズス会の領地になっていた事情は長崎はなぜイエズス会の領地になっていたのかでくわしく解説しています。

一方の畿内では、高山右近の高槻をはじめ、京や堺の町衆、河内の武士たちのあいだに信者が広がりました。こちらは信長の保護のもとで、都の上流の人びとにも信仰が広まったのが特徴です。主なキリシタン大名の顔ぶれはキリシタン大名とはで一覧にしています。

追放令のあと平戸に集まった宣教師たちのイメージ(イラスト)
追放令のあと平戸に集まった宣教師たちのイメージ(イラスト)

伴天連(宣教師)は何人いたのか

20万人の信者に対して、伴天連はごくわずかでした。伴天連とは本来、ミサや告解などをおこなえる司祭(神父)のことで、その下に修道士(伊留満、イルマン)や、宣教師を手伝う日本人の同宿たちがいました。追放令が出たころ、日本で活動していたイエズス会の会員は、外国人と日本人を合わせても百数十人ほどで、そのうち司祭はさらに少なかったとされます。

つまり、ひとりの司祭が何千人もの信者を受け持っていた計算になり、多くの信者は司祭にほとんど会えないまま信仰を続けていました。そのぶん、村ごとにつくられた信者の組や、日本語で印刷された教理書が、信仰を支える大きな力となりました。追放令が出たとき、宣教師たちは平戸に集まりましたが、実際に日本を離れた者はわずかでした。その後どうなったのかはバテレン追放令で追放・処罰されたのは誰かでまとめています。

秀吉は何をおそれたのか

秀吉が追放令を出した理由はひとつではありませんが、20万人という信者の数と、その集まり方は、秀吉の目には見過ごせないものに映ったと考えられます。追放令の前日に出された「覚」では、下々の者がキリシタンになるのは本人の心しだいとしながら、知行が二百町、二、三千貫以上の大身の武士がキリシタンになるには秀吉の許しが必要だと定めています。

また「覚」では、キリシタンが大名のもとで団結することを、かつて加賀を支配した一向一揆になぞらえて警戒しています。領主の命令ひとつで領民がまとまって改宗し、その上に宣教師が立つというしくみは、天下を統一しようとする秀吉にとって、新しい一揆の火種にも見えたのです。追放令が出された理由は秀吉はなぜバテレン追放令を出したのかでくわしく解説しています。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前)
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)では、北野の大茶会の会場で、キリシタン追放令に恨みを抱く者による刃傷沙汰が起きると予告されています。追放令の4か月後に開かれた茶会に、数十万人ともいわれるキリシタンの思いがどう重ねられるのか、放送を見てこの記事に追記します。

▶ 第42回のあらすじと史実全体は豊臣兄弟!第42回「北野大茶湯」あらすじ予想と史実でまとめています。

▶ 第42回で秀吉が語った「伴天連のあとに軍勢が来る、ルソンがそうだった」の史実と、サン・フェリペ号事件については秀吉は宣教師を侵略の先兵と考えていたのかで解説しています。

▶ 第42回で秀吉が語った「九州で日本人が奴隷にされていた」の史実と、追放令前日の「覚」については戦国時代、日本人は奴隷として海外に売られていたのかで解説しています。

よくある質問

Q. バテレン追放令のころ、キリシタンは何人いましたか?
A. イエズス会の報告などをもとにした推計で、およそ20万人とされています。

Q. キリシタンは人口の何%くらいでしたか?
A. 当時の人口を1,200万〜1,700万人とすると、約1〜2%です。

Q. どの地方にキリシタンが多かったのですか?
A. 九州西部(肥前・肥後・壱岐など)がもっとも多く、天正10年ごろの推計で約11万5千人、ついで畿内が約2万5千人、豊後が約1万人でした。

Q. 宣教師(伴天連)は何人いましたか?
A. イエズス会の会員は日本人を含めて百数十人ほどで、司祭はそのうち一部でした。

Q. 追放令のあと、キリシタンは減ったのですか?
A. 減りませんでした。追放令は徹底されず、信者は増え続けて、慶長19年(1614)の禁教令のころには約37万人に達したと推定されています。

まとめ

秀吉がバテレン追放令を出した天正15年(1587)ごろ、日本のキリシタンはおよそ20万人で、人口の1〜2%にあたり、その多くは大村・有馬の領地を中心とする九州西部に集まっていました。それを支えた伴天連は百数十人ほどにすぎませんでしたが、領主の改宗をきっかけに村ごと信者になるしくみが、秀吉に一向一揆を思わせる警戒心を抱かせたのです。追放令のあとも信者は増え続け、江戸時代初めには約37万人に達しましたが、その後の厳しい禁教によって、信仰は潜伏キリシタンとして地下に受けつがれていくことになります。

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