- 天正8年(1580)、キリシタン大名の大村純忠が、長崎の町と茂木をイエズス会に寄進しました。長崎は、日本のなかにありながら宣教師が治める「教会の領地」になっていました
- 天正12年(1584)ごろには、有馬晴信も浦上をイエズス会に寄進したとされます
- 九州攻めでこれを知った秀吉は、天正15年(1587)6月、筥崎でバテレン追放令を出しました。理由はほかにも寺社の破壊や日本人の売買などがあり、長崎の件はそのうちの大きなひとつです
- 追放令の翌年、長崎・茂木・浦上は取り上げられて秀吉の直轄地になり、のちの長崎奉行へとつながっていきます
天正15年(1587)の夏、九州を平定した秀吉は、筑前の筥崎でとつぜん宣教師たちに国外退去を命じました。バテレン追放令です。それまで秀吉は、大坂城でイエズス会の宣教師を上機嫌でもてなしていたほどでした。その秀吉が態度を変えた理由のひとつとしてよく挙げられるのが、九州の港町・長崎が、イエズス会の領地になっていたことです。
この記事では、長崎がなぜ教会の領地になったのか、大村純忠と有馬晴信が何をイエズス会に渡したのか、そして秀吉がそれをどう受けとめ、追放令のあと長崎がどうなったのかを、順を追って整理します。追放令そのものの中身は秀吉はなぜバテレン追放令を出したのかで紹介しています。
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長崎がイエズス会の領地になったのはいつか
長崎はもともと、肥前の大村純忠の領地にある小さな入り江でした。純忠は永禄6年(1563)に洗礼を受けた、日本で最初のキリシタン大名です。ポルトガル船を迎える港を探していた純忠とイエズス会は、元亀元年(1570)に長崎の港を開く話をまとめ、翌元亀2年(1571)、海に突き出た岬の先に新しい町がつくられました。大村町・島原町・平戸町・横瀬浦町・外浦町・分知町の6つの町で、南蛮貿易にたずさわるため各地から移り住んだ人びとが暮らしました。

そして天正8年4月27日(1580年6月9日)、純忠はこの長崎の6町と、近くの茂木をイエズス会に寄進しました。寄進を受け入れたのは、前の年に来日していたイエズス会の巡察師ヴァリニャーノです。これにより、長崎の町を治め、裁きを行う力は宣教師の側に移りました。日本の大名の領地のなかに、外国の修道会が治める町が生まれたことになります。
大村純忠はなぜ長崎を手放したのか
領主がみずから港町を差し出すのは、ふつうでは考えにくいことです。純忠がこの道を選んだ背景には、まわりの大名からの強い圧力がありました。
当時の大村家は、肥前で勢いを強めていた龍造寺隆信に押され、領地を守るのがやっとの状態でした。長崎も、近くの領主たちから何度も攻められています。純忠には、いざというときに逃げこめる場所と、南蛮貿易から入る収入を確かなものにしておく必要がありました。長崎をイエズス会の土地にしておけば、ほかの大名も手を出しにくくなり、ポルトガル船も引き続きやって来ます。港に入る船の税は大村家が受け取り続ける取り決めだったとされ、純忠にとっては「手放して守る」ための策でした。
イエズス会の側にも受け入れる理由がありました。戦の絶えない九州で、宣教師と信者が身を寄せる安全な土地がほしかったこと、ポルトガル船によって必要な物資を受け取れること、そして、いつでも土地を手放せる裁量が残されていたことなどです。
有馬晴信の浦上
長崎のすぐ北にある浦上も、やがてイエズス会の土地になりました。こちらを寄進したのは、島原半島のキリシタン大名・有馬晴信です。晴信も龍造寺の圧力に苦しんでいましたが、天正12年(1584)、島津家と手を組んで沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ちとります。この勝利のあとに、晴信は浦上をイエズス会に寄進したとされます(有馬晴信とは)。

こうして、長崎の町・茂木・浦上という、長崎の港をとりまく一帯が、イエズス会の手のなかにある形になりました。長崎は港の入り江に突き出た岬の町、浦上はその入り江の奥にある村、茂木は長崎から東へ山をひとつ越えた橘湾側の港です。長崎は西の海から南蛮船を迎え、茂木は島原半島や天草へ船で渡る出入口でした。

要塞になっていく長崎
イエズス会の土地となった長崎は、ただの港町ではなくなっていきました。龍造寺や近くの領主に攻められることをおそれた宣教師たちは、町に武器や弾薬をたくわえ、守りを固めていったといわれます。天正13年(1585)には、日本のイエズス会を率いていたコエリョが、フィリピンのマニラにいる仲間へ手紙を送り、スペインの船を何隻か日本に送ってほしいと頼んでいました(コエリョとは)。
天下をまとめようとしている秀吉の目から見れば、九州の大事な貿易港が、自分の知らないところで外国の修道会の砦になりつつあったわけです。
秀吉はいつ、どうやって知ったのか
天正15年(1587)、島津を降伏させた秀吉は、九州の国分けのために筑前の筥崎に陣をおきました。宣教師のルイス・フロイスの記録によると、このとき秀吉のそばにいた医師の施薬院全宗が、長崎が教会の領地になっていること、九州で寺や神社が壊されていることなどを秀吉に伝えたとされます。全宗はもとは比叡山の僧侶で、キリスト教には厳しい目を向けていた人物でした。
6月18日の夜、秀吉はコエリョのもとへ使いを送り、いくつもの問いをつきつけました。なぜ人びとに無理に改宗をすすめるのか、なぜ寺や神社を壊すのか、なぜ牛や馬を食べるのか、なぜポルトガル人は日本人を買って海外へ連れていくのか、というものです。同じ日付の「覚(おぼえ)」11か条では、キリシタンが一向宗のように国や郡を自分たちのものにし、領主に年貢を納めなくなるおそれが語られています。かつて加賀の一向一揆が守護を追い出した例を思えば、宣教師が治める長崎の姿は、秀吉にとって見すごせないものでした。
翌6月19日、秀吉は5か条の「定(さだめ)」を出し、宣教師に20日以内の国外退去を命じます。ただし、南蛮船の商売はこれまでどおり続けてよい、とも書かれていました。
秀吉が怒った理由は長崎だけだったのか
追放令の理由は、ひとつにしぼれるものではありません。記録から読みとれる理由を並べると、次のようになります。
| 理由 | 中身 |
|---|---|
| 長崎の寄進と要塞化 | 大名の領地が外国の修道会のものになり、武器もたくわえられていた |
| 寺社の破壊 | キリシタン大名の領内で、寺や神社が壊されていた |
| 無理な改宗 | 大名が家臣や領民にキリスト教を押しつけていた |
| 日本人の売買 | ポルトガル商人が日本人を買い、海外へ連れ出していた |
| 一向一揆への警戒 | 信仰でまとまった人びとが、領主に背くことへのおそれ |
| 高山右近の棄教拒否 | 信仰を捨てるよう命じられた右近が、領地より信仰を選んだ |
このうち長崎の件がとくに重く見られるのは、秀吉が追放令のあとに実際にとった行動からです。宣教師を追い出すと言いながら、南蛮船の貿易は続けさせ、真っ先に手をつけたのは長崎を取り上げることでした。追放令は、信仰を禁じることそのものよりも、「貿易港と大名を自分の手に取りもどす」ことにねらいがあった、という見方につながっています(バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か)。
なお、寄進をした大村純忠は、追放令の2か月ほど前の天正15年4月に亡くなっていて、秀吉の怒りを直接受けることはありませんでした(大村純忠とは)。
追放令のあとの長崎
追放令の翌年、天正16年(1588)、秀吉は長崎・茂木・浦上を取り上げ、自分の直轄地にしました。藤堂高虎が長崎に送られ、町の城壁や教会を壊すよう命じられましたが、キリシタンの側が役人に贈り物をして、取り壊しは見のがされたとも伝わります。長崎の町は、豊臣政権が南蛮貿易を押さえるための港として、代官のもとで治められるようになりました。

文禄元年(1592)には寺沢広高が長崎の奉行に任じられ、これが江戸時代の長崎奉行へとつながっていきます。宣教師が治めた「教会の町」は、十数年で天下人の港へと姿を変えました。その長崎で、追放令から9年後の慶長元年(1596)、26人のキリシタンが処刑されることになります(日本二十六聖人とは)。
『豊臣兄弟!』第42回とのつながり
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」では、茶会の場で、キリシタン追放令に恨みを抱く者による刃傷沙汰が起こると予告されています。北野大茶湯で刃傷沙汰があったという記録は見当たらず、これはドラマの創作とみられます(北野大茶湯で刃傷沙汰は本当にあったのか)。
ただ、茶会のわずか4か月前に、長崎を取り上げられることになったイエズス会や、信仰のために明石の領地を捨てた高山右近(高山右近とは)のように、追放令で多くを失った人びとがいたのは確かです。ドラマの場面は、こうした史実の土台の上に置かれたものといえるでしょう。
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よくある質問
Q. 長崎をイエズス会に寄進したのは誰ですか?
A. キリシタン大名の大村純忠です。天正8年(1580)に長崎の6町と茂木を寄進しました。
Q. 浦上を寄進したのは誰ですか?
A. 島原半島の有馬晴信です。天正12年(1584)の沖田畷の戦いのあとに寄進したとされます。
Q. 秀吉は長崎の寄進を知って追放令を出したのですか?
A. 理由のひとつと考えられています。ほかに寺社の破壊、日本人の売買、一向一揆のような反乱への警戒などもあり、ひとつにはしぼれません。
Q. 追放令のあと長崎はどうなりましたか?
A. 天正16年(1588)に長崎・茂木・浦上が取り上げられ、秀吉の直轄地になりました。
まとめ
長崎がイエズス会の領地になったのは、龍造寺の圧力に苦しんだ大村純忠が、港と貿易を守るために天正8年(1580)に寄進したのが始まりでした。有馬晴信も浦上を寄進し、長崎の一帯は武器もたくわえた教会の町になっていきます。九州攻めでそれを知った秀吉は、寺社の破壊や日本人の売買などとあわせてこれを問題にし、天正15年(1587)にバテレン追放令を出しました。翌年には長崎を取り上げて直轄地とし、教会の港は天下人の港に変わりました。
参考:長崎市「ナガジン!」キリシタンの町、長崎 町建てと教会遺構/国土交通省 観光庁多言語解説文データベース「長崎を中心とした日本のキリスト教史年表」

