黒田官兵衛はキリシタンだったのか|洗礼名シメオン、バテレン追放令のあと信仰はどうなったのか ─ 右近との選択のちがいと、如水のふたつの葬儀

中津城:黒田官兵衛が豊臣秀吉から拝領し築城した中津城(福沢諭吉は中津藩士)
この記事のポイント
  • 黒田官兵衛(孝高)はキリシタンでした。天正13年(1585)ごろ、高山右近や蒲生氏郷のすすめで洗礼を受け、洗礼名をシメオンといいました
  • 天正15年のバテレン追放令のあと、官兵衛は処罰されていません。表立った信仰は控えたとされますが、宣教師との縁は切れず、ひそかに保護を続けたことがイエズス会の記録からうかがえます
  • 弟の直之(洗礼名ミゲル)や子の長政も洗礼を受けており、黒田家は一族ぐるみでキリスト教とかかわっていました
  • 慶長9年(1604)に伏見で亡くなった官兵衛は、イエズス会の記録によれば、博多でキリスト教式の葬儀も営まれました

黒田官兵衛といえば、秀吉の天下取りを支えた軍師、晩年の名を如水という策士。その官兵衛が、十字架を胸にかけたキリシタン大名でもあったことは、あまり知られていないかもしれません。天正15年(1587)に秀吉がバテレン追放令を出したとき、官兵衛は豊前12万石の大名でした。高山右近が信仰のために領地を捨てたその日、官兵衛はどうしたのでしょうか。この記事では、官兵衛とキリスト教のかかわりを、入信から最期までたどります(黒田官兵衛とは)。

中津城:黒田官兵衛が豊臣秀吉から拝領し築城した中津城(福沢諭吉は中津藩士)
官兵衛が豊前で築いた中津城(中津城)
目次

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いつ洗礼を受けたのか ─ 右近と氏郷のすすめ

官兵衛が洗礼を受けたのは、天正13年(1585)ごろとされます。すすめたのは、秀吉の家臣仲間だった高山右近と蒲生氏郷でした。右近は熱心な信者で、まわりの大名をつぎつぎと信仰に導いた人物です。洗礼名はシメオン。宣教師たちの書簡では「ドン・シメオン」と呼ばれています(高山右近とは、蒲生氏郷とは)。

官兵衛がなぜ入信したのか、本人の言葉は残っていません。ただ、宣教師たちの記録には、官兵衛が熱心に説教を聞き、まわりの人びとにも信仰をすすめたことが記されています。九州攻めでは、官兵衛はキリシタン大名の多い九州の事情に通じた人物として、秀吉軍の先導役も務めました。

黒田家とキリスト教

人物 洗礼名 その後
黒田官兵衛(孝高・如水) シメオン 追放令後は表立った信仰を控えたとされるが、宣教師との縁は保った
黒田直之(官兵衛の弟) ミゲル 筑前秋月を治め、領内に教会を建てたと伝わる。生涯信仰を守った
黒田長政(官兵衛の子) ダミアン のちに信仰を離れ、江戸幕府の禁教令のあとは領内のキリシタンを取りしまった

黒田家では、官兵衛だけでなく、弟や子も洗礼を受けていました。なかでも弟の直之は、生涯信仰を守り続けた人物として、宣教師たちの記録にたびたび登場します(黒田長政とは)。

バテレン追放令のその日

天正15年6月、秀吉は筑前の筥崎でバテレン追放令を出しました。その前日、秀吉は高山右近に、信仰を捨てるか領地を捨てるかを迫り、右近は領地を捨てます(バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か)。

同じキリシタンでも、官兵衛は処罰されていません。追放令のあと、官兵衛は表立った信仰を控えたとされます。宣教師たちの記録のなかには、官兵衛が秀吉の前で信仰を捨てたかのようにふるまったと読めるものもあります。ただし、心の中で信仰を捨てたわけではなかったようで、その後も宣教師たちとの縁は続きました。

▽ よく語られる話
黒田官兵衛は、バテレン追放令をきっかけにキリスト教を捨てた。
▼ 史実ではこうです
追放令のあと、官兵衛が表立った信仰を控えたのは確かです。しかしイエズス会の記録では、その後も官兵衛が宣教師を助けたことがたびたび語られています。右近のように領地を捨てることはせず、大名としての立場を守りながら、ひそかに信仰とかかわり続けた、と見るのが自然です。
瀬戸内の島の庵で、十字架の前に正座して祈る武士のイメージ(イラスト)
信仰を守ろうとする武士のイメージ(イラスト)

なぜ右近は領地を捨て、官兵衛は捨てなかったのか

同じ日に同じ問いを突きつけられて、右近は信仰を、官兵衛は家を選んだように見えます。この差はどこから来たのでしょうか。

ひとつは、官兵衛の立場です。官兵衛はこのとき、九州攻めの功で豊前に入ったばかりで、国人たちの一揆という火種を抱えていました。実際、この年の秋には豊前でも国人一揆が起き、黒田家は苦しい戦いを強いられます。家と領国を守ることが、官兵衛にとって何よりの責任だったはずです(豊前国人一揆とは)。

もうひとつは、性格のちがいかもしれません。右近は、まっすぐに信仰をつらぬく人でした。官兵衛は、状況を読み、表と裏を使い分けることのできる人でした。どちらが正しいということではなく、ふたりの生き方のちがいが、そのまま天正15年の選択に表れたのだと思います。

✎ 筆者の考え
筆者は、官兵衛のこの選択を「棄教」と呼ぶのは少しちがうと感じています。家臣と領民を背負った大名が、表では秀吉に従い、裏では宣教師を見捨てなかった。そこには、軍師として生きてきた官兵衛らしい、したたかな信仰のかたちがあったのではないでしょうか。

如水の最期と、ふたつの葬儀

官兵衛は天正17年(1589)に家督を長政に譲り、如水と名のりました。関ヶ原の戦いののち、黒田家は筑前52万石を与えられ、博多の近くに福岡城を築きます(黒田官兵衛はなぜ天正17年に隠居したのか)。

福岡城:黒田長政 関ヶ原の功績で筑前52万石の太守へ 黒田家の居城 福岡城
黒田家の居城となった福岡城(福岡城跡)

慶長9年(1604)3月20日、如水は京の伏見で亡くなりました。59歳でした。イエズス会の記録によれば、如水は死の前に、博多の教会で葬ってほしいと望んだといいます。博多では宣教師たちの手でキリスト教式の葬儀が営まれ、一方で長政は仏式の葬儀も行いました。墓所は福岡の崇福寺などにあります。軍師の最期は、ふたつの信仰のあいだで見送られたのです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では倉悠貴さんが官兵衛を演じています。第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)では、キリシタン追放令に恨みを抱く者による刃傷沙汰が描かれるようです。追放令を出した秀吉のそばにいたキリシタン、官兵衛がどう描かれるのかにも注目です。放送後にこの枠を更新します。
▶ 第42回の背景をもっと知る

よくある質問

Q. 黒田官兵衛はキリシタンでしたか?
A. はい。天正13年(1585)ごろ洗礼を受け、洗礼名はシメオンでした。

Q. 官兵衛はバテレン追放令で処罰されましたか?
A. 処罰されていません。表立った信仰は控えたとされます。

Q. 官兵衛は信仰を捨てたのですか?
A. 表向きは控えましたが、その後も宣教師を助けたことがイエズス会の記録に残ります。

Q. 官兵衛の葬儀はキリスト教式でしたか?
A. イエズス会の記録によれば博多でキリスト教式の葬儀が営まれ、長政は仏式の葬儀も行いました。

まとめ

黒田官兵衛は、高山右近らのすすめで洗礼を受けたキリシタン大名でした。バテレン追放令のあと、右近が領地を捨てたのに対し、官兵衛は表立った信仰を控えて大名の座を守りました。それでも宣教師との縁は切れず、最期にはキリスト教式の葬儀も営まれています。信仰と家のあいだで、官兵衛は自分なりの答えを選んだのでしょう。

参考:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫/『イエズス会日本年報』/諏訪勝則『黒田官兵衛』中公新書

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