大友義統(吉統)のその後|朝鮮での撤退と改易、関ヶ原・石垣原の戦い、そして子孫は高家に

大分府内城:大友宗麟のお城で関ヶ原の戦い後竹中半兵衛の従弟竹中重利が入封 大分府内城
この記事のポイント
  • 大友義統(よしむね)は、大友宗麟の長男で、大友家22代当主です。秀吉から「吉」の字を与えられ、吉統とも名乗りました
  • 文禄2年(1593)、朝鮮出兵で小西行長が戦死したという誤報を信じて持ち場を捨てて退き、秀吉の怒りを買って豊後一国を取り上げられました(改易)
  • 関ヶ原の戦いでは西軍について豊後の奪回をめざしますが、石垣原の戦いで黒田如水に敗れ、常陸の宍戸に流されて慶長10年(1605)に亡くなりました
  • 大名としての大友家は終わりましたが、子の義乗は徳川家の旗本となり、次男の系統はのちに幕府の儀式をつかさどる「高家」として大友の名を伝えました

大友宗麟が大坂城で秀吉に助けを求めたことで、九州攻めが始まり、大友家は豊後を守りぬきました(大友宗麟の大坂城訪問)。しかし宗麟の死後、家を継いだ義統の代に、四百年近く豊後を治めてきた名門・大友家は、大名の座を失います。この記事では、義統が朝鮮で何をしてしまったのか、改易のあとどうなったのか、そして大友家の子孫はどうなったのかを紹介します。

大分府内城跡
大友家が治めた豊後の府内(大分府内城)
目次

大友義統とはどんな人物か

義統は永禄元年(1558)、大友宗麟の長男として生まれました。将軍・足利義昭から「義」の字を与えられて義統と名乗り、天正4年(1576)ごろ、父の隠居によって家督を継ぎます。ただし実権はその後も宗麟が握り、父と子の二人体制が続きました。

義統が当主となってまもない天正6年(1578)、大友家は耳川の戦いで島津に大敗します。家臣団は分裂し、国衆の離反も相次ぎました。江戸時代の軍記では、義統は「不明懦弱(おろかで気が弱い)」と評され、宣教師の記録には酒におぼれる様子も書かれています。ただしこれらは、改易という結果から厳しく描かれた面もあると考えられます。

九州攻めと豊後の安堵

天正14年(1586)、島津軍が豊後に攻め込むと、義統は戸次川の戦いの敗北のあと府内を捨てて逃れ、豊後の大半を島津に奪われました。翌天正15年、秀長の軍が豊後から日向へ進むと、義統もこれに加わって松尾城や高城を攻めています(根白坂の戦いで秀長は何をしたのか)。

島津が降伏すると、義統は秀吉から豊後一国と豊前宇佐郡の半分を安堵されました。このころ義統は、黒田孝高(官兵衛)の勧めで洗礼を受けますが、同じ年の6月に秀吉がバテレン追放令を出すと、すぐに信仰を捨てています。

天正16年(1588)、義統は上洛して秀吉に会い、羽柴の姓と、秀吉の「吉」の字を与えられて「吉統」と改めました。父・宗麟が秀吉に救いを求めて守った大友家は、こうして豊臣大名の一員になったのです。

臼杵城跡
宗麟が籠城した臼杵城の跡(臼杵城)

朝鮮での撤退 ─ 「逃げた」と言われた理由

文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮に大軍を送ります(朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をわかりやすく解説)。義統は黒田長政とともに三番隊として渡海し、朝鮮半島の北へ進みました。

文禄2年(1593)1月、明の大軍が平壌の小西行長を攻めました。義統は行長から救援を求められていましたが、行長が討死したという知らせを信じ、守っていた鳳山の城を捨てて退いてしまいます。ところが行長は生きていて、なんとか平壌を脱出していました。結果として、義統は味方を見捨てて逃げた形になったのです。

▽ よく語られる話
大友義統は、明軍を恐れて戦わずに逃げ出した臆病者で、そのため秀吉に改易された。
▼ 史実ではこうです
義統の撤退は、行長が戦死したという誤った知らせを信じたことがきっかけでした。改易の背景には、この失敗に加えて、前の年に九州で起きた梅北一揆に大友家の一族が関わったといううわさなど、秀吉が大友家に不信をいだいていたことがあったともいわれます。

文禄2年5月、改易

文禄2年(1593)5月1日、秀吉は義統の豊後一国を取り上げました。命だけは助けられ、義統は頭を丸めて「宗厳」と名乗ります。鎌倉時代から四百年近く豊後を治めてきた大友家は、こうして大名の座を失いました。豊後は豊臣家の直轄地となり、のちに分割されて、福原直高や竹中重利らに与えられています。

義統の身柄は、周防の毛利輝元、常陸の佐竹義宣などのもとに預けられました。嫡男の義乗は徳川家康のもとに預けられています。父の宗麟が秀吉の力で守った豊後を、子の義統は秀吉に取り上げられたことになります。

年 義統と大友家のできごと
永禄元年(1558) 大友宗麟の長男として生まれる
天正4年(1576)ごろ 家督を継ぐ(実権は宗麟)
天正15年(1587) 九州攻めののち、豊後一国などを安堵される。父・宗麟が亡くなる
天正16年(1588) 羽柴の姓と「吉」の字を与えられ、吉統と名乗る
文禄2年(1593)1月 朝鮮で鳳山の城を捨てて退く
文禄2年(1593)5月1日 豊後を取り上げられる(改易)
慶長4年(1599) 罪を許され、大坂に住む
慶長5年(1600)9月 石垣原の戦いで黒田如水に敗れ、降伏
慶長10年(1605)7月19日 常陸の宍戸で亡くなる。48歳

関ヶ原と石垣原の戦い ─ 最後の豊後奪回

慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、義統は翌年に罪を許され、大坂に屋敷を構えました。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起きると、義統は西軍の総大将・毛利輝元の支援を受けて、豊後を取り戻すために九州へ渡ります。旧臣の吉弘統幸は、東軍につくよう諫めましたが、義統は聞き入れなかったと伝わります。

豊後に上陸した義統のもとには、かつての大友家臣が集まりました。義統は東軍方の杵築城を攻めますが、9月13日、別府の石垣原で、中津から出陣してきた黒田如水(官兵衛)の軍と戦って敗れます(杵築城)。吉弘統幸は討死し、義統は頭を丸めて黒田方に降伏しました。奇しくも、関ヶ原で本戦が行われる2日前のことでした(黒田官兵衛(如水))。

杵築城
石垣原の戦いの前に義統が攻めた杵築城

晩年 ─ 常陸宍戸での最期

降伏した義統は、出羽の秋田実季に預けられ、慶長7年(1602)、実季が常陸の宍戸に移されると、義統も宍戸へ移りました。義統はこの地で、大友家に伝わる古文書を整理し、『大友家文書録』にまとめたとされます。没落した名門の記録がいまに伝わっているのは、この仕事のおかげです。

慶長10年(1605)7月19日、義統は宍戸で亡くなりました。48歳でした。

大友家の子孫はどうなったのか

大名としての大友家は義統の代で終わりましたが、その血筋は江戸時代にも続いていきます。

嫡男・義乗 ─ 徳川家の旗本に

義統の嫡男・義乗は、改易のあと徳川家康のもとに預けられ、のちに徳川家の家臣として仕えました。改易された大名の子が、徳川家の旗本として家を保ったのです。

次男・松野正照 ─ 細川家の重臣に

義統の次男とされる正照は、「松野」と姓を改め、肥後の細川家に仕えて3000石を与えられました。宗麟の孫が、かつて大友家と九州を争った肥後の地で、重臣として生きたことになります。

高家・大友家 ─ 大友の名を江戸に伝える

正照の子・義孝は、元禄元年(1688)、幕府の「高家」に取り立てられ、大友の姓を名乗りました。高家は、朝廷への使いや幕府の儀式をつかさどる名門の家柄で、吉良上野介で知られる吉良家もその一つです。大友家は、高家として江戸時代を通じて家名を保ったとされます。

子孫 江戸時代の立場
大友義乗(嫡男) 徳川家に仕え、旗本となる
松野正照(次男とされる) 肥後細川家の家臣、3000石
大友義孝(正照の子) 元禄元年(1688)高家に取り立てられ、大友姓を名乗る

豊後の大名としての大友家は、宗麟の死からわずか6年で終わりました。それでも、その名は高家として江戸時代を生き抜いたのです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では、秀長が総大将となる九州攻めで、大友宗麟や義統が登場するかが注目です。義統の改易は秀長の死後の出来事のため、ドラマで描かれるかはわかりません。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 大友義統の読み方は?
A. 「おおとも よしむね」です。秀吉から「吉」の字を与えられ、「吉統」とも名乗りました。

Q. 大友義統はなぜ改易されたのですか?
A. 文禄2年(1593)、朝鮮出兵で小西行長が戦死したという誤報を信じ、守っていた鳳山の城を捨てて退いたことを秀吉にとがめられました。秀吉の大友家への不信も背景にあったといわれます。

Q. 大友義統は関ヶ原でどうなったのですか?
A. 西軍について豊後に戻り、慶長5年9月13日の石垣原の戦いで黒田如水に敗れて降伏しました。

Q. 大友義統はいつ、どこで亡くなりましたか?
A. 慶長10年(1605)7月19日、流された常陸の宍戸で亡くなりました。48歳でした。

Q. 大友家の子孫はどうなりましたか?
A. 嫡男の義乗は徳川家の旗本となり、次男とされる松野正照は肥後細川家の家臣になりました。正照の子・義孝は元禄元年(1688)に高家に取り立てられ、大友の姓を名乗っています。

まとめ

大友義統は、父・宗麟が秀吉の力を借りて守った豊後を、朝鮮出兵での撤退をとがめられて失いました。関ヶ原では豊後の奪回をめざしましたが、石垣原で黒田如水に敗れ、常陸の宍戸で生涯を終えます。それでも大友家の血筋は、旗本や細川家の家臣、そして高家として江戸時代に受け継がれました。宗麟の大坂城訪問から始まった大友家と豊臣政権の関わりは、こうして幕を閉じたのです。

参考:『大友家文書録』/『大分県史』/『寛政重修諸家譜』/「大友氏」(『日本大百科全書』)

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