「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」は本当か|言ったのは秀吉ではなく秀長 ─ 出典の大友宗麟の手紙、原文と現代語訳、よくある3つの誤解【豊臣兄弟!】

二畳の草庵茶室で黒楽茶碗を前に座す千利休(イメージ・イラスト)
この記事のポイント
  • 「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候」は、史料に残る言葉です。天正14年(1586)4月、大坂城を訪れた大友宗麟が、国もとの家臣にあてた手紙に書き残しました
  • よく「秀吉の言葉」として紹介されますが、手紙によれば、言ったのは秀吉ではなく弟の秀長です。秀長は宗麟の手を取って、この言葉をかけました
  • 「宗易」は千利休、「宰相」は秀長のことです。秀長は前年の天正13年10月に参議となっており、参議の別名が「宰相」でした
  • ただし、これは豊臣政権の正式な役割分担を定めた言葉ではありません。助けを求めて来た宗麟を安心させるために、秀長がかけた言葉として読むのが自然です

「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」。豊臣秀長と千利休について調べると、必ずといってよいほど出てくる有名な言葉です。「内々のことは利休に、公のことは秀長に」という意味で、豊臣政権を支えた二人の役割を表す言葉として紹介されます。では、この言葉は本当に言われたのでしょうか。誰が、誰に、どんな場面で言ったのでしょうか。この記事では、出典の手紙と原文、よくある誤解を整理します。言葉が生まれた大友宗麟の大坂城訪問そのものは、大友宗麟の大坂城訪問(天正14年)でくわしく書いています。

目次

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結論 ─ 本当に言われた言葉。ただし言ったのは秀長

よくある疑問 答え
本当に言われた言葉か 大友宗麟の手紙に書き残されている
誰が言ったのか 秀長(秀吉ではない)
誰に言ったのか 豊後の大友宗麟
いつ、どこで 天正14年(1586)4月、大坂城
「宗易」とは 千利休(宗易は利休の法名)
「宰相」とは 秀長(参議の別名。秀長は天正13年10月に参議となった)

この言葉は、後の時代に作られた逸話ではなく、その場にいた大友宗麟本人が、すぐあとに書いた手紙に出てくるものです。その意味で、「本当に言われた言葉」と考えてよいでしょう。ただし、伝え聞いたのは宗麟一人で、ほかの記録で確かめることはできません。また、この手紙は主に、江戸時代に大友家の文書をまとめた『大友家文書録』などの写しで知られています。

原文と現代語訳

宗麟の手紙では、秀吉が宗麟の願いを聞き入れたあと、秀長が宗麟の手を取って、次のように語ったと書かれています。

何事も何事も、美濃守かくの如く候間、心安かるべく候。内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候。御為に悪しき事は、これあるべからず候。

原文 現代語にすると
何事も何事も、美濃守かくの如く候間、心安かるべく候 何ごとも、この美濃守(秀長)がこうしておりますので、安心なさってください
内々の儀は宗易 内々のこと(表に出ない相談ごと)は、宗易(利休)が
公儀の事は宰相存じ候 公のことは、宰相(この秀長)が承知しております
御為に悪しき事は、これあるべからず候 あなたのためにならないようなことは、決してありません

この言葉は、前後を通して読むと意味がよくわかります。最初の「美濃守」も、あとの「宰相」も、どちらも秀長自身のことです。秀長は、自分のことを官職名で呼びながら、「わたしがついているから大丈夫です」と宗麟を励ましているのです。

金の柱と壁、赤い障子と畳の黄金の茶室のイメージイラスト
この日、宗麟は秀吉に黄金の茶室も見せられ、手紙にその見事さを書いています(イメージ)

誤解① 秀吉の言葉ではない

この言葉は、「秀吉は『内々のことは利休に、公のことは秀長に』と言った」と紹介されることがよくあります。豊臣政権の主は秀吉なので、秀吉が二人の役割を決めた言葉だと受けとられやすいのでしょう。

しかし宗麟の手紙では、この言葉を口にしたのは秀長です。秀吉との対面が終わったあと、秀長が宗麟の手を取って語りかけた場面で出てきます。秀長が自分と利休のことを、宗麟に紹介した言葉なのです。

▽ よく語られる話
秀吉が「内々のことは利休に、公のことは秀長に任せる」と、二人の役割を定めた言葉。
▼ 史実ではこうです
宗麟の手紙によれば、言ったのは秀長です。秀長が、自分を「宰相」と官職名で呼んで、宗麟に「公のことはわたしが、内々のことは利休が引き受けます」と伝えた言葉でした。

「宰相」とは ─ 秀長はなぜ「宰相」と呼ばれたのか

「宰相」は、朝廷の官職である「参議」の別名(唐名)です。秀長は天正13年(1585)10月、秀吉が宮中に参内したときに従三位参議に任じられました。宗麟が大坂城を訪れた天正14年4月には、秀長は「宰相」だったことになります。

一方、手紙の最初に出てくる「美濃守」も秀長のことです。秀長は天正11年(1583)ごろから「美濃守」を名のっていました。手紙の中で同じ人物が「美濃守」とも「宰相」とも呼ばれているのは、このためです。その後、秀長は天正15年8月に権大納言となり、「大和大納言」と呼ばれるようになります(秀長は北野大茶湯で何をしていたのか)。

時期 秀長の呼び名
天正11年ごろ〜 美濃守
天正13年10月〜 宰相(従三位参議)
天正15年8月〜 大和大納言(従二位権大納言)

誤解② 政権の正式な役割分担ではない

この言葉から、「豊臣政権では、表の政治は秀長、裏の政治は利休」という二人の分担が決まっていた、と説明されることもあります。たしかに、秀長と利休が秀吉のそばで大きな力を持っていたことは、この言葉からよくわかります。

ただし、これは政権のしくみを定めた文書ではなく、宗麟という一人の大名にかけた言葉です。島津に追いつめられ、すがる思いで大坂まで来た宗麟に、「何かあればわたしと利休に言ってください。悪いようにはしません」と伝えた、という場面を思い浮かべると自然です。

豊臣政権では、大名と秀吉のあいだに立って話をつなぐ役目を「取次(とりつぎ)」といいました(豊臣政権の「取次」とは何か)。秀長は、九州や四国の大名たちの取次として重要な役割を果たしていました。この言葉は、秀長が九州の大名の宗麟に、自分が取次になることを約束した言葉と読むこともできます。

郡山城の石垣の上から城下と奈良盆地を見わたす秀長のイメージイラスト
大和郡山城の秀長(イメージ)

誤解③ 利休が政治を牛耳っていた証拠とはいえない

「内々の儀は宗易」という部分から、利休が政治の裏側で大きな力をふるっていた、と説明されることもあります。宗麟は同じ手紙の中で、利休でなければ関白(秀吉)に一言も申し上げられる人はいないように見えた、という意味のことも書いているとされます。利休が秀吉のすぐそばにいて、ほかの人では言いにくいことも取りつげる立場だったことは確かでしょう。

しかし、利休が政治を思いのままに動かしていたとまでは、この言葉からは言えません。利休はあくまで茶頭として秀吉の身近にいた人物で、大名たちとの茶会を通じて、内々の相談の窓口になっていた、というのが実際に近いと考えられます(天下三宗匠とは)。

二畳の草庵茶室で黒楽茶碗を前に座す千利休のイメージイラスト
千利休(イメージ)

その後の二人 ─ 秀長の死と利休の切腹

宗麟の大坂城訪問から5年後の天正19年(1591)正月22日、秀長は大和郡山城で亡くなりました(豊臣秀長の死因は何だったのか)。そしてわずか1か月後の2月28日、利休は秀吉の怒りを買って切腹します(秀吉はなぜ千利休を切腹させたのか)。

「公儀」の秀長と「内々」の利休。宗麟に語られた二人が、ほぼ同時に政権から姿を消したことになります。秀長の死が、利休の後ろ盾を失わせたという見方はよく知られています。この言葉が有名になったのは、二人がそろっていたころの豊臣政権の姿を、一言で伝えているからでしょう。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では、仲野太賀さんが秀長を、吉岡秀隆さんが千利休を演じています。11月1日(日)放送予定の第42回「北野大茶湯」では、利休が秀長に意味深な言葉をかける場面があると伝えられています。「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」の場面がドラマで描かれるかどうかはわかりませんが、秀長と利休の関係がどう描かれるのかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」は誰の言葉ですか?
A. 豊臣秀長の言葉です。天正14年(1586)4月、大坂城を訪れた大友宗麟に、秀長が手を取って語ったと、宗麟の手紙に書かれています。秀吉の言葉として紹介されることがありますが、手紙では秀長です。

Q. 「宰相」とは誰のことですか?
A. 秀長のことです。「宰相」は参議の別名で、秀長は天正13年10月に従三位参議となっていました。

Q. 「宗易」とは誰のことですか?
A. 千利休のことです。宗易は利休の法名で、「利休」の号は天正13年ごろから使われました。

Q. この言葉の出典は何ですか?
A. 大友宗麟が天正14年4月、国もとの家臣にあてた手紙です。主に江戸時代にまとめられた『大友家文書録』などの写しで知られています。

Q. どういう意味ですか?
A. 「内々のことは利休が、公のことはわたし(秀長)が承知しています。あなたのためにならないことはしません」という意味で、助けを求めてきた宗麟を安心させる言葉でした。

まとめ

「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候」は、天正14年4月、大坂城を訪れた大友宗麟が国もとへの手紙に書き残した、史料に残る言葉です。言ったのは秀吉ではなく秀長で、「宰相」は参議となっていた秀長自身のことでした。政権の正式な役割分担というより、宗麟を安心させるための言葉でしたが、秀長と利休が秀吉のそばで大きな役割を担っていたことをよく伝えています。その二人は、天正19年、ひと月のうちに相次いで政権から姿を消しました。

参考:大友宗麟書状(天正14年4月6日)『大友家文書録』/桑田忠親『千利休』/『公卿補任』

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