- 家康の正室となった旭(あさひ、旭姫)は、駿府ではなく京都で亡くなりました。天正18年(1590)1月、聚楽第でのことで、48歳でした
- 旭は天正14年(1586)5月に浜松の家康に嫁ぎ、家康が本拠を移すと駿府で暮らして「駿河御前」と呼ばれました
- 天正16年(1588)、母の大政所が病に倒れたため、旭は見舞いのために京へのぼり、そのまま聚楽第にとどまりました
- なぜ駿府に戻らなかったのかを直接記した史料はありません。母の看病、旭自身の体調、家康もたびたび京に滞在していたことなどが理由として考えられます
家康に嫁いだ旭は、輿入れからわずか4年足らずで亡くなりました。その最期の地は、夫の家康がいる駿府ではなく、京都の聚楽第です。『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」で、あさひ(倉沢杏菜)は笑顔で家康のもとへ嫁いでいきました。では、なぜ旭は駿府ではなく京で生涯を閉じたのでしょうか。旭の4年間をたどりながら考えます(旭姫(朝日姫)の生涯)。
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輿入れから最期までの4年間
まずは旭の晩年を年表で見てみましょう(あさひと副田吉成の離縁、ドラマと史実はどう違う?)。
| 年 | 旭の年齢 | できごと |
|---|---|---|
| 天正14年(1586)5月 | 44歳 | 浜松の家康に嫁ぐ |
| 天正14年10月 | 44歳 | 母の大政所が岡崎に入り、旭と再会する |
| 天正14年12月 | 44歳 | 家康が本拠を駿府に移す。旭も駿府へ |
| 天正16年(1588) | 46歳 | 母の大政所の病を見舞うため、京へのぼる |
| 天正16年以降 | 46〜48歳 | 駿府には戻らず、聚楽第で暮らす |
| 天正18年(1590)1月 | 48歳 | 聚楽第で亡くなる |
駿府の「駿河御前」
旭が嫁いだとき、家康の本拠は遠江の浜松でした。その年の12月、家康は秀吉に臣従した直後に本拠を駿府へ移し、旭も駿府で暮らすようになります。旭は「駿河御前」と呼ばれ、家康の正室として、豊臣家と徳川家をつなぐ役目を担いました(家康の本拠はなぜ岡崎・浜松・駿府・江戸と変わったのか)。

ただ、家康には側室や子どもたちがすでにいて、44歳で嫁いだ旭が家康の跡継ぎを産むことは考えにくい状況でした。旭の役目は、秀吉の妹として徳川家にいること、それ自体にあったといえます(徳川家康の妻たち一覧)。
母の病と、京へのぼった旭
天正16年(1588)、母の大政所が病に倒れました。旭は見舞いのために京へのぼり、母のいる聚楽第に入ります。そしてその後、旭が駿府に戻ることはありませんでした。母のそばで暮らした旭は、天正18年1月、聚楽第で48年の生涯を閉じます(大政所(なか)とは)。
なぜ駿府に戻らなかったのか
旭が駿府に戻らなかった理由を、はっきり書き残した史料はありません。考えられる理由を挙げると、次のようになります。
| 考えられる理由 | 内容 |
|---|---|
| 母の看病 | 大政所の病が長引き、娘としてそばにいる必要があった |
| 旭自身の体調 | 旭も体を壊していて、長い旅ができなかった可能性がある |
| 家康の在京 | 聚楽第行幸のあと、家康もたびたび京に滞在しており、夫婦が京で会うこともできた |
| 役目の変化 | 家康の臣従が固まり、旭が駿府にいなくても両家の関係が保たれるようになった |
二つの墓 ─ 京の南明院と駿府の瑞龍寺
旭の墓は、京都の東福寺の塔頭・南明院にあります。旭の法名にもこの寺の名がつけられました。一方、駿府(いまの静岡市)の瑞龍寺にも旭の墓が伝わります。京で亡くなった旭は、豊臣の妹として京に眠り、徳川の正室として駿府でもまつられたのです(駿府城跡)。
旭が亡くなった2年後の天正20年(文禄元年)、母の大政所も聚楽第で世を去りました。豊臣家と徳川家をつなぐために岡崎と駿府へ送られた母と娘は、最後は二人とも京で生涯を終えたことになります。
よくある質問
Q. 旭姫はどこで亡くなりましたか?
A. 京都の聚楽第で亡くなりました。天正18年(1590)1月、48歳でした。
Q. 旭姫はなぜ京都にいたのですか?
A. 天正16年、母の大政所の病を見舞うために京へのぼり、そのまま聚楽第にとどまりました。
Q. 旭姫のお墓はどこにありますか?
A. 京都・東福寺の南明院にあります。静岡市の瑞龍寺にも墓が伝わります。
Q. 旭姫と家康の仲は悪かったのですか?
A. 仲が悪かったことを示す確かな史料はありません。
まとめ
旭は家康の正室として駿府で暮らしましたが、天正16年に母の大政所の病を見舞うために京へのぼり、そのまま聚楽第にとどまって、天正18年1月に48歳で亡くなりました。駿府に戻らなかった理由ははっきりしませんが、母の看病や自身の体調、家康の在京などが考えられます。政略のために嫁いだ旭は、最後は母のそばで生涯を終えたのです。
参考:『多聞院日記』/『家忠日記』/黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』KADOKAWA/福田千鶴『豊臣家の女たち』岩波新書

