家康の本拠はなぜ岡崎・浜松・駿府・江戸と変わったのか|移った年と理由、臣従の直後に駿府へ移ったわけ、信長の城移りとの比較

浜松城の復興天守
この記事のポイント
  • 徳川家康は、生涯で本拠を岡崎→浜松→駿府→江戸と移し、最後は大御所として再び駿府に戻って亡くなりました
  • 浜松への移転(元亀元年・1570)は、武田信玄との最前線に出るためでした。攻める方向に本拠を進めるやり方は、同盟相手の織田信長と似ています
  • 駿府への移転(天正14年・1586)は、秀吉に臣従した直後です。東の北条家ににらみをきかせつつ、豊臣政権の「東国の取りまとめ役」として動くための位置でした
  • 江戸への移転(天正18年・1590)は、秀吉の命による関東移封でした。自分で選んだ移動と、命じられた移動が混ざっているのが、家康の城移りの特徴です

家康の本拠は、生涯で何度も変わりました。岡崎、浜松、駿府、江戸、そして再び駿府。どの城に、いつ、なぜ移ったのかを追うと、家康が置かれた立場の変化がよく見えてきます。『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」で家康が上洛するとき、本拠はまだ浜松でした。臣従のあと、家康は駿府へ移ります。この記事では、家康の本拠の移り変わりを、それぞれの理由とともにたどります(家康の野望とは?いつから天下を狙っていたのか)。

目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

家康の本拠の移り変わり

まずは一覧で見てみましょう。駿府には、人質時代、天正14年からの数年、そして晩年の三度暮らしています(駿府城跡)。

本拠 移った年 年齢 なぜ移ったのか
岡崎城 永禄3年(1560) 19歳 桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、生まれた城に戻って独立
浜松城 元亀元年(1570) 29歳 武田信玄に備え、遠江の最前線に出るため
駿府城 天正14年(1586) 45歳 秀吉に臣従した直後。東国を見わたす位置へ
江戸城 天正18年(1590) 49歳 秀吉の命による関東移封
駿府城 慶長12年(1607) 66歳 将軍職を秀忠に譲り、大御所として移る。元和2年(1616)にここで亡くなる

岡崎 ─ 生まれた城で独立する

家康は天文11年(1542)、三河の岡崎城で生まれました。6歳から人質として城を離れ、19歳の永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、空き城になっていた岡崎城に戻ります。ここから家康は今川家を離れて独立し、信長と同盟を結びました。岡崎は、家康がようやく手にした「自分の城」でした(岡崎城)。

浜松 ─ 武田に備えて最前線へ

遠江を手に入れた家康は、元亀元年(1570)、本拠を遠江の曳馬城に移し、名を浜松と改めました。岡崎は長男の信康に任せます。東の武田信玄が遠江・三河をうかがう中で、家康自身が最前線に出て守りを固めるための移転でした。2年後、家康はこの浜松城の近くで、三方ヶ原の戦いに大敗します(浜松城、三方ヶ原の戦いとは)。

浜松時代は17年近く続き、家康の30代と40代のほとんどがここで過ぎました。武田家の滅亡、本能寺の変、甲斐・信濃の獲得、小牧・長久手の戦い、そして秀吉への臣従まで、家康が大きく伸びた時代の本拠です。

駿府城/アクセス・場所・地図 室町幕府より今川家が拝領し戦国時代以降は今川義元・徳川家が領した駿府城
家康が三度暮らした駿府城の跡(駿府城跡)

駿府 ─ 臣従の直後に移った理由

天正14年(1586)10月、浜松から上洛して秀吉に臣従した家康は、その年の12月、本拠を駿府に移しました。駿府は少年時代に人質として過ごした土地で、今川家の本拠だった町です。三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国を治めるには、浜松より東の駿府のほうが真ん中に近く、関東の北条家ににらみをきかせる位置でもありました。臣従によって、家康は豊臣政権の「東国の取りまとめ役」を任されています。駿府への移転は、その新しい役目に合わせた動きだったといえます(臣従した家康は何を得たのか)。

江戸 ─ 命じられた関東移封

天正18年(1590)、小田原の北条家が滅ぶと、秀吉は家康に北条家の旧領である関東への国替えを命じました。家康は先祖代々の三河をはじめとする五か国を離れ、8月1日に江戸城に入ります。当時の江戸城は、北条家の支城の一つにすぎない小さな城でした。ここから家康は、城と町の大改造を進めていきます(江戸城)。

関東移封は、家康を京から遠ざけるための秀吉の策だったともいわれます。しかし関東は、北条家が五代かけて治めた広く豊かな土地でした。家康はここで約250万石という最大の領国を手にし、のちの江戸幕府の土台を築きます(北条家の領国とは)。

▽ よく語られる話
家康は、先を見こして自分から江戸を本拠に選んだ。
▼ 史実ではこうです
江戸への移転は、秀吉の命による関東移封でした。家康が自分で選んだわけではありません。ただ、関東の中でどこを本拠にするかについては、小田原や鎌倉ではなく、水運に恵まれた江戸を選んだのは家康の判断だったとする見方があります。

信長の城移りと比べると

同盟相手の織田信長は、那古野・清須・小牧山・岐阜・安土と、攻める先に合わせて本拠を前へ前へと移した人でした。家康が浜松に出たのも、武田との最前線に本拠を置くという点で、信長と同じ考え方です。家康は二十年にわたる同盟の中で、信長のやり方を間近で見ていました。

反対に、上杉謙信は生涯春日山を、武田信玄は甲府の躑躅ヶ崎館を、北条家は五代にわたって小田原を本拠とし続けました。自分の国を固めて外へ打って出る「動かない型」です。家康は、浜松までは信長と同じ「動く型」でした。

一方で、家康の駿府と江戸への移転は、秀吉との関係の中で決まったものでした。自分で前へ出る移転と、天下人の都合で決まる移転。その両方を経験しながら、家康は最後に、自分で選んだ駿府に戻って大御所として天下を見わたし、そこで生涯を終えます。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第41回「家康の野望」は10月25日(日)放送予定です。家康が上洛するとき、本拠はまだ浜松です。大政所が人質として向かう先は、家康の領国の西の要である岡崎でした。放送後にこの枠を更新します。

戦国大名が本拠を移したかどうかの違いは、戦国大名は本拠を移したのかで比べています。

あわせて読みたい:「家康の野望」とは何か?第41回のタイトルを4つの候補から予想する

あわせて読みたい:秀吉はなぜ家康に関東を任せたのか(関東・奥両国惣無事)

あわせて読みたい:徳川家康の官位の移り変わり

よくある質問

Q. 家康は本拠をどう移したのですか?
A. 岡崎→浜松→駿府→江戸と移り、晩年に大御所として再び駿府に戻りました。

Q. 家康が秀吉に臣従したとき、本拠はどこでしたか?
A. 浜松です。臣従の直後、天正14年12月に駿府へ移りました。

Q. 家康が江戸に入ったのはいつですか?
A. 天正18年(1590)8月1日です。

Q. 家康はどこで亡くなりましたか?
A. 元和2年(1616)、駿府城で亡くなりました。

まとめ

家康の本拠は、独立の城・岡崎、武田と向き合う最前線・浜松、臣従後に東国を見わたす駿府、命じられて移った江戸、そして晩年の駿府と移り変わりました。最前線へ自分で出ていく信長型の移転と、天下人との関係で決まった移転。その両方が混ざった家康の城移りは、三河の小大名から天下人へと立場を変えていった家康の歩みそのものです。

参考:『家忠日記』/『当代記』/『徳川実紀』/柴裕之『徳川家康』平凡社

  • URLをコピーしました!
目次