秀吉に従った大名は、家康だけではありません。上杉景勝、毛利輝元、島津義久、北条氏、伊達政宗。それぞれが「上洛して秀吉に会う」ことで臣従を示しました。結論からいうと、天正14年の家康の上洛は、上杉景勝に次ぐ早い時期で、しかも秀吉が母を人質に出すほどの特別扱いでした。毛利の当主の上洛は2年後、北条は代理の氏規を出すまで2年かかり、最後まで当主が来なかった北条は攻められます。この記事では、主な大名が臣従した時期と、そのときの条件を比べます。
- 臣従のしるしは「上洛して秀吉に会うこと」。会えば家と領国は認められた
- 家康より先に自ら上洛したのは上杉景勝(天正14年6月)。家康は10月で、毛利輝元は天正16年
- 秀吉が人質(大政所)まで出したのは家康だけ。それだけ家康を重く見ていた
- 上洛を引き延ばした北条は小田原攻めで滅び、伊達政宗はぎりぎりで小田原に参陣して家を守った
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なぜ「上洛」が臣従のしるしだったのか
天正13年に関白となった秀吉は、天皇の権威を背に、全国の大名に「京か大坂へ上って来い」と求めました。大名が自ら出向いて秀吉にあいさつすることが、その大名を豊臣政権の一員と認める手続きになったのです。秀吉が関白になった理由は秀吉はなぜ関白になったのかで書いています。
逆に、いつまでも上洛しない大名は、命令に従わない者として攻める理由にされました。上洛は単なるあいさつではなく、戦うか従うかを決める分かれ道でした。秀吉が各地に出した停戦の命令については豊臣平和令とはにまとめています。
主な大名はいつ臣従したのか
主な大名が秀吉に従った時期を並べます。日付は史料によって前後し、諸説あるものもあります。
| 大名 | 臣従・上洛の時期 | きっかけ | その後 |
|---|---|---|---|
| 長宗我部元親 | 天正13年(1585)夏 | 四国攻めで降伏 | 土佐一国を安堵 |
| 上杉景勝 | 天正14年(1586)6月 | 自ら上洛して大坂で秀吉に会う | 越後などを安堵。関東・奥羽への押さえ役に |
| 徳川家康 | 天正14年(1586)10月 | 旭姫を正室に迎え、大政所が人質として岡崎へ | 5か国を安堵。正三位に叙される |
| 島津義久 | 天正15年(1587)5月 | 九州攻めで降伏 | 薩摩・大隅などを安堵 |
| 毛利輝元 | 天正16年(1588)7月 | 自ら上洛して聚楽第で秀吉に会う | 中国地方の大大名として残る |
| 北条氏(氏規) | 天正16年(1588)8月 | 当主ではなく氏規が代わりに上洛 | 当主が来ず、天正18年に小田原攻め |
| 伊達政宗 | 天正18年(1590)6月 | 小田原攻めの陣に遅れて参陣 | 会津などを取り上げられたが家は残る |
九州の島津がどう降伏したかは九州攻めはどう終わったのかで、長宗我部と島津が家康と違う結果になった理由は家康は引き分けたのに、なぜ長宗我部と島津は秀吉に敗れたのかで比べています。
家康より先に来た上杉景勝
家康より早く自ら上洛したのが、越後の上杉景勝です。景勝は天正14年6月に上洛し、大坂で秀吉に会いました。景勝は本能寺の変のあと、北陸の柴田勝家や関東の北条と向き合う中で、早くから秀吉と手を結んでいました。上洛は、その流れの仕上げでした。
この上洛は、家康にとっても重い意味を持ちました。北の上杉が秀吉と固く結んだことで、家康は西と北の両方から秀吉方に囲まれる形になったからです。景勝は上洛中に、秀吉と北条への対応について話し合ったとみられています。家康と秀吉の国力の差は臣従したころ、家康と秀吉の国力の差で書いています。

家康だけが受けた特別扱い
景勝は自ら大坂へ出向きましたが、家康はなかなか腰を上げませんでした。秀吉は妹の旭姫を家康に嫁がせ、さらに母の大政所を人質として岡崎へ送ります。家康は天正14年10月、ようやく大坂に上り、秀吉に臣従しました。
母を人質に出してまで大名を上洛させたのは、家康のときだけです。それだけ秀吉は家康を重く見ており、力で従わせるより、礼を尽くして迎えるほうを選びました。家康は臣従の見返りに、領国5か国をそのまま認められ、正三位権中納言に進みます。くわしくは臣従した家康は何を得たのかと「和睦」と「臣従」はどう違うのかをどうぞ。
2年遅れた毛利、来なかった北条
中国地方の毛利輝元は、本能寺の変のあと秀吉と和睦し、四国攻めや九州攻めにも兵を出して、豊臣方として働いていました。ところが当主の輝元が自ら上洛したのは、天正16年7月のことです。輝元は京で聚楽第を訪れ、手厚くもてなされました。早くから味方だった毛利でさえ、当主の上洛には時間がかかったのです。

最後まで当主が来なかったのが、関東の北条です。家康は臣従のあと、同盟相手だった北条にも上洛をすすめました。北条は天正16年8月、当主の氏直や隠居の氏政ではなく、一族の氏規を京へ送ります。しかし沼田の領地をめぐる争いなどもあって、氏政・氏直の上洛は実現しませんでした。北条は天正18年、小田原攻めで滅びます。氏規については北条氏規とは、家康と北条の関係は家康と北条氏政の会見(天正14年)で書いています。
ぎりぎりで間に合った伊達政宗
奥州の伊達政宗は、秀吉の停戦の命令に従わず、会津の蘆名氏を破って領国を広げていました。天正18年、秀吉が小田原を囲むと、政宗は迷った末に小田原の陣へ出向きます。遅れて来た政宗は会津などを取り上げられましたが、家は残されました。上洛や参陣をいつ決めるかが、大名の運命を分けたことがよく分かります。小田原攻めのことは小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのかをどうぞ。
家康の上洛は「遅すぎず、安くもなかった」
並べてみると、家康の上洛の時期と条件の選び方が見えてきます。家康の野望については「家康の野望」とは何か?で予想しています。
家康は景勝のようにすぐには行かず、秀吉が妹と母を差し出すまで粘りました。それでいて毛利や北条のように引き延ばしすぎず、天正地震で秀吉が攻めにくくなった機をとらえて和平に応じています。母を人質に取り、領国を守ったまま、豊臣政権の中で別格の地位を得る。家康の上洛は、遅すぎず、しかも安売りもしなかった、絶妙な一手だったと筆者は考えています。
第41回では、家康が上洛を決めるまでの駆け引きが描かれる見込みです。先に上洛した上杉景勝の話が、秀吉や家臣の口から出てくるかもしれません。「上杉はもう来たのに」という秀吉側のいらだちと、「母まで出させた」という徳川側の意地がぶつかる場面に注目です。回のあらすじは第41回あらすじ予想と史実にまとめています。
よくある質問
Q. 家康より先に秀吉に臣従した大名は誰ですか?
A. 四国攻めで降った長宗我部元親のほか、自ら上洛した大名では天正14年6月の上杉景勝が家康より先です。
Q. 毛利輝元はいつ上洛したのですか?
A. 天正16年7月です。早くから豊臣方として働いていましたが、当主の上洛はこの年まで遅れました。
Q. 北条はなぜ攻められたのですか?
A. 天正16年に一族の氏規を上洛させたものの、当主の氏直や隠居の氏政が上洛しなかったことなどから、天正18年に小田原攻めを受けました。
まとめ
秀吉に臣従するしるしは、上洛して秀吉に会うことでした。上杉景勝は天正14年6月に自ら上洛し、家康は同じ年の10月、秀吉に母を人質に出させたうえで上洛しました。毛利輝元は天正16年、北条は代理の氏規だけで当主が来ず、小田原攻めで滅びます。上洛の時期と条件の違いが、そのまま大名たちの豊臣政権での立場と運命を分けました。
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参考:「関東・奥両国惣無事」をめぐる研究論文(学習院大学)、各大名家の記録、各自治体の史跡解説

