あさひ(旭姫)の仮病は史実か|大政所の岡崎下向と「娘に会うため」という名目 ─ 史実では母が病み、娘が京で先に逝った

東海道を進む旭姫の花嫁行列のイメージイラスト

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回で、浜松のあさひ(旭姫)が熱を出して寝込みます。ところがそれは仮病でした。母の大政所が岡崎へ下るための口実を、娘が自分で作ったのです。この仮病は史実にありません。ドラマの創作です。ただし「娘に会うため」という名目そのものは史実にありました。そして史実の母娘は、病の向きが逆です。母が病み、娘が京へ見舞いに行き、その京で娘が先に亡くなりました。

※この記事の絵は、いずれも当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • あさひが仮病を使ったという記録は史料にありません。ドラマの創作です
  • いっぽう、大政所の岡崎下向が「嫁いだ娘の旭に会うため」という名目で行われたことは史実です
  • つまりドラマは、史実にあった建前を、娘自身が作ったものとして描き直しました
  • 史実では病の向きが逆で、母の大政所が病み、旭が京へ見舞いに行っています
  • そして旭は、その京で48歳で亡くなりました。見舞いに行った娘が、母より先に世を去ったことになります
  • 母娘が岡崎で実際に会えたのかを示す確かな記録はありません
御殿の一室で手を取り合う白髪の老婆と娘、障子の外に積まれた薪
岡崎で手を取り合う大政所と旭、障子の外には薪が積まれている(イメージイラスト)
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ドラマではこうだった

▽ 大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回
あさひ(倉沢杏菜)が浜松で熱を出して寝込みます。あさひは「母は、わたしの病で来てくれるのである」と語り、家康(松下洸平)も見舞いという名目を受け入れました。ところがそのあと、あさひはまったく病気ではないそぶりを見せます。仮病でした。母を呼ぶ口実を自分で作ったのです。
さらにあさひは「世間は、徳川を下すために豊臣が政所を差し出すと思うであろう」とも言っており、母が人質として下ることも、それが世間にどう見えるかも承知していました。知ったうえで、見舞いという形を整えたことになります。

史実ではこうだった

旭が病を装ったという記録は、史料に見当たりません。これはドラマの創作です。

いっぽうで、「娘に会うため」という名目そのものは史実にありました。天正14年10月18日、大政所は三河の岡崎に入ります。表向きは嫁いだ娘の旭に会うための訪問で、実際には家康が上洛しているあいだの人質でした。だから建前は、ドラマが発明したものではありません。ドラマがやったのは、その建前を誰が作ったのかという空白に、旭を置いたことです(大政所(なか)とは)。

そして徳川方も、見舞いという建前を信じてはいませんでした。岡崎では本多作左衛門が宿所のまわりに薪を積み、家康に万一のことがあれば火をかける構えを見せたと伝わります。見舞いに来た老母を、薪で囲んだわけです(本多作左衛門はなぜ大政所の宿所に薪を積んだのか)。

病の向きが、史実とドラマで逆になっている

ここがいちばんおもしろいところです。ドラマでは、娘が病のふりをして母を呼びました。史実では、母が病んで娘が駆けつけています。

▽ ドラマ(天正14年・岡崎)
娘の旭が仮病を使う。母の大政所が、見舞いという名目で三河の岡崎へ下る。母娘は再会し、母が「よう頑張ったね」と娘をねぎらう。
▼ 史実(天正17年から18年・京都)
母の大政所が病む。駿河にいた旭が京へ見舞いに向かう。そして旭は京で病み、天正18年正月、48歳で亡くなった。母の大政所は、娘を見送ってから2年あまり生き、77歳で世を去った。

同じ母娘で、同じ「見舞い」という言葉が、まったく逆向きに使われています。ドラマの旭は、母に会うために病を装いました。史実の旭は、母の病のために京へ行き、そこで本当に病んで死んでいます。嘘の病で母を呼んだ娘と、本当の病で母を残した娘。ドラマを見てから史実を知ると、この対比が効いてきます。

旭が浜松ではなく京で亡くなった経緯は旭姫はなぜ駿府ではなく京都で亡くなったのかにまとめています。嫁いでから4年。家康の正室として迎えられながら、徳川の土地では死んでいません。

母娘は、本当に会えたのか

岡崎で母娘が実際に顔を合わせたのかどうかを示す、確かな記録はありません。大政所が岡崎に入ったのは10月18日、家康が無事に大坂から戻ったあとに大政所は大坂へ帰っています。そのあいだに旭が浜松から岡崎へ出たのか、母が浜松まで足を延ばしたのか、記録が残っていないのです。

そもそも、嫁いだ娘が実家へ帰ることは簡単ではありませんでした。戦国に嫁いだ娘が実家へ戻れたのは限られた場合だけで、旭はそのどれにも当てはまりません。帰れないから、母のほうが会いに行く。この逆向きの見舞いについては戦国に嫁いだ娘は実家へ帰れたのかで扱いました。

なぜドラマは、旭に仮病を使わせたのか

創作には理由があります。史実の大政所の岡崎下向には、「誰がこの名目を考えたのか」という空白がありました。見舞いという建前は残っているのに、それを誰が言い出したかは記録にありません。ドラマはその空白に旭を入れたわけです。

そしてこれは、前の回からの続きになっています。第40回で、夫の副田吉成(前原瑞樹)は妻に未練を残させないために自分から密告し、わざと悪者になりました。優しい嘘です。あさひはそれを見抜いて、「あの人に会ったら、ありがとうと伝えて」と託しました(あさひと副田吉成の離縁、ドラマと史実はどう違う?)。

第41回のあさひは、その技を自分で使っています。嘘を渡される側だった人が、嘘を作る側に回った。しかも使い道は、母と兄を助けるためです。第40回で「自分にしかできないことを存分にやってみよう」と言って浜松へ来た人が、徳川の正室という立場でしかできないことをやった。病だと言えるのは、徳川の奥にいる人間だけですから。

回の終わりで、家康は「豊臣の女子はみな大したものじゃ」と言い、母は「よう頑張ったね」と娘をねぎらいました。仮病という創作は、この2つの言葉を言わせるために置かれたのだと思います。

よくある疑問

Q. あさひの仮病は史実ですか。
A. いいえ。旭が病を装ったという記録は史料にありません。ドラマの創作です。

Q. 大政所が岡崎へ行った名目は本当に「娘に会うため」でしたか。
A. はい。表向きはそうでした。実際には家康が上洛しているあいだの人質です。

Q. 旭は本当に病気だったことはありますか。
A. あります。天正18年正月、京で48歳で亡くなりました。母の大政所の見舞いのため京へ向かい、その京で世を去っています。

Q. 母と娘は岡崎で会えたのですか。
A. 会えたかどうかを示す確かな記録はありません。

まとめ

あさひの仮病は創作です。ただし、まったくの作り話ではありません。「娘に会うため」という名目は史実にあり、ドラマはその名目を誰が作ったのかという空白に旭を置きました。史実の建前を、人物の意思に変えた創作です。

そして史実の母娘は、病の向きが逆でした。母が病み、娘が京へ見舞いに行き、娘が先に死にます。嘘の病で母を呼んだドラマの旭と、本当の病で母を残した史実の旭。どちらも、母に会うために動いた人でした。旭の生涯は旭姫(朝日姫)の生涯、大政所については大政所(なか)とはをご覧ください。

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