石川数正は家康の謁見の場にいたのか|天正14年の大坂城、出奔から11か月 ─ 元の主君が秀吉に頭を下げた日、史実ではどうだったか

大坂城の大広間で秀吉に頭を下げる家康と、居並ぶ大名の後ろから見つめる石川数正のイメージ(イラスト)

天正14年(1586)10月、家康は大坂城で秀吉に臣従しました。そのとき、前の年に徳川家を出て秀吉に仕えた石川数正は、その場にいたのでしょうか。結論からいうと、数正がこの謁見の場にいたかどうかを示す確かな記録は見つかっていません。数正は豊臣の大名として大坂の近くにいた可能性は高いものの、秀吉が家康を丁重に迎えようとしていたことを考えると、表の謁見の場には出ていなかったか、目立たない位置にいたとみるのが自然です。

この記事のポイント
  • 数正が家康の謁見の場にいた、あるいはいなかったと書いた当時の記録は見当たらない
  • 出奔から1年たたず、数正は河内で8万石を与えられた豊臣の大名になっていたと伝わる
  • 秀吉は秀長の屋敷に泊めるなど、家康の面目を立てることに気を配っていた
  • 元の主君の前に数正を並べるのは、家康の顔をつぶすことになるため、表に出さなかったと筆者は考える
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出奔から上洛まで、わずか11か月

数正が岡崎城を出て秀吉のもとへ走ったのは、天正13年11月です。家康が大坂城で秀吉に対面したのは天正14年10月27日。そのあいだは1年足らずでした。数正が出奔した理由や、残した「書き置き」の話は石川数正の「書き置き」は史実かで書いています。

年月 数正 家康
天正13年11月 岡崎城を出て秀吉のもとへ 家臣団の配置を改め、軍法を武田流に改めたと伝わる
天正13年11月末 ─ 天正地震。秀吉の家康攻めが止まる
天正13年〜14年 河内で8万石を与えられ、豊臣の大名に(時期ははっきりしない) 秀吉と和平へ。旭姫を正室に迎える
天正14年10月 大坂の近くにいたとみられるが、動きの記録は乏しい 大坂へ上り、27日に秀吉に対面して臣従
天正18年 小田原攻めのあと信濃松本へ 関東へ移る

出奔のあと家康が家中をどう立て直したかは家康はなぜ軍法を「武田流」に改めたのかと石川数正が去った岡崎城は誰が守ったのかにまとめています。

冬の夜、灯明の下で巻物や帳面を前に評定する武将と家臣たちのイメージ(イラスト)
数正の出奔のあと、徳川家中で評定が開かれる様子のイメージ(イラスト)

大坂城の謁見はどんな場だったのか

家康は10月26日に大坂に着き、秀長の屋敷に泊まりました。その夜、秀吉が自ら訪ねてきて酒を酌み交わしたと伝わります(家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのか)。翌27日、大坂城で諸大名が居並ぶ中、家康は秀吉に臣従のあいさつをしました。このとき家康が秀吉の陣羽織を所望し、「もう殿下に鎧を着させない」と言ったという話もあります(家康の陣羽織の逸話は史実?)。

秀吉は、家康がきちんと頭を下げる姿を諸大名に見せたかった一方で、家康を辱めるようなことは避けていました。母の大政所を人質に出してまで迎えた相手です。謁見の場は、家康の面目を立てながら、天下に臣従を示すための、よく考えられた舞台だったといえます。家康が見た大坂城の姿は家康が見た大坂城で書いています。

秀長の屋敷で対面する家康と秀吉(イラスト)
秀長の屋敷で対面する家康と秀吉のイメージ(イラスト)

数正はその場にいたのか ─ 史実ではこうです

家康の上洛の様子は、徳川家臣の松平家忠の日記『家忠日記』などで追えます。しかし、その中に数正が謁見の場にいたと書いたものは見当たりません。逆に「いなかった」と書いたものもありません。同行した徳川の家臣については家康の上洛に従った家臣、岡崎に残った家臣にまとめています。

▽ よく語られる話
家康が大坂城で秀吉に頭を下げたとき、居並ぶ豊臣の大名の中に、かつての家老・石川数正の姿があった。
▼ 史実ではこうです
数正が謁見の場にいたことを示す確かな記録はありません。いたともいなかったとも言い切れず、ドラマや小説の場面は想像によるものです。

数正は、出奔のあと河内で8万石を与えられ、秀吉の一字をもらって「吉輝」と名のったとも伝わります。豊臣の大名ですから、大坂の近くにいた可能性は高いでしょう。ただ、出奔から上洛までの数正の動きは記録がとても少なく、どこで何をしていたかははっきりしません。数正の石高については石川数正の地位と石高はどれくらいだったのかでくわしく書いています。

なぜ表には出なかったと考えられるのか

記録がない以上、ここからは推測です。それでも、数正が謁見の場で目立つ位置にいたとは考えにくい理由がいくつかあります。数正とともに徳川を離れた信濃の小笠原貞慶のその後も、参考になります。

一つめは、秀吉の気づかいです。徳川を裏切って出た家臣を家康の前に並ばせれば、家康の面目をつぶし、徳川の家臣たちの怒りを買います。家康をていねいに迎えることに心をくだいた秀吉が、わざわざ波風を立てたとは思えません。

二つめは、徳川の家臣たちの感情です。上洛に反対した重臣も多く、数正への恨みはまだ強く残っていました。家康に付き従った家臣たちと数正が顔を合わせれば、騒ぎになるおそれもありました。

三つめは、数正自身の立場です。出奔したばかりの新参の大名が、元の主君の臣従の場で前に出るのは、本人にとっても居心地の悪いことだったはずです。数正が出奔に至るまでの徳川家中の空気は秀吉の人質要求と浜松評定で書いています。

▷ 筆者の考え

数正は大坂にいたとしても、表の謁見の場には出なかったか、居並ぶ大名の後ろのほうで目立たないようにしていたと筆者は考えています。家康も、数正がこの城のどこかにいることは分かっていたはずです。顔を合わせなかったとしても、子どものころから一緒だった家臣が相手方にいる中で頭を下げるのは、家康にとってこの上なく気まずい一日だったでしょう。

それでも、家康が数正を責めたという話は伝わっていません。のちに家康の関東の隣、信濃松本に置かれたあとも、二人が表立って対立した記録はありません。お互いに何も言わないまま、それぞれの立場を通したのだと思います。

その後の数正と家康

天正18年、小田原攻めのあと家康は関東へ移り、数正は信濃松本に入りました。家康を見張る位置に置かれたともいわれます。数正は朝鮮出兵のころに亡くなり、松本城の天守は子の康長の代に整えられたとみられます。石川家は江戸時代に入って改易されました。くわしくは石川数正のその後と松本城をどうぞ。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)

ドラマでは、出奔の場面で数正が家康に本音をもらす描き方がされ、「数正は家康のために出たのではないか」と思わせる人物になっています。第41回で、大坂城の謁見の場に数正が姿を見せるのか、それとも二人がどこかでひそかに向き合うのかが、見どころの一つになりそうです。描かれた場合は、放送後にこの欄を更新します。回のあらすじは第41回あらすじ予想と史実にまとめています。

よくある質問

Q. 石川数正は家康が秀吉に臣従した場にいたのですか?
A. いたことを示す確かな記録はありません。いなかったと書いた記録もなく、はっきりしません。

Q. 出奔したあと数正はどこにいたのですか?
A. 秀吉から河内で8万石を与えられたと伝わります。天正18年の小田原攻めのあとは信濃松本に移りました。

Q. 家康は数正を恨んでいたのですか?
A. 家康が数正を責めたという確かな話は伝わっていません。徳川の家臣たちには強い恨みが残ったとみられます。

まとめ

家康が大坂城で秀吉に頭を下げたとき、石川数正がその場にいたかどうかは、記録からは分かりません。豊臣の大名として大坂の近くにいた可能性は高いものの、家康の面目を立てようとした秀吉の気づかい、徳川家臣の怒り、数正自身の立場を考えると、表には出なかったとみるのが自然です。子どものころから一緒だった主君と家臣は、同じ城の中で、顔を合わせないまま別々の道を歩んでいったのかもしれません。

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参考:『家忠日記』、『徳川実紀』、松本市の史跡解説

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