栗原類が演じる榊原康政とは|徳川四天王、館林10万石 ─ 伏見で家康の危機に駆けつけ、関ヶ原で秀忠を救ったとりなし

この記事のポイント
  • 榊原康政は、天文17年(1548)三河生まれの徳川家康の重臣で、徳川四天王の一人です。『豊臣兄弟!』では栗原類さんが演じています
  • 13歳で家康の小姓となって「康」の字を与えられ、姉川・三方ヶ原・長篠・小牧・長久手と家康の主な戦いに加わりました。天正14年(1586)の家康の上洛にも従っています
  • 天正18年(1590)の関東移封で上野館林10万石の大名となりました。慶長4年(1599)、家康が伏見で狙われているとの知らせを受けると急ぎ駆けつけ、京・伏見に兵を送って主君を守ったと伝わります
  • 関ヶ原の戦いに遅れた秀忠を家康がとがめたときにはとりなし役を務め、慶長11年(1606)に59歳で亡くなりました。榊原家は姫路などを経て越後高田の大名として幕末まで続きます

榊原康政(さかきばら やすまさ)は、徳川四天王の一人で、戦場の指揮と政務の両方にすぐれた家康の重臣です。『豊臣兄弟!』では栗原類さんが演じ、第41回「家康の野望」で描かれる家康の上洛にも、史実では同行しています。この記事では、康政の生涯を年表でたどり、主君の危機に駆けつけた逸話や、秀忠を救ったとりなしまで紹介します。四天王の全体像は徳川四天王とはでまとめています。

目次

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榊原康政の生涯を年表で

家康より6歳年下で、本多忠勝と同い年です(本多忠勝とは)。

年 年齢 できごと
天文17年(1548) 1歳 三河の上野郷に生まれる
永禄3年(1560)ごろ 13歳 家康の小姓となり、「康」の字を与えられる
元亀元年(1570) 23歳 姉川の戦いで朝倉軍の側面を突く
天正12年(1584) 37歳 小牧・長久手の戦い。小牧山城を改修し、白山林で秀次の軍を破る
天正14年(1586) 39歳 家康の上洛に従い、従五位下・式部大輔に任じられる
天正18年(1590) 43歳 関東移封で上野館林10万石
慶長4年(1599) 52歳 伏見の家康の危機に駆けつける
慶長5年(1600) 53歳 関ヶ原の戦い。秀忠に従って中山道を進む
慶長11年(1606) 59歳 館林で亡くなる

小牧・長久手 ─ 白山林で秀次を破る

天正12年の小牧・長久手の戦いで、康政は家康の命で小牧山城を改修し、守りを固めました。羽柴方が三河をめざして別働隊を出すと、徳川方はこれを追い、白山林で三好信吉(のちの豊臣秀次)の軍を打ち破ります。康政もこの追撃に加わりました(三好信吉(豊臣秀次)はなぜ白山林で大敗したのか)。

この戦いで康政が秀吉を「野人の子」と非難する檄文を書き、怒った秀吉が康政の首に懸賞をかけた、という話がよく知られています。江戸時代の書物に見える逸話ですが、後の時代につくられた話とする研究者もいます(榊原康政はなぜ秀吉に首を狙われたのか)。

家康の上洛に従う

天正14年、家康が上洛して秀吉に臣従したとき、康政はこれに従いました。11月には豊臣政権から従五位下・式部大輔に任じられ、豊臣の姓も授けられています。かつて秀吉を非難したと伝わる康政が、秀吉の朝廷の位を受ける。上洛は、徳川の家臣たちにとっても豊臣政権の一員となる出来事でした(家康の上洛に従った家臣、岡崎に残った家臣)。

館林10万石と、関東の町づくり

天正18年、家康が関東へ移ると、康政は江戸城の修築を監督したのち、上野の館林城に入って10万石を与えられました。徳川家臣の中では、本多忠勝と並んで井伊直政に次ぐ大きさです。館林では、利根川の流れを変える工事にかかわる堤防づくりや街道の整備に力を注ぎました(館林城跡)。

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康政が10万石で入った館林城の跡(館林城跡)

主君の危機に駆けつける ─ 慶長4年の伏見

秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1599)、家康は秀吉が禁じていた大名どうしの縁組を進め、ほかの大老や奉行たちと激しく対立しました。そのなかで、石田三成らが伏見の家康の屋敷を襲おうとしている、という知らせが康政のもとに届きます。

康政はすぐに家康のもとへ駆けつけ、京・伏見・淀へ兵を送って守りを固めたと伝わります。さらに、東国から大軍がのぼってくるように見せるため関所を設け、兵糧を買い集める触れを出したともいわれます。実際の兵の数以上に徳川の力を大きく見せて、相手に手出しをさせない。戦場の指揮だけでなく、駆け引きにもたけた康政らしい働きでした(家康の野望とは?いつから天下を狙っていたのか)。

▽ よく語られる話
康政は秀吉を非難する檄文を書いた、血気さかんな猛将だった。
▼ 史実ではこうです
檄文の話は後の時代の創作とする見方もあります。史料から見える康政は、小牧山城の改修、館林での堤防づくり、伏見での駆け引きなど、城や町や政治にもすぐれた人でした。宇喜多家のお家騒動では、大谷吉継とともに調停役も務めています。

関ヶ原 ─ 秀忠を救ったとりなし

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、康政は家康の跡継ぎ・秀忠に従って中山道を進みました。ところが秀忠の軍は、真田昌幸の守る上田城の攻略に手間どり、悪天候も重なって、関ヶ原の決戦に間に合いませんでした(第一次・第二次上田合戦)。

激怒した家康は、しばらく秀忠に会おうとしなかったといいます。このとき康政は家康に、遅れの責任は自分たちにあると訴えて、秀忠をかばったと伝わります。主君の跡継ぎを守ったこのとりなしは、のちの徳川家で長く語り継がれました。

康政の最期と榊原家のその後

関ヶ原のあと、康政は新たな加増を受けず、水戸への加増の話を断ったともいわれます。本多正信ら政務を担う新しい世代が台頭するなか、康政は表舞台から身を引き、慶長11年(1606)、館林で59歳の生涯を閉じました。

跡を継いだ三男の康勝が子のないまま若くして亡くなり、榊原家は断絶の危機を迎えますが、家康の裁定で康政の孫が家を継ぐことを許されます。榊原家はその後、白河や姫路などに移り、最後は越後の高田の大名として幕末まで続きました。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では、栗原類さんが榊原康政を演じています。第41回「家康の野望」(10月25日放送予定)では、家康の上洛をめぐって四天王がどう動くかが描かれそうです。放送後にこの枠を更新します。

あわせて読みたい:「家康の野望」とは何か?第41回のタイトルを4つの候補から予想する

あわせて読みたい:徳川十六神将とは

よくある質問

Q. 榊原康政はどんな人ですか?
A. 徳川家康の重臣で、徳川四天王の一人です。戦場の指揮と政務の両方にすぐれていました。

Q. 『豊臣兄弟!』で榊原康政を演じるのはだれですか?
A. 栗原類さんです。

Q. 榊原康政の石高はどれくらいですか?
A. 天正18年の関東移封で、上野館林10万石を与えられました。

Q. 榊原家は最後どこの大名でしたか?
A. 白河や姫路などを経て、越後の高田の大名として幕末まで続きました。

まとめ

榊原康政は、13歳から家康に仕え、小牧・長久手では秀次を破り、関東では館林10万石の大名として町づくりを進めた徳川四天王の一人でした。秀吉の死後には伏見で家康の危機に駆けつけ、関ヶ原のあとは遅参した秀忠をかばいます。主君とその跡継ぎを守り抜いた康政の家は、越後高田の大名として幕末まで続きました。

参考:『寛政重修諸家譜』/『藩翰譜』/平山優『徳川家康と武田信玄』角川選書/館林市教育委員会資料

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