徳川家康の官位の移り変わり|三河守から権大納言、内大臣、征夷大将軍、太政大臣まで ─ 臣従した天正14年から一気に上がった理由

世界遺産・二条城の東大手門前

徳川家康は、三河の小さな大名から始まり、最後は太政大臣にまで上りました。その出世を官位でたどると、大きく位が上がったのは、秀吉に臣従した天正14年(1586)からです。臣従の直後に正三位・権中納言、翌年に従二位・権大納言となり、秀吉の弟・秀長と肩を並べました。秀吉の死後には内大臣として豊臣政権の筆頭に立ち、関ヶ原のあと征夷大将軍に任じられます。この記事では、家康の官位の移り変わりを年表にし、それぞれの意味を解説します。

この記事のポイント
  • 永禄9年(1566)、従五位下・三河守に。このとき「松平」から「徳川」に改めた
  • 臣従した天正14年に正三位・権中納言、翌年に従二位・権大納言。秀長と同じ「大納言」になった
  • 秀吉の死の前に内大臣となり、豊臣政権で別格の地位に
  • 慶長8年(1603)に征夷大将軍。最後は元和2年(1616)に太政大臣
目次

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家康の官位の移り変わり(年表)

主な官位を年表にまとめます。年齢は数え年です。官職の上下関係は関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣で解説しています。

年 年齢 官位 できごと
永禄9年(1566) 25歳 従五位下・三河守 「徳川」に改姓。三河の主として認められる
天正14年(1586)11月 45歳 正三位・権中納言 秀吉に臣従した直後
天正15年(1587)8月 46歳 従二位・権大納言 「駿河大納言」と呼ばれる
文禄5年(1596)5月 55歳 正二位・内大臣 豊臣政権の大名の筆頭格に
慶長8年(1603)2月 62歳 従一位・右大臣、征夷大将軍 江戸幕府を開く
慶長10年(1605)4月 64歳 (将軍職を秀忠に譲る) 大御所として駿府へ
元和2年(1616)3月 75歳 太政大臣 翌月、駿府で亡くなる

三河守と「徳川」改姓 ─ 朝廷に認められた三河の主

永禄9年、家康は朝廷から従五位下・三河守に任じられ、同時に名字を松平から徳川に改めました。三河を一つにまとめた家康が、正式に三河の主として認められた出来事です。改姓には、源氏の流れをくむ家だと示す意味があったとも言われます。氏と名字の違いは源平藤橘とはで書いています。

ここから天正14年までのおよそ20年、家康は武田や北条と戦い、領国を5か国にまで広げましたが、官位の上では大きく変わりませんでした。家康が本拠を移していった流れは家康の本拠はなぜ岡崎・浜松・駿府・江戸と変わったのかをどうぞ。

臣従で一気に上がった ─ 正三位・権中納言から権大納言へ

天正14年10月27日、家康は大坂城で秀吉に臣従しました。その直後の11月、家康は正三位に叙され、権中納言に任じられます。このころ秀吉の弟・秀長も同じく中納言の地位にあり、家康は秀吉の身内と肩を並べる扱いを受けました。臣従で家康が得たものは臣従した家康は何を得たのかにまとめています。

翌天正15年8月、家康は従二位・権大納言に進みます。同じころ秀長も権大納言となり、大和の秀長は「大和大納言」、駿河の家康は「駿河大納言」と呼ばれました。官位を与えるのは朝廷ですが、実際に決めていたのは関白の秀吉です。秀吉は官位を使って、大名たちを豊臣政権の序列の中に並べていきました。秀吉が関白になった理由は秀吉はなぜ関白になったのかで書いています。

家康が将軍宣下の祝いを行った二条城(本丸櫓門)
家康が将軍宣下の祝いを行った二条城(本丸櫓門)
▽ よく語られる話
家康は豊臣政権の中で冷遇され、秀吉に警戒されて低い地位に置かれていた。
▼ 史実ではこうです
家康は臣従の直後から、秀吉の弟の秀長と同じ中納言、大納言に進みました。官位の上では、豊臣一門と並ぶ別格の大名として扱われていました。

内大臣 ─ 豊臣政権の筆頭へ

文禄5年5月、家康は正二位・内大臣に任じられます。このころ秀次が切腹し、豊臣政権は秀吉と幼い秀頼の二人だけになっていました(秀次事件をわかりやすく解説)。秀吉は家康を内大臣として最上位の大名に置き、秀頼の後見を頼む形をとります。

秀吉が亡くなったあと、家康は「内府(内大臣の唐名)」と呼ばれて五大老の筆頭に立ちました。関ヶ原の前に石田三成らが出した家康弾劾の書状が「内府ちかひの条々」と呼ばれるのは、このためです。家康がこのころどう動いたかは家康の野望とは?いつから天下を狙っていたのかでたどっています。

征夷大将軍、そして太政大臣

関ヶ原の戦いのあと、慶長8年2月、家康は従一位・右大臣に進み、征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開きました。わずか2年後には将軍職を三男の秀忠に譲り、将軍は徳川家が世襲するものだと天下に示します。秀忠については徳川家康の子ども一覧もどうぞ。

大坂の陣で豊臣家が滅んだ翌年、元和2年3月、家康は太政大臣に任じられました。秀吉が天正14年に就いたのと同じ、朝廷の最高の官職です。翌月、家康は駿府で亡くなり、のちに東照大権現として久能山や日光の東照宮にまつられました。豊臣家の最期は家康は秀頼と淀殿を助けようとしたのかで書いています。

家康が東照大権現としてまつられた久能山東照宮の一の鳥居
家康が東照大権現としてまつられた久能山東照宮の一の鳥居
▷ 筆者の考え ─ 官位は「待つ人」の家康によく似合う

家康の官位をたどると、20年近く三河守のままで、臣従してから一気に上がり、秀吉の死後に内大臣として力を発揮し、最後に秀吉と同じ太政大臣に至ったことがわかります。頭を下げたことで官位を得て、その官位を足がかりに天下を取った。筆者は、家康の野望は剣だけでなく、秀吉が作った官位の仕組みそのものを使って実現されたと考えています。家康の野望については「家康の野望」とは何か?で予想しています。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)

第41回では家康が大坂で臣従します。ドラマの家康が「中納言」と呼ばれるようになる場面や、秀長と同じ位に並ぶことへの家臣たちの反応が描かれるかもしれません。回のあらすじは第41回あらすじ予想と史実にまとめています。

よくある質問

Q. 家康が初めて朝廷から受けた官位は何ですか?
A. 永禄9年(1566)の従五位下・三河守です。このとき名字を松平から徳川に改めました。

Q. 家康はなぜ「駿河大納言」と呼ばれたのですか?
A. 天正15年に従二位・権大納言となり、本拠が駿府(駿河)にあったからです。同じころ秀長は「大和大納言」と呼ばれました。

Q. 家康の最終的な官位は何ですか?
A. 元和2年(1616)3月に任じられた太政大臣です。翌月に駿府で亡くなりました。

まとめ

家康は永禄9年に三河守となって徳川に改姓し、秀吉に臣従した天正14年に正三位・権中納言、翌年に権大納言となって秀長と並びました。秀吉の晩年に内大臣として大名の筆頭に立ち、関ヶ原のあと征夷大将軍、最後は太政大臣に上ります。臣従は家康にとって、官位という新しい階段を上り始める入り口でもありました。

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参考:『公卿補任』、『徳川実紀』、各自治体・寺社の解説

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