徳川家康の子ども一覧|11男5女16人の母とその後 ─ 臣従した天正14年、秀忠は8歳、秀康は秀吉の養子だった

駿府城/アクセス・場所・地図 室町幕府より今川家が拝領し戦国時代以降は今川義元・徳川家が領した駿府城

徳川家康には、わかっているだけで11人の息子と5人の娘、あわせて16人の子どもがいました。天正14年(1586)、家康が秀吉に臣従したとき、手元にいたのは8歳の長丸(のちの2代将軍秀忠)、7歳の福松丸(のちの松平忠吉)、4歳の万千代(のちの武田信吉)などまだ幼い子ばかりで、13歳の次男・於義丸(のちの結城秀康)は秀吉の養子として大坂にいました。長男の信康はすでに亡く、娘の亀姫と督姫は奥平家と北条家に嫁いでいます。この記事では、家康の子ども16人を一覧にし、臣従のころそれぞれがどこで何をしていたかをたどります。

この記事のポイント
  • 家康の子は11男5女の16人(早世した子を含む)。母は10人近くにのぼる
  • 臣従した天正14年、跡継ぎ候補は8歳の長丸(秀忠)。長男の信康は7年前に亡くなっていた
  • 次男の於義丸(秀康)は小牧・長久手のあと秀吉の養子に出され、大坂にいた
  • 娘の亀姫は奥平信昌、督姫は北条氏直に嫁ぎ、家康の同盟を支えていた
目次

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家康の子ども16人の一覧

生まれた順に並べます。母の名や生没年には諸説あるものもあります。家康の妻たちについては徳川家康の妻たち一覧でくわしく書いています。

名前 生没年 母 その後
松平信康(長男) 永禄2年〜天正7年(1559〜79) 築山殿 岡崎城主。21歳で自害
亀姫(長女) 永禄3年〜寛永2年(1560〜1625) 築山殿 奥平信昌に嫁ぐ
督姫(次女) 永禄8年〜慶長20年(1565〜1615) 西郡局 北条氏直、のち池田輝政に嫁ぐ
結城秀康(次男) 天正2年〜慶長12年(1574〜1607) 於万(長勝院) 秀吉の養子から結城家へ。越前福井藩主
徳川秀忠(三男) 天正7年〜寛永9年(1579〜1632) 西郷局 2代将軍
松平忠吉(四男) 天正8年〜慶長12年(1580〜1607) 西郷局 尾張清洲藩主。関ヶ原で活躍
振姫(三女) 天正8年〜元和3年(1580〜1617) 諸説あり 蒲生秀行、のち浅野長晟に嫁ぐ
武田信吉(五男) 天正11年〜慶長8年(1583〜1603) 下山殿 武田の名跡を継ぐ。水戸藩主
松平忠輝(六男) 文禄元年〜天和3年(1592〜1683) 茶阿局 越後高田藩主。のち改易
松千代(七男) 文禄3年〜慶長4年(1594〜99) 茶阿局 幼くして亡くなる
仙千代(八男) 文禄4年〜慶長5年(1595〜1600) お亀の方 幼くして亡くなる
松姫(四女) 文禄4年〜慶長3年(1595〜98) 諸説あり 幼くして亡くなる
徳川義直(九男) 慶長5年〜慶安3年(1600〜50) お亀の方 尾張徳川家の祖
徳川頼宣(十男) 慶長7年〜寛文11年(1602〜71) お万の方 紀州徳川家の祖
徳川頼房(十一男) 慶長8年〜寛文元年(1603〜61) お万の方 水戸徳川家の祖
市姫(五女) 慶長12年〜慶長15年(1607〜10) お梶の方 幼くして亡くなる

天正14年、家康の子どもたちはどこにいたのか

家康が大坂で秀吉に臣従した天正14年10月の時点で、生きていた子どもは7人です。家康は45歳、16人のうち後半の8人はまだ生まれていません。尾張・紀州・水戸の御三家の祖になる3人が生まれるのは、関ヶ原のあとのことです。

名前 天正14年の年齢 いた場所・立場
亀姫 27歳 三河新城の奥平信昌の妻
督姫 22歳 小田原の北条氏直の妻
於義丸(秀康) 13歳 秀吉の養子として大坂に
長丸(秀忠) 8歳 浜松で育つ。のちの跡継ぎ
福松丸(忠吉) 7歳 浜松で育つ
振姫 7歳 浜松で育つ
万千代(信吉) 4歳 浜松で育つ。のちに武田家の名跡を継ぐ

年齢は数え年です。家康の臣従によって、これらの子どもたちの運命も豊臣政権の中に組み込まれていきました。臣従したころの家康の立場は臣従した家康は何を得たのかをどうぞ。

長男・信康の死と、跡継ぎになった長丸

家康の長男・信康は、天正7年に21歳で自害しています。武田との内通を疑われたためと伝わりますが、本当の理由には諸説あります。信康の死で、家康の跡継ぎは空席になりました。

その年に生まれたのが、のちの秀忠となる長丸です。天正14年にはまだ8歳でした。家康が上洛して臣従した背景には、幼い跡継ぎに家を無事に渡したいという思いもあったはずです。長丸は天正18年に上洛して秀吉に会い、秀吉の「秀」の字をもらって秀忠と名のりました。秀忠と江の娘が千姫です(千姫はどうやって大坂城から逃げたのか)。

秀吉の養子にされた次男・於義丸

次男の於義丸は、小牧・長久手の戦いの和睦の証として、天正12年に秀吉のもとへ送られました。形の上では養子ですが、実際には人質の意味もありました。秀吉は於義丸に自分と家康の名から一字ずつ取って「秀康」と名のらせたと伝わります。くわしくは於義丸(おぎまる)とはをどうぞ。

福井城址に立つ結城秀康の騎馬像。家康の次男は秀吉の養子に出された
福井城址に立つ結城秀康の騎馬像。家康の次男は秀吉の養子に出された

家康が上洛した天正14年、秀康は大坂にいました。家康にとっては、2年ぶりに息子のいる城へ向かう旅でもあったのです。のちに秀吉に実子の鶴松が生まれると、秀康は下総の結城家へ養子に出され、結城秀康となります。小牧・長久手のあとの和睦と臣従の違いは「和睦」と「臣従」はどう違うのかで書いています。

同盟を支えた娘たち ─ 亀姫と督姫

家康は娘を嫁がせることで、大切な同盟を固めました。長女の亀姫は、長篠の戦いのころ、武田から徳川に寝返った奥平信昌に嫁ぎました。次女の督姫は、天正10年に北条と和睦した証として北条氏直に嫁いでいます(督姫とは)。

天正14年、家康が秀吉に臣従したことで、督姫の嫁ぎ先・北条家は難しい立場に立たされます。家康は北条に上洛をすすめましたが、北条は応じきれず、天正18年に小田原攻めで滅びました。督姫は実家に戻り、のちに池田輝政に再嫁します。家康が北条との交渉を任された経緯は秀吉はなぜ家康に関東を任せたのかで書いています。

家康が子どもたちと過ごした浜松城の石垣
家康が子どもたちと過ごした浜松城の石垣

関ヶ原のあとに生まれた御三家の祖

家康の晩年には、九男の義直、十男の頼宣、十一男の頼房が生まれました。この3人がそれぞれ尾張・紀州・水戸の徳川家を開き、のちに御三家と呼ばれます。将軍家に跡継ぎがいないときには、御三家から将軍を出せるようにしたのです。8代将軍の吉宗は紀州家から、15代将軍の慶喜は水戸家の生まれでした。

▷ 筆者の考え ─ 臣従は「子どもたちの未来」を守る選択だった

天正14年の家康の子どもたちを見ると、跡継ぎの長丸はまだ8歳、次男は秀吉の手元、娘は北条の妻でした。秀吉と戦い続ければ、そのどれもが危うくなります。筆者は、家康が頭を下げた理由のひとつに、この子どもたちの未来があったと考えています。そして関ヶ原のあとに生まれた3人の息子のために御三家を作り、徳川の世を長く続ける仕組みを整えた。家康の「野望」は、子や孫の代まで見通したものだったのかもしれません(「家康の野望」とは何か?)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)

第41回では、家康の上洛と大坂での臣従が描かれる見込みです。秀吉の養子になっている於義丸(秀康)が大坂で家康と顔を合わせる場面があれば、親子の再会として見どころになりそうです。回のあらすじは第41回あらすじ予想と史実にまとめています。

よくある質問

Q. 徳川家康の子どもは何人いましたか?
A. 11人の息子と5人の娘、あわせて16人が知られています。幼くして亡くなった子も含みます。

Q. 家康の跡を継いだのは誰ですか?
A. 三男の秀忠です。長男の信康は天正7年に自害し、次男の秀康は秀吉の養子に出されていたため、秀忠が跡継ぎになりました。

Q. 御三家の祖は誰ですか?
A. 九男の義直(尾張)、十男の頼宣(紀州)、十一男の頼房(水戸)です。

まとめ

家康の子どもは11男5女の16人です。天正14年に秀吉に臣従したとき、跡継ぎの長丸(秀忠)は8歳、次男の於義丸(秀康)は秀吉の養子として大坂に、娘の亀姫と督姫は同盟相手の家に嫁いでいました。長男の信康を失った家康にとって、幼い子どもたちに家を渡すことは何より大切でした。その先に、関ヶ原のあとに生まれた3人の息子による御三家が続いていきます。

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参考:『寛政重修諸家譜』、『徳川実紀』、各自治体の史跡解説

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