旭姫の死と秀忠の上洛|天正18年正月、家康の跡継ぎが京に来た理由 ─ 小姫との縁組でつながれた徳川と豊臣

雪の降る冬の聚楽第の書院で、元服の礼装の少年が上段の天下人の前に平伏するイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 旭姫は天正18年(1590)1月14日、京都の聚楽第で亡くなりました。数えで48歳。前の年の11月から病に伏していたと伝わります
  • ちょうど同じ正月、家康の三男で跡継ぎの長丸(のちの秀忠)が、12歳で京にのぼっていました。前年9月に秀吉が諸大名の妻子を京に置くよう命じたことを受けた、実質的な人質としての上洛でした
  • 長丸は秀吉のもとで元服し、秀吉の「秀」の字を与えられて秀忠と名のったと伝わります
  • 旭姫の死で、徳川と豊臣を結ぶ縁が切れるのを避けるため、秀吉は養女の小姫(織田信雄の娘)を秀忠と縁組させました

『豊臣兄弟!』第46回では、あさひが家族に見守られながら息を引き取る場面があるようです。史実の旭姫は、天正18年(1590)1月14日、京都の聚楽第で亡くなりました。家康に嫁いでから4年足らずのことです。じつはその同じ正月、家康の跡継ぎである長丸(のちの秀忠)が京にのぼっていました。旭姫の死と秀忠の上洛は、徳川と豊臣の関係にどう影響したのでしょうか。この記事では、この正月に起きたことをたどります(旭姫はなぜ駿府ではなく京都で亡くなったのか)。

屋敷の庭に作った田んぼで家族が田植えをし、縁側で母に支えられた女性が見守るイメージ(イラスト)
家族に見守られるあさひのイメージ(イラスト)
目次

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旭姫の最期

旭姫は天正16年(1588)、母の大政所の病を見舞うために京にのぼりました。いったん駿府に戻ったあと、ふたたび京に入り、聚楽第で暮らしていたとされます。天正17年11月には病にかかっていたことが伝わり、年が明けた天正18年1月14日、聚楽第で亡くなりました(旭姫(朝日姫)の生涯)。

何の病だったのかは、記録に残っていません。晩年の旭姫は病がちで、臨済宗に帰依していたといわれます。亡骸は京の東福寺の塔頭・南明院に葬られ、駿府の瑞龍寺にも墓が建てられました。

家康の跡継ぎ・長丸の上洛

旭姫が亡くなったころ、京には家康の三男・長丸が来ていました。長丸は天正7年(1579)、浜松城で生まれた12歳の少年です。上の兄の信康は亡くなり、次兄の於義丸(のちの結城秀康)は秀吉の養子となっていたため、長丸が徳川家の跡継ぎと見られていました(徳川家康の子ども一覧)。

長丸の上洛のきっかけは、前の年の天正17年9月に秀吉が出した命令でした。秀吉は諸大名に、妻子を京に住まわせるよう命じたのです。家康もこれにこたえ、跡継ぎの長丸を京に送りました。北条攻めを目前にしたこの時期、跡継ぎを差し出すことは、秀吉への忠誠をはっきり示すことでもありました(秀吉はなぜ北条家を相模一国だけでも残さなかったのか)。

時期 できごと
天正14年(1586)5月 旭姫、浜松の家康に嫁ぐ
天正16年(1588) 旭姫、母の大政所の病を見舞うため上洛
天正17年(1589)9月 秀吉、諸大名に妻子を京に置くよう命じる
天正17年11月 旭姫、病にかかる
天正18年(1590)正月 家康の跡継ぎ・長丸が上洛し、秀吉のもとで元服して秀忠と名のる
天正18年1月14日 旭姫、聚楽第で亡くなる
天正18年 秀吉の養女・小姫と秀忠の縁組が結ばれる
天正18年2月 家康、小田原攻めに出陣
雪の降る冬の聚楽第の書院で、元服の礼装の少年が上段の天下人の前に平伏するイメージ(イラスト)
聚楽第で秀吉のもとで元服する長丸(秀忠)のイメージ(イラスト)

元服して「秀忠」に

京に入った長丸は、秀吉のもとで元服し、秀吉の名の一字「秀」を与えられて秀忠と名のったと伝わります。主君が家臣の子に自分の名の一字を与えるのは、深い関係を示す習わしでした。秀吉にとって秀忠は、妹の旭姫を母とする義理の甥でもあったのです。

秀吉は秀忠を長く京にとどめず、まもなく駿府に帰したといわれます。北条攻めを前に、家康に跡継ぎを人質として差し出させるよりも、徳川を信頼している姿を見せるほうが得策だと考えたのかもしれません。

▽ よく語られる話
旭姫が亡くなったことで、家康と秀吉を結ぶ縁は切れ、両家の関係は冷え込んだ。
▼ 史実ではこうです
秀吉は旭姫の死の直後、養女の小姫を秀忠と縁組させ、徳川との縁をつなぎ直しました。家康も翌月には小田原攻めに出陣しており、両家の協力関係は続いていました。

小姫との縁組 ─ つなぎ直された徳川と豊臣

旭姫の死によって、徳川家と豊臣家を直接結ぶ婚姻の縁は切れてしまいます。そこで秀吉は、自分の養女の小姫を秀忠と縁組させました。小姫は織田信雄の娘で、幼くして秀吉の養女となっていた少女です。年が幼かったため、婚約にとどまったという見方もあります。

しかし小姫は、翌天正19年に幼くして亡くなってしまいます。その後、秀忠が文禄4年(1595)に妻として迎えたのが、茶々の妹の江でした。旭姫から小姫、そして江へと、徳川と豊臣は婚姻によって何度も結び直されていったのです(茶々(淀殿)の生涯)。

家康と旭姫

家康は、政略のために嫁いできた旭姫を、正室として丁重に扱ったといわれます。旭姫の死の翌年には、家康を施主とする仏事が南明院で営まれた記録があり、一周忌の法要と考えられています。のちに家康や秀忠、家光も、上洛のたびに旭姫の墓に参ったと伝わります(秀長と家康はどんな関係だったのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第46回は11月29日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、家康が体調のすぐれないあさひを秀長に託し、あさひは家族に見守られて亡くなるようです。ドラマでは秀長のもとで亡くなるように描かれるようですが、史実の旭姫は聚楽第で亡くなりました。秀忠の上洛や小姫との縁組がどこまで描かれるかにも注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 旭姫はいつ亡くなりましたか?
A. 天正18年(1590)1月14日、京都の聚楽第で亡くなりました。数えで48歳です。

Q. 秀忠が京にのぼったのはなぜですか?
A. 天正17年9月に秀吉が諸大名に妻子を京に置くよう命じたことを受けた、実質的な人質としての上洛でした。

Q. 秀忠の「秀」は秀吉の字ですか?
A. 秀吉のもとで元服し、秀吉の一字を与えられたと伝わります。

Q. 小姫とはだれですか?
A. 織田信雄の娘で、秀吉の養女となった少女です。旭姫の死後、秀忠と縁組しましたが、幼くして亡くなりました。

まとめ

天正18年1月、旭姫が聚楽第で亡くなったころ、家康の跡継ぎの長丸は京にのぼり、秀吉のもとで元服して秀忠と名のりました。旭姫の死で切れかけた両家の縁を、秀吉は養女の小姫との縁組でつなぎ直します。妹の死を悲しむ間もなく、秀吉は政権を固める手を打っていたのです。

参考:『家忠日記』/『多聞院日記』/福田千鶴『徳川秀忠』新人物往来社

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