「和睦」と「臣従」はどう違うのか|小牧・長久手のあと和睦した家康が、2年後に改めて上洛した理由 ─ 於義丸、旭姫、大政所

秀長の屋敷で対面する家康と秀吉(イラスト)
この記事のポイント
  • 家康と秀吉は、小牧・長久手の戦いのあと、天正12年(1584)の末に一度「和睦」しています。それでも天正14年(1586)に改めて上洛が求められたのは、和睦と「臣従」がまったく違うものだったからです
  • 和睦は戦をやめる約束で、家康は次男の於義丸を秀吉の養子として差し出しましたが、秀吉の家臣になったわけではありませんでした
  • 臣従は、上洛して秀吉の前で家臣としての礼をとり、豊臣政権の大名として命令に従うことです。官位を受け、のちには天皇の前で関白への服従を誓う起請文も出しました
  • 和睦から臣従までの約2年、秀吉は上洛を求め続け、家康は人質の要求を拒み、旭姫と大政所が送られて、ようやく家康は大坂城へ向かいました

小牧・長久手の戦いのあと、家康と秀吉は和睦しました。それなのに、なぜ2年後に改めて家康の上洛が大問題になったのでしょうか。答えは、「和睦」と「臣従」が別のものだったからです。『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」で描かれる家康の上洛は、和睦の先にある「臣従」の場面です。二つの違いを順に整理します(家康はなぜ秀吉に臣従したのか)。

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和睦と臣従の違いを一覧で

まずは二つを表で比べます(小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?)。

和睦(天正12年末) 臣従(天正14年10月)
中身 戦をやめる約束 秀吉を主君と認め、家臣としての礼をとる
家康の立場 独立した大名のまま 豊臣政権の一大名
差し出したもの 次男・於義丸を秀吉の養子に 家康自身が上洛し、大坂城で対面
秀吉側が出したもの 特になし 妹の旭姫を正室に、母の大政所を人質に
その後 秀吉は上洛を求め続ける 官位を受け、のちに関白への服従を誓う起請文を出す

天正12年の和睦 ─ 於義丸を差し出す

天正12年11月、家康とともに戦っていた織田信雄が、家康に断りなく秀吉と和睦しました。戦う大義名分を失った家康も、まもなく秀吉と和睦します。このとき家康は、次男の於義丸を秀吉の養子として大坂へ送りました。名目は養子、実際には人質です。於義丸は元服して羽柴秀康と名のりました(織田信雄はなぜ家康に断りもなく和睦したのか、結城秀康(於義丸)とは)。

ただ、この和睦で家康が秀吉の家臣になったわけではありません。戦はやめても、家康は独立した大名のままでした。秀吉から見れば、家康はまだ「従っていない大名」だったのです。

上洛を拒み続けた2年間

和睦のあと、秀吉は家康に上洛を求め続けました。上洛して秀吉の前で頭を下げることが、家臣になったことの証だったからです。しかし家康は応じません。天正13年には、秀吉が重臣の子を人質に出すよう求めたのに対し、徳川家臣団は浜松での評定でこれを拒みました。その年の11月、秀吉との交渉役だった石川数正が出奔し、徳川家は大きく揺れます(秀吉の人質要求と浜松評定、石川数正のその後)。

▽ よく語られる話
小牧・長久手のあと和睦した時点で、家康は秀吉の家臣になった。
▼ 史実ではこうです
天正12年の和睦は、戦をやめる約束にすぎませんでした。家康が秀吉の家臣になったのは、天正14年10月に上洛して大坂城で臣従の礼をとったときです。そのあいだの約2年、家康は独立した大名として秀吉と駆け引きを続けていました。

天正14年の臣従 ─ 何が変わったのか

天正地震で家康攻めが難しくなると、秀吉は妹の旭姫を家康の正室として送り、さらに母の大政所を岡崎へ人質として送りました。ここまでされて、家康はついに上洛します。10月27日、家康は大坂城で諸大名の前で秀吉に臣従の礼をとりました(秀吉はなぜ44歳の妹・旭姫を嫁に出すしかなかったのか、大政所(なか)とは)。

臣従によって、家康は豊臣政権の一大名になりました。秀吉の推挙で正三位権中納言の位を受け、家臣たちも豊臣政権から官位を与えられます。天正16年の聚楽第行幸では、家康は天皇の前で「関白の命令に背かない」と誓う起請文に名を連ねました。和睦から臣従、そして起請文へ。家康は段階を追って、豊臣政権の内側に組みこまれていったのです(臣従した家康は何を得たのか、聚楽第行幸とは)。

なぜ秀吉は「臣従」にこだわったのか

秀吉が家康の上洛にこだわったのは、天下の大名すべてが関白に従っている、という形をつくる必要があったからです。東国最大級の大名である家康が従っていなければ、関東の北条家や奥羽の大名たちも従わないでしょう。家康を臣従させることは、天下統一を仕上げるための要でした。だからこそ秀吉は、母まで人質に出すという異例の手を打ったのです(臣従したころ、家康と秀吉の国力はどれくらい差があったのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第41回「家康の野望」は10月25日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、秀長は家康の上洛を「形ばかり」と察します。和睦から臣従へ、家康が本当に一線を越えるのかが、この回の見どころになりそうです。放送後にこの枠を更新します。

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よくある質問

Q. 和睦と臣従の違いは何ですか?
A. 和睦は戦をやめる約束で、臣従は相手を主君と認めて家臣としての礼をとることです。

Q. 家康はいつ秀吉と和睦しましたか?
A. 小牧・長久手の戦いのあと、天正12年(1584)の末です。次男の於義丸を秀吉の養子に出しました。

Q. 家康はいつ秀吉に臣従しましたか?
A. 天正14年(1586)10月27日、大坂城で臣従の礼をとりました。

Q. なぜ和睦のあとも上洛が必要だったのですか?
A. 上洛して秀吉の前で礼をとることが、家臣になった証だったからです。

まとめ

小牧・長久手のあとの和睦は、戦をやめる約束にすぎず、家康は独立した大名のままでした。秀吉は家康を家臣とするために上洛を求め続け、家康は人質の要求を拒み、2年近い駆け引きが続きます。旭姫と大政所が送られて、家康はようやく大坂城で臣従の礼をとりました。第41回の上洛は、和睦から一歩進んで、家康が豊臣政権の内側に入った瞬間なのです。

参考:『家忠日記』/柴裕之『徳川家康』平凡社/藤井讓治『天下人の時代』吉川弘文館

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