徳川四天王とは|酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政、家康の天下を支えた四人の活躍と『豊臣兄弟!』の配役

井伊直政が赤備えを率いて長久手で先陣を切るイメージイラスト
この記事のポイント
  • 徳川四天王とは、徳川家康を支えた四人の重臣、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政のことです。『豊臣兄弟!』では、天野ひろゆきさん・夏生大湖さん・栗原類さん・阿久津仁愛さんが演じています
  • 最年長の忠次は家康より15歳上の筆頭家老、忠勝と康政は家康より6歳下の同い年、直政は19歳下の若手と、年齢も役割もばらばらでした
  • 小牧・長久手の戦いでは、忠次・忠勝・康政・直政の四人がそろって活躍し、秀吉に強い印象を残しました。秀吉は家康が臣従したあと、四人を高く評価したと伝わります
  • 天正18年(1590)の関東移封では、直政が12万石、忠勝と康政が10万石を与えられ、徳川家臣の中で最大の領地を任されました

徳川四天王とは、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人を指す呼び名です。家康が三河の小さな大名から天下人へと上りつめるまで、戦場でも外交でも家康を支えました。『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」は、家康が秀吉に臣従する回。その「野望」を支える家臣たちとして、四天王の活躍を紹介します(家康の野望とは?いつから天下を狙っていたのか)。

目次

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徳川四天王の一覧

四人の基本情報を表にまとめます。配役はNHKの番組ページで確認したものです(家康の上洛に従った家臣、岡崎に残った家臣)。

名前 生没年 家康との年の差 おもな役割 『豊臣兄弟!』の配役
酒井忠次 大永7年(1527)〜慶長元年(1596) 15歳上 筆頭家老。東三河の旗頭 天野ひろゆき
本多忠勝 天文17年(1548)〜慶長15年(1610) 6歳下 戦場の先陣。蜻蛉切の槍 夏生大湖
榊原康政 天文17年(1548)〜慶長11年(1606) 6歳下 戦場の指揮と、文書・内政 栗原類
井伊直政 永禄4年(1561)〜慶長7年(1602) 19歳下 赤備えを率いる先鋒。外交 阿久津仁愛

酒井忠次 ─ 家康を育てた筆頭家老

酒井忠次は四人の中でただ一人、家康の父の代から仕えた長老です。家康の叔母を妻とし、東三河の家臣たちをまとめる旗頭を務めました。長篠の戦いでは鳶ヶ巣山の砦を奇襲して勝利のきっかけをつくり、小牧・長久手の戦いでも羽黒で森長可の軍を破っています。天正16年(1588)ごろに家督を子に譲って隠居しました(酒井忠次とは)。

本多忠勝 ─ 秀吉が感心した武勇

本多忠勝は、生涯57回の合戦で一度も傷を負わなかったと伝わる猛将です。一言坂で武田軍を相手に殿を務め、「家康に過ぎたるもの」とうたわれました。小牧・長久手では、わずかな兵で秀吉の大軍の前に立ちはだかり、秀吉に感心されたといいます(本多忠勝とは)。

桑名城 本多忠勝公の像
桑名城跡の九華公園に立つ本多忠勝の像(桑名城)

榊原康政 ─ 秀吉に首を狙われた檄文

榊原康政は、戦場の指揮だけでなく、文書や内政にも優れた武将でした。小牧・長久手の戦いでは、秀吉を「野人の子」と非難する檄文を書いて各地にまき、秀吉は激怒して康政の首に懸賞をかけたと伝わります。白山林では三好信吉(のちの豊臣秀次)の軍を破りました(榊原康政はなぜ秀吉に首を狙われたのか)。

井伊直政 ─ 赤備えと外交の顔

井伊直政は、四人の中でいちばん若く、武田家の旧臣を加えた「赤備え」の部隊を率いて小牧・長久手で名を上げました。天正14年に大政所が人質として岡崎に入ったときには、その世話と警固を任されたと伝わり、豊臣家との外交でも重く用いられます(井伊直政と大政所、井伊直政はなぜ「赤鬼」と呼ばれたのか)。

▽ よく語られる話
徳川四天王は、家康が生きていたころから「四天王」と呼ばれていた。
▼ 史実ではこうです
「徳川四天王」という呼び名は、江戸時代になってから広まったものです。四人は年齢も出身もばらばらで、同じ時期に並んで活躍したのは、小牧・長久手のころから関東移封までのおよそ十年間でした。四人に加えて十二人を数える「徳川十六神将」という呼び方もあります。

石川数正はなぜ四天王に入らないのか

「酒井忠次と並ぶ家老だった石川数正が、なぜ四天王にいないのか」と思う人も多いはずです。家康の家臣団では、忠次が東三河、数正が西三河のまとめ役で、二人が両家老でした。若い井伊直政より、数正のほうがずっと格上だったのです。

入らない一番の理由は、数正が天正13年11月に徳川家を出て秀吉に仕えたことです。四天王という呼び方は、江戸時代になって徳川家の功臣をたたえる中で定まりました。主家を離れた数正は、その功臣として数えられませんでした。徳川十六神将にも数正の名はありません。外交担当だったからというより、出奔したことが大きかったと考えられます。数正が秀吉のもとでどうなったかは石川数正のその後で書いています。

家康の「野望」と四天王

天正14年(1586)、家康は秀吉に臣従します。上洛に従った家臣と、岡崎に残った家臣の顔ぶれには、四天王も含まれていました。秀吉は小牧・長久手で手ごわさを知った四人を高く評価し、豊臣政権のもとで官位を与えています(家康の上洛に従った家臣、岡崎に残った家臣)。

天正18年の関東移封では、直政が上野の箕輪で12万石、忠勝が上総の大多喜で10万石、康政が上野の館林で10万石を与えられました。家康は関東の要所に四天王を置いて新しい領国を固め、その十年後の関ヶ原では、忠勝と直政が東軍の軍監として戦いを動かします。家康が天下を取るまでの道のりは、四天王なしには語れません(関ヶ原の戦いをわかりやすく解説)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では、酒井忠次を天野ひろゆきさん、本多忠勝を夏生大湖さん、榊原康政を栗原類さん、井伊直政を阿久津仁愛さんが演じています。第41回「家康の野望」(10月25日放送予定)では、家康の上洛をめぐって四天王がどう動くかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

徳川四天王・榊原康政の生涯と、伏見で家康の危機に駆けつけた逸話は、榊原康政とはで紹介しています。

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よくある質問

Q. 徳川四天王とはだれですか?
A. 酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人です。

Q. 徳川四天王で最年長はだれですか?
A. 酒井忠次です。家康より15歳年上でした。

Q. 『豊臣兄弟!』で徳川四天王を演じるのはだれですか?
A. 酒井忠次は天野ひろゆきさん、本多忠勝は夏生大湖さん、榊原康政は栗原類さん、井伊直政は阿久津仁愛さんです。

Q. 関東移封で四天王はどれくらいの領地を得ましたか?
A. 井伊直政が12万石、本多忠勝と榊原康政が10万石を与えられました。

まとめ

徳川四天王は、筆頭家老の酒井忠次、武勇の本多忠勝、文武の榊原康政、赤備えと外交の井伊直政という、それぞれ違う強みを持つ四人でした。小牧・長久手で秀吉を苦しめた四人は、家康の臣従後は豊臣政権からも認められ、関東移封では最大の領地を任されます。家康の「野望」がかなう日まで、その道を支え続けたのが四天王だったのです。

参考:『寛政重修諸家譜』/『徳川実紀』/小和田哲男『徳川家康大全』

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