- 天正14年(1586)、秀吉は家康との縁組のために、44歳の妹・旭姫を夫と別れさせてまで嫁がせました。その背景には、秀吉に「嫁に出せる身内の女性」がほとんどいなかったという事情がありました
- 秀吉には実の娘がいませんでした。姉ともの子は秀次・秀勝・秀保と男子ばかりで、弟・秀長の娘はまだ幼い子どもでした
- 養女の豪姫(前田利家の娘)はすでに宇喜多秀家との縁組が決まっていて、のちに秀忠と縁組する小姫(織田信雄の娘)は、このときまだ2歳ほどでした
- 農民の出から成り上がった秀吉は、一族の人数そのものが少なく、養子や養女、ねねの実家の人々で家を固めるしかありませんでした。家康の正室にふさわしい「実の身内」は、旭姫しか残っていなかったのです
『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」では、倉沢杏菜さん演じるあさひが、夫と引き離されて家康(松下洸平)のもとへ嫁ぎます。それにしても、天下人の秀吉が、なぜすでに夫のいる44歳の妹を差し出さなければならなかったのでしょうか。答えは、豊臣家の「身内の少なさ」にあります。この記事では、天正14年の時点で秀吉のまわりにいた身内を一人ずつ確かめながら、旭姫しかいなかった理由を考えます。

家康が迎える「正室」にはだれがふさわしかったのか
天正13年(1585)の暮れ、天正地震で家康攻めをあきらめた秀吉は、家康を縁組で味方につける道を選びました。家康は天正7年(1579)に正室の築山殿を失ってから、正室を置いていませんでした(徳川家康の妻たち一覧)。
つまり秀吉に必要だったのは、45歳の家康の「正室」になれる女性です。しかも、家康を豊臣家の一門として迎えるのですから、秀吉の身内でなければ意味がありません。では、そんな女性は豊臣家にどれだけいたのでしょうか。
天正14年、秀吉の身内を一人ずつ確かめる
天正14年(1586)の時点で、秀吉のまわりにいた主な身内を並べてみます。年齢はおおよその数え年です。
| 続柄 | 人物 | 天正14年の年齢・状況 | 家康に嫁げたか |
|---|---|---|---|
| 母 | なか(大政所) | 70代 | ─(のちに人質として岡崎へ) |
| 姉 | とも(日秀尼) | 50代。三好吉房の妻 | ×(夫がいる) |
| 弟 | 秀長 | 40代 | ─ |
| 妹 | 旭 | 44歳。夫がいた | △(夫と別れさせれば可能) |
| 実の子 | なし | 長浜時代の男子・石松丸は早くに亡くなる。鶴松が生まれるのは天正17年 | × |
| 甥(ともの子) | 秀次・秀勝(小吉)・秀保 | みな男子 | × |
| 姪(秀長の娘) | おきくなど | まだ幼い | × |
| 養子 | 於次秀勝(信長の子)・秀秋(ねねの甥)・於義丸(家康の子) | 男子。於次秀勝は天正13年末に死去 | × |
| 養女 | 豪姫(前田利家の娘) | 13歳ほど。宇喜多秀家との縁組が決まっていた | × |
| 養女 | 小姫(織田信雄の娘) | 2歳ほど | × |
こうして並べると、家康の正室になれる年齢で、夫のいない身内の女性は、一人もいなかったことがわかります。いちばん近かったのが、夫がいる妹の旭でした。秀吉が旭を夫と別れさせたのは、ほかに選べる人がいなかったからだと考えられます。

なぜ秀吉には身内が少なかったのか
① 農民の出で、一族の人数そのものが少なかった
秀吉は尾張の中村の、名もない家の生まれです。代々続く大名家のように、叔父や従兄弟、その娘たちといった大きな一族はありませんでした。秀吉のきょうだいは、姉のとも、弟の秀長、妹の旭の4人だけです。父親が違うきょうだいだったとする説もあります(旭姫(朝日姫)の生涯)。
② 秀吉に子どもが生まれなかった
秀吉は、長浜城主だったころに男子の石松丸をもうけたとされますが、早くに亡くなりました。正室の寧々との間には子がなく、側室の茶々が鶴松を生むのは天正17年(1589)、50代になってからです(秀吉に実子はいたのか)。
③ 次の世代は男子ばかり
姉ともの子は、秀次・秀勝・秀保の三兄弟で、みな男子でした(豊臣秀次の兄弟はどうなったのか)。弟・秀長の子も、天正14年の時点では幼い娘しかいませんでした。秀長の娘の一人は、のちに毛利秀元に嫁いでいます(豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか)。
ねねの実家の人々は?
秀吉の一族が少ない分、豊臣家を支えたのが、正室ねねの実家の人々でした。ねねの兄・木下家定には8人の息子がいて、のちの小早川秀秋もその一人です。ねねの妹ややの夫が浅野長政で、長政は秀吉の義弟として重く用いられました(木下一族一覧/ねねはどこの家の生まれか)。
しかし、ねねの実家からも、天正14年の時点で家康の正室にふさわしい年頃の娘は見当たりません。しかも、ねねの姪では秀吉との血のつながりがなく、「秀吉の身内」として家康を一門に迎える縁組にはなりません。

なぜ養女ではだめだったのか
秀吉は、のちに養女を縁組に使っています。天正18年(1590)には、養女の小姫(織田信雄の娘)を家康の三男・秀忠と縁組させました。では、天正14年にも養女を使えばよかったのではないでしょうか。
ここには三つの壁がありました。一つめは年齢です。このとき秀吉の養女は13歳の豪姫と2歳ほどの小姫しかおらず、豪姫はすでに宇喜多秀家との縁組が決まっていました。二つめは格です。45歳の家康の正室として迎えるには、子どもの養女では釣り合いません。三つめは意味です。秀吉の実の妹が嫁げば、家康は秀吉の義弟、つまり豊臣家の一門になります。それは、家康を同じ世代の「身内」として取り込むことでした。
その後も続いた「身内不足」の縁組
旭姫を嫁がせても家康が上洛しないと、秀吉は母の大政所まで人質に出しました。身内の少ない秀吉にとって、母と妹は、差し出せる数少ない身内でした(旭姫と大政所:秀吉はなぜ妹と母を差し出したのか)。
その後、秀吉は養女の小姫を秀忠と縁組させますが、小姫は天正19年(1591)、7歳で亡くなります。すると秀吉は、茶々の妹の江を秀忠に嫁がせました(文禄4年・1595年)。実の娘のいない秀吉は、養女や、茶々の妹といった「身内に準じる女性」を使って、徳川家との縁をつなぎ続けたのです(茶々(淀殿)の生涯)。
| 年 | 徳川家との縁組 | 豊臣家側の女性 |
|---|---|---|
| 天正14年(1586) | 家康の正室に | 秀吉の実の妹・旭姫(44歳) |
| 天正18年(1590) | 秀忠と縁組 | 秀吉の養女・小姫(織田信雄の娘、6歳) |
| 文禄4年(1595) | 秀忠に嫁ぐ | 茶々の妹・江(秀吉の養女格とされる) |

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よくある質問
Q. なぜ秀吉は旭姫を家康に嫁がせたのですか?
A. 家康を縁組で豊臣家の一門に迎えるためです。天正14年の時点で、家康の正室にふさわしい年齢で夫のいない秀吉の身内の女性はおらず、夫のいた妹の旭姫を離縁させて嫁がせました。
Q. 秀吉に娘はいなかったのですか?
A. 実の娘はいませんでした。実子は長浜時代の石松丸(早世)と、のちの鶴松・秀頼だけとされます。
Q. 秀吉の養女はだれですか?
A. 前田利家の娘・豪姫や、織田信雄の娘・小姫などがいます。天正14年の時点では、豪姫は宇喜多秀家との縁組が決まっており、小姫はまだ2歳ほどでした。
Q. 旭姫は秀吉の姉ですか、妹ですか?
A. 妹です。きょうだいは姉のとも、兄の秀吉、兄の秀長、そして末の妹の旭の4人です。父親が違うきょうだいだったとする説もあります。
まとめ
秀吉が44歳の妹・旭姫を、夫と別れさせてまで家康に嫁がせたのは、ほかに差し出せる身内の女性がいなかったからでした。実の娘はおらず、甥は男子ばかり、姪は幼く、養女も年齢が合わない。農民の出から成り上がった秀吉には、名門大名のような大きな一族がありませんでした。母と妹まで差し出した秀吉の縁組は、天下人の力の大きさと同時に、豊臣家の身内の少なさを物語っているのです。
参考:『多聞院日記』/『家忠日記』/『寛政重修諸家譜』/小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書
