- 大政所(なか)は、秀吉・秀長・旭・ともの母です。永正13年(1516)に尾張で生まれ、秀吉が関白になった天正13年(1585)に「大政所」の称号を受けました
- 天正14年(1586)、「娘の旭の見舞い」という名目で三河の岡崎へ送られました。実際には、家康を大坂へ上洛させるための人質でした
- 大政所が自分を人質だと知っていたのか、ただ娘に会いたい一心だったのかを伝える本人の言葉は残っていません。ただ、七十歳を過ぎた母が敵地へ向かう意味を、まったく知らずにいたとは考えにくいと筆者は見ています
- 徳川家の本多重次が宿所のまわりに薪を積み、家康に何かあれば火をかける構えをしていたという逸話は、後世の書物に伝わる話です。大政所は天正20年(1592)、77歳で聚楽第で亡くなりました
『豊臣兄弟!』で坂井真紀さんが演じる「なか」は、秀吉と秀長の母です。第41回「家康の野望」では、このなか(大政所)が、家康を上洛させるための人質として岡崎へ送られると予想されます。息子が天下人になった七十歳の母は、なぜ敵地へ向かったのか。それは人質と知ってのことだったのか、それとも嫁いだ娘に会いたかっただけなのか。この記事では、大政所の生涯と岡崎行きの真相をたどります。秀吉がなぜ妹と母を差し出したのかは旭姫と大政所でまとめています。

大政所(なか)とは ─ 天下人の母
なかは永正13年(1516)、尾張に生まれたとされます。尾張中村で、のちの秀吉、秀長、娘のとも(秀次の母)、旭を育てました。秀吉と秀長の父がそれぞれ誰だったのかについては説が分かれています(豊臣秀長と秀吉の出自)。天正13年(1585)7月、秀吉が関白になると、なかも従一位に叙され、「大政所」の称号を与えられました。大政所とは、摂政・関白の母を敬って呼ぶ言葉です。百姓の母から、わずか一代で天下人の母になったのです。
天正14年、岡崎へ ─ 名目は「旭の見舞い」

天正14年(1586)5月、秀吉は妹の旭を家康に嫁がせましたが、家康はそれでも大坂へ上ってきませんでした(旭姫の前夫・甚助とは)。そこで秀吉が送り出したのが、母の大政所です。名目は「嫁いだ娘の旭を見舞うため」。大政所は秋に岡崎に入り、それと入れ替わるように、家康は大坂へ向かいました。天正14年10月27日、家康は大坂城で秀吉に対面して臣従を誓います(家康はなぜ秀吉に臣従したのか)。大政所は、家康が無事に戻るまでの身の保証として、岡崎にとどめ置かれたのです(岡崎城)。
大政所は人質だと知っていたのか
ここが、いちばん気になるところです。結論から言うと、大政所が自分の立場をどう受け止めていたのかを伝える本人の言葉や手紙は、見つかっていません。分かっているのは、秀吉の側が「旭の見舞い」という名目を立てたことと、徳川の側が大政所を事実上の人質として扱ったことです。
そのうえで、筆者は次のように考えます。大政所はこのとき七十歳を過ぎており、息子の秀吉が家康と戦い、和睦し、家康がなかなか従わないという流れは、身近に見聞きしていたはずです。その家康の城へ、家康と入れ替わるように送られる意味を、まったく知らなかったとは考えにくいでしょう。一方で、44歳で見知らぬ土地へ嫁いだ娘の身を案じ、ひと目会いたいという思いも、きっと本物だったはずです。「人質としての務め」と「母としての願い」が、ひとつの旅の中に重なっていた ─ そう見るのが自然ではないでしょうか。
本多重次の薪 ─ 宿所を囲んだ逸話
大政所の岡崎滞在には、有名な逸話があります。徳川家の重臣・本多重次(作左衛門)が、大政所の宿所のまわりに薪を山のように積み上げ、もし大坂で家康の身に何かあれば、すぐに火を放てるように備えていた、というものです。「鬼作左」と呼ばれた重次らしい話として広く知られていますが、これは江戸時代の書物に伝わる逸話で、同時代の記録で確かめられるわけではありません。それでも、徳川家の家臣たちがこの「見舞い」をどれほど緊張して迎えていたかを、よく表している話だといえます。
旭との再会、そして大坂へ
岡崎では、大政所と旭が再会し、手を取り合って喜んだとも伝わります。家康が大坂での対面を終えて岡崎へ戻ると、大政所は大坂へ帰されました。岡崎での滞在は、およそひと月ほどだったとされます(第41回「家康の野望」あらすじ予想と史実)。
晩年と死 ─ 聚楽第で77年の生涯を閉じる
その後の大政所は、京の聚楽第などで暮らしました。天正16年(1588)に病にかかったときは、各地の寺社で回復の祈りがささげられ、娘の旭も京へ見舞いにのぼっています。その旭は天正18年(1590)1月、母より先に48歳で世を去りました。大政所は天正20年(1592)7月、聚楽第で亡くなります。77歳でした。このとき秀吉は朝鮮出兵のため肥前の名護屋城にいて、知らせを受けて急ぎ京へ戻りましたが、母の最期には間に合いませんでした。
『豊臣兄弟!』ではどう描かれるのか
坂井真紀さんが演じるなかは、これまでも息子たちを見守る母として描かれてきました。第41回で岡崎へ向かうなかが、娘のあさひ(倉沢杏菜)との再会をどんな表情で迎えるのか、そして秀長が母を送り出す場面をどう描くのかが見どころです。
よくある疑問
Q. 大政所の名前は何ですか?
A. 「なか(仲)」と伝わります。大政所は、関白の母に与えられる称号です。
Q. 大政所はなぜ岡崎へ行ったのですか?
A. 名目は娘の旭の見舞いでしたが、実際には家康を大坂へ上洛させるための人質でした。
Q. 大政所は人質だと知っていたのですか?
A. 本人の気持ちを伝える史料はありません。ただ、状況から考えて、まったく知らなかったとは考えにくいと筆者は見ています。
Q. 本多重次が薪を積んだ話は本当ですか?
A. 江戸時代の書物に伝わる逸話で、同時代の記録では確かめられません。
Q. 大政所はいつ亡くなりましたか?
A. 天正20年(1592)7月、聚楽第で亡くなりました。77歳でした。
Q. 『豊臣兄弟!』でなかを演じているのは誰ですか?
A. 坂井真紀さんです。
まとめ
大政所(なか)は、尾張中村の百姓の母から、一代で天下人の母になった女性です。天正14年、「旭の見舞い」の名目で岡崎へ送られたのは、家康を上洛させるための人質としてでした。本人がそれをどう受け止めていたのかを伝える言葉は残っていませんが、人質としての務めと、娘に会いたいという母の願いが重なった旅だったのでしょう。第41回で描かれる母の姿に、ぜひ注目してみてください。
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