家康の野望とは?いつから天下を狙っていたのか|臣従のころ、豊臣政権の十二年、秀吉の死後 ─ 『豊臣兄弟!』第41回の史実

夜の御殿で、灯火のもと絵図を前に腕を組んで考えこむ家康のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 家康がいつから天下を狙っていたのかを、はっきり示す史料はありません。天正14年(1586)の臣従のころに、すでに天下取りを考えていたと言える証拠は見当たりません
  • 臣従してからの家康は、豊臣政権の大名として関東に移り、秀吉の命令に従い続けました。表立って豊臣家に逆らった形跡はありません
  • 家康がはっきり動き出すのは、秀吉が亡くなった慶長3年(1598)8月より後です。翌年、秀吉が禁じていた大名どうしの縁組を勝手に進めたことが、最初の目に見える一歩とされます
  • 「天下をねらって臣従した」という見方は、関ヶ原と江戸幕府という結果から、さかのぼって語られることが多い話です

『豊臣兄弟!』第41回のサブタイトルは「家康の野望」。秀吉に頭を下げながら、家康は本当は天下を狙っていたのでしょうか。結論からいうと、臣従のころの家康が天下取りを考えていたことを示す史料はありません。家康がはっきりと天下に向けて動くのは、秀吉の死後のことです。この記事では、家康の歩みを四つの段階に分けて、それぞれの時期に史料から見える家康の姿を並べます(家康は本当に秀長を暗殺しようとしたのか)。

目次

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ドラマの「野望」は何を指すのか(筆者の予想)

第41回のタイトルの「野望」がドラマで何を指すのかは、単独の記事「家康の野望」とは何か?第41回のタイトルを4つの候補から予想するでくわしく予想しています。筆者の本命は、いずれ豊臣家を除いて徳川の世をつかむという野望です。この記事では、史実の家康がいつ、どこまで天下を意識していたのかをたどります。

家康の歩みを四つの段階で見る

まずは家康の動きを年表で見てみましょう(徳川家康は秀吉・秀長と何歳ちがうのか)。

段階 時期 家康の動き
①秀吉と争う 天正10〜14年(1582〜86) 本能寺のあと甲斐・信濃を取る。小牧・長久手で秀吉と戦う
②豊臣の大名になる 天正14年(1586) 上洛して大坂城で臣従する
③豊臣政権の重鎮 天正18〜慶長3年(1590〜98) 関東に移る。五大老の筆頭として秀頼を支えるよう遺言される
④天下へ動く 慶長3年(1598)以降 秀吉の死後、大名との縁組、伏見・大坂での政務、関ヶ原

臣従のころ ─ なぜ家康は頭を下げたのか

小牧・長久手の戦いのあと、家康は秀吉と戦い続ける道もありました。しかし、同盟していた織田信雄が先に和睦し、天正13年には重臣の石川数正が秀吉のもとへ去ります。さらに北条家や真田家との問題も抱えていました。秀吉の後ろ盾を得ることは、家康にとって大きな利益だったのです(石川数正が去っても、家康はなぜ秀吉と戦おうとしたのか)。

臣従の見返りに、家康は正三位権中納言の位と、東国の取りまとめ役という立場を得ました。この時点の家康の目標は、天下を奪うことよりも、自分の領国を守り、豊臣政権の中で重い地位を占めることだったと考えるのが自然です(臣従した家康は何を得たのか)。

冬の岡崎城で普請を急ぐ人々のイメージイラスト
冬の岡崎城で普請を急ぐ人びとのイメージ(イメージイラスト)

豊臣政権の重鎮として ─ 逆らわなかった十二年

天正18年(1590)、小田原の北条家が滅ぶと、家康は秀吉の命で東海の領国を離れ、関東へ移りました。慣れ親しんだ三河・遠江・駿河を手放す大きな転換でしたが、家康は従っています。朝鮮出兵では肥前の名護屋まで出陣し、秀次事件のあとには秀吉への忠誠を誓う起請文も出しました(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。

この十二年ほどのあいだ、家康が豊臣家に表立って逆らった記録はありません。秀長が天正19年に亡くなったときも、家康が動いた形跡はありません。家康は、豊臣政権の中でもっとも大きな領地を持つ大名として、静かに力をたくわえていきました。

▽ よく語られる話
家康は、はじめから天下を取るつもりで、わざと秀吉に臣従し、時が来るのを待っていた。
▼ 史実ではこうです
「鳴くまで待とう」に代表される、時を待つ家康の姿は、関ヶ原と江戸幕府という結果からさかのぼって語られることが多いものです。臣従のころの家康に天下取りの計画があったことを示す史料はありません。ただ、豊臣政権の中で最大の大名となり、秀吉の死後に動ける力を持っていたことは確かです。

秀吉の死後 ─ 目に見える最初の一歩

慶長3年(1598)8月、秀吉は伏見城で亡くなりました。秀吉は生前、大名どうしが勝手に縁組をすることを禁じていましたが、翌慶長4年、家康は伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政らと縁組を進めます。これが、家康が豊臣政権のきまりを破ってでも自分の勢力を広げ始めた、目に見える最初の一歩とされます(秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのか)。

同じ年に前田利家が亡くなると、家康を抑えられる人はいなくなり、家康は伏見城、続いて大坂城の西の丸に入って政務をとるようになります。翌慶長5年の関ヶ原の戦い、慶長8年の征夷大将軍就任へと、家康の天下取りは一気に進みました(関ヶ原の戦いをわかりやすく解説)。

秀長が生きていたら、家康は動けたのか

もし秀長が長生きしていたら、家康は秀吉の死後に同じように動けたでしょうか。秀長は豊臣家の内側をまとめ、大名たちとの取次を担っていた人です。秀長が健在なら、家康の縁組や政務の独占に歯止めがかかったかもしれません。この「もしも」はもし豊臣秀長があと十年生きていたらで考えています。第41回で描かれる、家康と秀長が向き合う夜は、そうした「もしも」を思い浮かべながら見ると、いっそう味わい深くなりそうです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第41回「家康の野望」は10月25日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、秀吉が大政所まで人質に出したことで家康がついに上洛しますが、秀長はそれが形ばかりの上洛だと察し、家康は秀長の暗殺までたくらむとされます。ドラマは「臣従しながら天下をあきらめない家康」として描くようです。放送後にこの枠を更新します。

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よくある質問

Q. 家康はいつから天下を狙っていたのですか?
A. はっきり示す史料はありません。目に見えて動き出すのは、秀吉が亡くなった慶長3年(1598)より後です。

Q. 家康が秀吉に臣従したのはいつですか?
A. 天正14年(1586)10月27日、大坂城での対面がその場とされます。

Q. 家康が秀吉の死後に最初にしたことは何ですか?
A. 秀吉が禁じていた大名どうしの縁組を、伊達・福島・蜂須賀らと進めたことが知られています。

Q. 第41回の「家康の野望」とはどういう意味ですか?
A. 臣従しながらも天下をあきらめない家康の胸の内を表したタイトルと考えられます。

まとめ

家康がいつから天下を狙っていたのかは、史料からはわかりません。天正14年の臣従は、領国を守り、豊臣政権の中で重い地位を得るための現実的な選択だったと考えられます。その後の十二年、家康は豊臣家に逆らわず、関東の大大名として力をたくわえました。そして秀吉が亡くなると、縁組を手始めに天下へ向けて動き出します。第41回の「野望」は、その長い道のりの入り口に家康の胸の内を重ねた、ドラマならではの描き方といえそうです。

参考:『家忠日記』/『当代記』/柴裕之『徳川家康』平凡社/笠谷和比古『関ヶ原合戦』講談社学術文庫

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