- 天正14年(1586)10月、秀吉の母・大政所が人質として岡崎に入ったとき、その身辺の世話と警固を任されたのが、当時26歳の井伊直政だったと伝わります
- 宿所のまわりに薪を積んだ本多作左衛門とは対照的に、直政は大政所を手厚くもてなし、大政所に深く感謝されたといいます
- 11月、家康が無事に帰ると、直政は大政所を大坂まで送り届けました。そこで秀吉にもてなされ、のちの豊臣家との太いつながりの始まりになりました
- 大坂でのもてなしの席に、徳川家を出奔した石川数正が同席していたため、直政が同じ座に着くことを拒んだという逸話も残っています
天正14年(1586)、家康の上洛と引きかえに岡崎へ送られた大政所。その身辺を守ったのが井伊直政だったと伝わります。『豊臣兄弟!』で阿久津仁愛さんが演じる直政は、のちに「井伊の赤鬼」と恐れられる猛将です。その直政は、このとき大政所をこまやかにもてなし、大坂まで送り届けました。『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」の舞台裏で、徳川方がどう人質を迎えたのかを、直政を中心にたどります(井伊直政はなぜ「赤鬼」と呼ばれたのか)。

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大政所の岡崎入りと、直政の役目
天正14年10月18日、大政所は娘の旭姫に会うという名目で岡崎に入りました。家康はこれと入れ替わるように大坂へ向かいます。大政所は、大坂へ行く家康の身の安全を保証する人質でした(大政所(なか)とは)。
家康は、岡崎に残る家臣に大政所の扱いを任せました。そのなかで、大政所の身のまわりの世話と警固にあたったのが井伊直政だったと伝わります。直政は永禄4年(1561)の生まれで、このとき26歳。小牧・長久手の戦いで赤備えを率いて名を上げた、家康の若い側近でした。
薪を積んだ作左衛門、もてなした直政
同じ岡崎で、本多作左衛門重次は大政所の宿所のまわりに薪を積み上げたといわれます。大坂で家康に何かあれば、すぐに火をかけるという意味です(本多作左衛門はなぜ大政所の宿所に薪を積んだのか)。
直政はこれとは対照的に、大政所を手厚くもてなしたと伝わります。人質とはいえ、天下人の母です。粗末に扱えば、家康が大坂でどう扱われるかにも響きかねません。作左衛門の「いざというときの備え」と、直政の「礼を尽くすもてなし」は、徳川家の二つの顔だったといえるでしょう。
大政所を大坂へ送り届ける
10月27日、家康は大坂城で秀吉に臣従の礼をとり、11月に入って三河へ戻りました。家康の無事を見届けたあと、大政所は岡崎を発って大坂へ帰ります。このとき大政所に付き添って大坂まで送ったのが直政だったと伝わります(家康は本当に秀長を暗殺しようとしたのか)。
大坂では、秀吉が直政をもてなしたといいます。母を大事に扱ってくれた礼の意味があったのでしょう。この縁から、直政はのちに豊臣家との交渉にもかかわるようになり、天正16年(1588)の聚楽第行幸のころには、徳川の家臣としては異例の高い官位を受けたと伝わります。
石川数正と同席を拒んだ逸話
大坂でのもてなしの席には、前年に徳川家を出奔して秀吉に仕えていた石川数正もいたといいます。直政は「主君を捨てた者と同じ席には着けない」として、同席を拒んだという逸話が残っています(石川数正はなぜ家康を裏切り秀吉のもとへ走ったのか)。
この話は後の時代の記録に見えるもので、そのまま事実とは言いきれません。ただ、数正の出奔が徳川家にどれほど深い傷を残したか、そして若い直政がその穴を埋める立場にあったことは確かです。数正が去ったあと、直政は外交でも軍事でも家康の右腕として重みを増していきます(石川数正の出奔で徳川家はどう変わったのか)。
- 第41回「家康の野望」あらすじ予想と史実
- 家康は本当に秀長を暗殺しようとしたのか
- 家康の上洛に従った家臣、岡崎に残った家臣
- 大政所(なか)とは
- 本多作左衛門はなぜ大政所の宿所に薪を積んだのか
- 家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのか
- 井伊直政はなぜ「赤鬼」と呼ばれたのか
- 家康の野望とは?いつから天下を狙っていたのか
- 臣従したころ、家康と秀吉の国力の差
- 家康の本拠はなぜ岡崎・浜松・駿府・江戸と変わったのか
- 家康の我慢強さはどこから来たのか
- 家康の爪を噛む癖は本当か
- 徳川四天王とは
- 本多忠勝とは
- 榊原康政とは
- 家康が見た大坂城
- 「和睦」と「臣従」はどう違うのか
- 家康は引き分けたのに、なぜ長宗我部と島津は秀吉に敗れたのか
- 「家康の野望」とは何か?第41回のタイトルを4つの候補から予想する
- 石川数正は家康の謁見の場にいたのか
- 秀吉に臣従した大名はいつ上洛したのか
- 秀吉はなぜ家康に関東を任せたのか(関東・奥両国惣無事)
- 徳川十六神将とは
- 徳川家康の子ども一覧
- 徳川家康の官位の移り変わり
- 本多正信はなぜ家康の右腕になれたのか
- 於大の方とは(家康の母)
- 豊臣秀吉と徳川家康の違い
- 家康はなぜ最後に秀吉への臣従を決断したのか
あわせて読みたい:徳川十六神将とは
あわせて読みたい:於大の方とは(家康の母)
よくある質問
Q. 大政所が岡崎にいたのはいつですか?
A. 天正14年(1586)10月18日に岡崎に入り、家康が三河に戻ったあとの11月に大坂へ帰りました。
Q. 岡崎で大政所の世話をしたのはだれですか?
A. 井伊直政が身辺の世話と警固にあたったと伝わります。
Q. 井伊直政はこのとき何歳でしたか?
A. 永禄4年(1561)生まれなので、26歳でした。
Q. 直政が石川数正との同席を拒んだのは本当ですか?
A. 後の時代の記録に見える逸話で、確かなことはわかっていません。
まとめ
大政所が人質として岡崎に入ったとき、薪を積んで「もしも」に備えた本多作左衛門に対し、井伊直政は大政所を手厚くもてなし、大坂まで送り届けたと伝わります。この働きは豊臣家とのつながりを生み、石川数正が去ったあとの徳川家で、直政が外交の顔となっていくきっかけにもなりました。第41回は、家康の上洛の裏で、岡崎に残った人びとの駆け引きにも目を向けると、いっそう面白く見られます。
参考:『井伊家伝記』/『徳川実紀』/野田浩子『井伊直政』戎光祥出版

