臣従したころ、家康と秀吉の国力はどれくらい差があったのか|領国・石高・兵力・財力・本拠を比べる ─ 天正14年、浜松から駿府へ

豊國神社の豊臣秀吉像
この記事のポイント
  • 天正14年(1586)に家康が秀吉に臣従したとき、家康の領国は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の一部の五か国で、石高は100万石を超え、130万石前後と見積もられます(太閤検地の前なので正確な数字はありません)
  • 秀吉は、自分と一門の領地だけで家康を上回り、さらに毛利・宇喜多・前田など西国と北陸の大名をほぼすべて従えていました。動かせる兵力は、家康の数倍に達していました
  • 財力の差はさらに大きく、秀吉は但馬の生野銀山をはじめとする鉱山と、京・大坂・堺などの商業都市をおさえていました。黄金の茶室は、その財力の象徴です
  • 家康の本拠は上洛のときはまだ浜松で、臣従した直後の天正14年12月に駿府へ移りました

天正14年(1586)、家康が上洛して秀吉に臣従したとき、二人の力の差はどれくらいあったのでしょうか。小牧・長久手の戦いでは互角に戦った家康ですが、その後の2年で、差は大きく開いていました。この記事では、領国・石高・兵力・財力・本拠の五つの面から、臣従のころの家康と秀吉を比べます。『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」の背景を知る手がかりにしてください(家康の野望とは?いつから天下を狙っていたのか)。

目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

家康と秀吉の国力を一覧で比べる

まずは表で見比べます。数字は、太閤検地の前の時代なので、のちの検地の数字などをもとにした目安です(太閤検地と刀狩とは)。

徳川家康 豊臣秀吉
領国 三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の一部(五か国) 畿内とその周辺を直接おさえ、西国・北陸の大名を従える
石高の目安 100万石を超え、130万石前後 自分と一門だけで家康を上回り、従う大名を合わせると数百万石
兵力の目安 小牧・長久手では織田信雄と合わせて3万ほど 小牧・長久手で10万ほどを動員
財力 甲斐の金山など 生野銀山などの鉱山、京・大坂・堺などの商業都市
本拠 浜松(12月に駿府へ) 大坂城(翌年から京の聚楽第も)
朝廷での地位 臣従後に正三位権中納言 関白(この年の12月に太政大臣、豊臣の姓)

領国と石高 ─ 五か国の大名と、天下の主

家康は、本能寺の変のあとの混乱で甲斐と信濃の一部を手に入れ、三河・遠江・駿河とあわせて五か国を治める大大名になっていました。北条家と並ぶ、東国最大級の大名です(徳川家康は秀吉・秀長と何歳ちがうのか)。

一方の秀吉は、畿内とその周辺を自分の手でおさえ、弟の秀長には大和・紀伊・和泉の百万石近くを、甥の秀次には近江の四十万石あまりを与えていました。そのうえ毛利・宇喜多・前田・長宗我部など、西国と北陸の大名のほとんどが秀吉に従っています。家康一人の領国とは、もはや比べものになりませんでした(なぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのか)。

兵力 ─ 小牧・長久手のあと、開いた差

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、秀吉は10万ほどの軍勢を動かしたといわれ、家康は織田信雄と合わせて3万ほどでした。それでも家康は長久手で池田恒興らを討ち取り、戦いを互角に持ちこみます(小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?)。

しかしその後、秀吉は四国の長宗我部、北陸の佐々成政を従え、天正13年には紀州も平定しました。家康の味方だった信雄は先に秀吉と和睦し、重臣の石川数正も秀吉のもとへ去ります。家康が一人で秀吉と戦い続けるのは、ほとんど不可能な状況になっていたのです(石川数正が去っても、家康はなぜ秀吉と戦おうとしたのか)。

金の柱と壁、赤い障子と畳の黄金の茶室(イメージイラスト)
秀吉が天正14年正月に披露した黄金の茶室のイメージ(イメージイラスト)

財力 ─ 黄金の茶室が示した差

差がいちばん大きかったのは財力です。秀吉は但馬の生野銀山などの鉱山や、京・大坂・堺・博多といった商業都市をおさえ、豊富な金銀を手にしていました。天正14年の正月には、金箔で壁や柱を覆った黄金の茶室を宮中に運びこんで披露しています。家康も甲斐の金山などを持っていましたが、天下の富を集める秀吉とは比べものになりませんでした(豊臣家はなぜあれほど金銀を持てたのか、秀吉の黄金の茶室とは)。

▽ よく語られる話
小牧・長久手で家康が勝ったのだから、二人の力はほぼ互角だった。
▼ 史実ではこうです
小牧・長久手は、局地戦で家康が勝ち、全体としては痛み分けに終わった戦いでした。そしてその後の2年で、秀吉は四国・北陸・紀州を従え、関白となって朝廷の権威も手にします。臣従のころには、領国・兵力・財力のどれをとっても、秀吉が家康を大きく上回っていました。

本拠 ─ 浜松から駿府へ

家康が上洛したとき、本拠はまだ遠江の浜松城でした。臣従して戻った家康は、その年の12月に本拠を駿府に移します。五か国の真ん中に近く、東の北条家ににらみをきかせる位置で、豊臣政権の「東国の取りまとめ役」として動くための移転でした。家康の本拠の移り変わりは家康の本拠はなぜ岡崎・浜松・駿府・江戸と変わったのかで詳しく書いています。

周りを固める家康の外交 ─ 北条との縁組

力で秀吉に劣る家康が頼りにしたのが、まわりの大名との関係でした。天正11年(1583)、家康は次女の督姫を北条氏直に嫁がせ、甲斐・信濃をめぐって争った北条家と和睦します。翌年の小牧・長久手の戦いで、家康が背中を気にせず西の秀吉に全力を向けられたのは、この同盟があったからでした(督姫とは)。

一方で北の上杉景勝は秀吉と結び、信濃の真田昌幸も徳川から離れて、天正13年の上田合戦で徳川軍を退けています。東の北条と結び、西の秀吉、北の上杉・真田と向き合う。それが臣従前の家康の置かれた形でした。臣従の半年前の天正14年3月、家康が国境で北条氏政と会見したのも、秀吉の下に入る前に東を固め直すためだったと考えられます(家康と北条氏政の会見(天正14年))。

それでも家康が重んじられた理由

差は大きく開いていましたが、秀吉は家康を力ずくで滅ぼそうとはせず、妹の旭姫と母の大政所まで差し出して上洛を求めました。東国には北条家や奥羽の大名がまだ従っておらず、家康を味方につけて東国の押さえにすることが、天下統一の近道だったからです。家康は臣従の見返りに高い官位と東国の取りまとめ役を得ました。力の差を受け入れて、その差の中で最大の利益を取る。それが臣従のころの家康の選んだ道でした(臣従した家康は何を得たのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第41回「家康の野望」は10月25日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、秀吉が大政所まで人質に出し、家康がついに上洛します。圧倒的な力の差を前に、家康がどんな表情で頭を下げるのかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

家康が臣従した天正14年の大坂城がどこまでできていたのかは、家康が見た大坂城で紹介しています。小牧・長久手のあとの和睦と、天正14年の臣従の違いは、「和睦」と「臣従」はどう違うのかで整理しています。

あわせて読みたい:家康は引き分けたのに、なぜ長宗我部と島津は秀吉に敗れたのか(小牧・長久手、四国攻め、九州攻めを比べた記事です)

あわせて読みたい:「家康の野望」とは何か?第41回のタイトルを4つの候補から予想する

あわせて読みたい:秀吉に臣従した大名はいつ上洛したのか

あわせて読みたい:秀吉はなぜ家康に関東を任せたのか(関東・奥両国惣無事)

あわせて読みたい:家康はなぜ最後に秀吉への臣従を決断したのか

よくある質問

Q. 臣従したころの家康の石高はどれくらいですか?
A. 五か国で100万石を超え、130万石前後と見積もられます。太閤検地の前なので正確な数字はありません。

Q. 家康と秀吉の兵力差はどれくらいでしたか?
A. 小牧・長久手では秀吉が10万ほど、家康と信雄が3万ほどといわれます。その後、差はさらに開きました。

Q. 臣従したとき、家康の本拠はどこでしたか?
A. 浜松です。臣従した直後の天正14年12月に駿府へ移りました。

Q. 秀吉はなぜ家康を攻め滅ぼさなかったのですか?
A. 東国の北条家などを従えるために、家康を味方にして東国の押さえにすることが近道だったからと考えられます。

まとめ

天正14年、臣従したころの家康は五か国・130万石前後を治める東国屈指の大名でしたが、畿内を握り、西国と北陸の大名を従え、鉱山と商業都市の富を集めた秀吉との差は、領国・兵力・財力のどれをとっても大きく開いていました。家康は浜松から上洛して頭を下げ、戻るとすぐに駿府へ本拠を移します。力の差を受け入れたうえで、豊臣政権の中で最大の地位を得る。それが「家康の野望」の現実的な姿だったのかもしれません。

参考:『家忠日記』/柴裕之『徳川家康』平凡社/藤井讓治『天下人の時代』吉川弘文館

  • URLをコピーしました!
目次