小牧・長久手の戦いで、徳川家康は秀吉と戦い、実質的に引き分けて領国を守りました。ところがその翌年に長宗我部元親が、翌々年からは島津義久が秀吉と戦い、どちらも数か月で降伏しています。理由は大きく4つあります。戦った年の秀吉の立場、味方の数、敵の兵力、そして足元の国衆のまとまりが、家康のときとは違っていました。
- 家康は単独ではなく織田信雄と組み、合わせて200万石を超える規模で戦った
- 天正12年の秀吉はまだ関白ではなく、紀州・四国・北陸の敵に囲まれて全力を出せなかった
- 長宗我部と島津は、秀吉が関白になって周りを片づけたあとで、10万から20万を超える大軍を向けられた
- 家康も勝ったわけではなく、信雄の単独講和で戦う理由を失い、最後は臣従している
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家康・長宗我部・島津を並べてみる
まず3つの戦いを並べます。兵力や石高はどれも後世の推定で、諸説あります。石高は後の太閤検地の数字から逆算したおおよその値です。くわしい戦いの流れは小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?と四国平定・九州平定をわかりやすく解説にまとめています。
| 家康(小牧・長久手) | 長宗我部(四国攻め) | 島津(九州攻め) | |
|---|---|---|---|
| 年 | 天正12年(1584) | 天正13年(1585) | 天正14〜15年(1586〜87) |
| 領国の規模 | 家康の5か国でおよそ130万石前後、信雄の尾張・伊勢・伊賀を合わせると200万石超 | 四国全体でも80万石弱、実際に押さえていた分はそれより少ない | 九州の大半に広がったが、本国の薩摩・大隅・日向は合わせて60万石前後 |
| 自軍の兵力 | 徳川・織田で3万前後 | 約4万 | 数万 |
| 秀吉方の兵力 | 8万〜10万 | 10万以上 | 20万以上 |
| 秀吉の立場 | 信長の旧臣の一人(まだ関白ではない) | この年の7月に関白 | 関白・太政大臣。停戦命令を出す側 |
| 味方 | 紀州の雑賀・根来、長宗我部、佐々成政、北条 | 孤立 | 孤立(九州の国衆が次々に離反) |
| 結果 | 和睦。領国はそのまま | 約2か月で降伏。土佐一国だけ残る | 約2か月で降伏。薩摩・大隅と日向の一部が残る |
理由1:秀吉の立場が1年ごとに変わっていた
天正12年の秀吉は、信長の旧臣の一人でした。相手の織田信雄は信長の次男なので、秀吉が攻めれば主家の息子に弓を引く形になります。家康は「信長の子を助ける」という名目で戦えました。織田信雄の立場がそのまま家康の大義名分だったのです。
ところが翌天正13年7月、秀吉は関白になります。こうなると秀吉に逆らうことは、朝廷の命令に逆らうことに近くなりました。九州では、秀吉が九州停戦令(惣無事令)で島津と大友に戦をやめるよう命じます。島津はこれを聞かずに大友領へ攻め込んだので、関白の命令に背いた側として攻められました。長宗我部と島津は、戦う前から名目の上で不利な立場にいたわけです。

理由2:家康には味方がいたが、長宗我部と島津は孤立していた
小牧・長久手のとき、家康は秀吉の周りの敵と手を組んでいました。紀州の雑賀衆・根来衆は大坂をうかがい、四国の長宗我部元親は家康と連絡を取り、北陸の佐々成政も家康側につきました。関東の北条とは同盟していました。秀吉は大坂を空けられず、兵の一部を周りの押さえに残す必要がありました。
秀吉はこの包囲網を、家康と和睦したあとで一つずつ崩します。天正13年3月に紀州、6月から8月に四国、8月に越中の佐々を片づけました。長宗我部は、家康と一緒に秀吉を囲んでいた仲間のうち、先に倒された一人だったのです。九州攻めのころには、ほかに秀吉を脅かす勢力は残っておらず、島津は全国から集められた大軍を一手に受けることになりました。
理由3:海を越えてくる大軍に、守るべき前線が多すぎた
四国攻めでは、秀吉方が三方から上陸しました。阿波には総大将の秀長と秀次、讃岐には宇喜多秀家・黒田孝高らの軍、伊予には小早川隆景・吉川元長の毛利勢が向かいます。元親は阿波の白地城に本陣を置きましたが、どこから来るかわからない大軍に対して兵を分けるしかありませんでした。兵と兵糧を船で運んだのは豊臣水軍です。四国攻めがなぜ短く終わったのかは第36回の史実解説にもまとめています。
九州攻めでも、秀長が日向から、秀吉が肥後から、二手に分かれて南へ進みました。島津は北九州まで兵を出していたので、一気に本国まで引き上げることになります。家康の小牧・長久手は、自分の領国のすぐ西、尾張での戦いでした。城と砦を拠点に、相手が来るのを待って戦えたのです。蟹江城をめぐる攻防のように、戦いの場所が尾張の中に限られていたことも、家康には有利でした。

理由4:急に広げた領国ほど、国衆がすぐに離れた
長宗我部も島津も、数年で領国を一気に広げた大名でした。元親が阿波・讃岐・伊予へ進んだのは天正年間に入ってからで、四国統一が完成したかどうかは見方が分かれます。伊予の河野氏が降った天正13年春に統一したとする説と、伊予の一部が残っていたとする説があります。従ったばかりの国衆は、秀吉の大軍が見えると戦わずに城を開けました。伊予の金子元宅のように最後まで戦った者は少数でした。
島津も、天正14年には筑前まで攻め上っていました。しかし岩屋城の高橋紹運に足止めされ、立花山城も落とせません。秀吉の本隊が来ると、肥後や筑前の国衆は次々に秀吉側へつきました。秀長は日向の根白坂の戦いで島津の主力を退けます。島津は天正15年5月、義久が剃髪して降伏しました。そのあとどうなったかは九州攻めはどう終わったのかで書いています。
家康の三河・遠江は、父祖の代から徳川家に従ってきた家臣が多い国でした。駿河・甲斐・信濃は新しく手に入れた国でしたが、戦いの場は尾張で、領国の奥まで攻め込まれることはありませんでした。

家康も最後は臣従した ─ 天正地震がなければ
家康は戦場では長久手で勝ちましたが、天正12年11月、秀吉が信雄と単独で和睦します。家康は戦う理由をなくし、次男の於義丸を秀吉の養子として差し出して戦をやめました。この和睦と、のちの臣従の違いは「和睦」と「臣従」はどう違うのかでくわしく書いています。
そのあと秀吉は、家康を攻める準備を進めていたとされます。年明けの出陣を命じる書状も残っていて、くわしくは秀吉の家康攻め計画(天正14年)で紹介しています。ところが天正13年11月の天正地震で、秀吉方の城や兵糧の拠点が大きな被害を受けました。秀吉は力で攻めるのをやめ、妹の旭姫と母の大政所を送って家康を上洛させる道を選びます。家康の「引き分け」は、時期と運にも助けられていたといえます。
降伏したあとの扱いを比べる
3人とも、家は残されました。ただ、残されたものの大きさはまったく違います。
| 残された領国 | その後 | |
|---|---|---|
| 長宗我部元親 | 土佐一国(阿波・讃岐・伊予は没収) | 九州攻めで嫡男信親が戦死。長宗我部氏はどうなったのか |
| 島津義久 | 薩摩・大隅、日向の一部 | 弟の義弘が当主格として豊臣政権に仕え、江戸時代も薩摩藩として続く |
| 徳川家康 | 5か国をそのまま保つ | 秀吉の妹(旭姫)を正室に迎え、豊臣政権の最大の大名に |
四国の国分けは四国国分に、四国攻めのあとの論功行賞は天正十三年の論功行賞にまとめています。秀吉が一番気をつかった相手が家康だったことは、この表からもよくわかります。
四国攻めは第36回「姫若子と鬼若子」で描かれ、秀長が総大将として長宗我部元親と向き合いました。九州攻めはこのあとの回で描かれる見込みです。家康が「野望」を胸に秀吉に臣従する第41回と並べて見ると、同じ秀吉に向き合った3人の大名の違いが見えてきそうです。
まとめ
家康が秀吉と引き分けられたのは、家康が特別に強かったからだけではありません。秀吉がまだ関白ではなく、紀州・四国・北陸の敵に囲まれていた時期に、信長の子を立てて戦えたからです。長宗我部と島津は、その包囲網が崩れ、秀吉が関白として全国の兵を動かせるようになってから戦いました。しかも急に広げた領国の国衆は、大軍を前にすぐ離れていきました。秀長はその四国攻めと九州攻めの両方で、大軍を率いる立場にいました。
よくある質問
Q. 長宗我部元親は四国を統一していたのですか?
A. 天正13年春に伊予の河野氏が降って統一したとする説と、伊予の一部が残っていたとする説があります。いずれにしても、従ったばかりの地域が多い状態でした。
Q. 島津はなぜ秀吉と戦ったのですか?
A. 秀吉が九州停戦令で大友との戦をやめるよう命じましたが、島津は九州の大半を手中にしかけていたため、これに従いませんでした。
Q. 家康は秀吉に勝ったのですか?
A. 長久手の戦いでは勝ちましたが、戦全体としては信雄の単独講和で終わり、家康も最後は天正14年に上洛して臣従しました。
あわせて読みたい:「家康の野望」とは何か?第41回のタイトルを4つの候補から予想する
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あわせて読みたい:家康はなぜ最後に秀吉への臣従を決断したのか
参考:平井上総『長宗我部元親・盛親』、新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』、各自治体の史跡解説

