家康の我慢強さはどこから来たのか|人質生活、三河一向一揆、三方ヶ原、築山殿と信康、関東移封 ─ 「鳴くまで待とう」はつくられた家康像

冬の岡崎城で普請を急ぐ人々のイメージイラスト
この記事のポイント
  • 徳川家康の我慢強さは、6歳から19歳まで続いた人質生活、家臣の半分に背かれた三河一向一揆、三方ヶ原の大敗といった、若いころの苦い経験から育ったと考えられます
  • 妻の築山殿と長男・信康を失った事件、秀吉への臣従、先祖の地を離れる関東移封と、家康は大きな我慢を何度も重ねました
  • ただし「鳴くまで待とう」の句や「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」の遺訓は、江戸時代になってからつくられたものとされます
  • 我慢強い家康の像は、天下を取った結果からさかのぼって磨かれた面もあります。実際の家康は、怒りや焦りを顔に出すこともある人でした

徳川家康といえば、とにかく我慢強い人というイメージがあります。妻子を失い、秀吉に頭を下げ、先祖の地を離れても、家康は耐え続けました。その我慢強さは、どこから来たのでしょうか。『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」で、臣従しながら天下をあきらめない家康が描かれるのを前に、家康が耐えた場面を年代順にたどり、その源を考えます(家康の野望とは?いつから天下を狙っていたのか)。

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家康が耐えた場面を年表で見る

家康の生涯を、耐えた場面に注目して並べると次のようになります(徳川家康は秀吉・秀長と何歳ちがうのか)。

年 年齢 耐えたこと
天文16年(1547) 6歳 今川家へ向かう途中で奪われ、織田家の人質になる
天文18年(1549) 8歳 今川家の人質として駿府へ。19歳まで過ごす
永禄6年(1563) 22歳 三河一向一揆。家臣の多くが一揆側につく
元亀3年(1572) 31歳 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗
天正7年(1579) 38歳 妻の築山殿と長男・信康を失う
天正14年(1586) 45歳 小牧・長久手で戦った秀吉に臣従する
天正18年(1590) 49歳 三河・遠江・駿河を離れ、関東へ移る
慶長5年(1600) 59歳 関ヶ原の戦い

源①:6歳から19歳までの人質生活

家康は、物心ついたころから人質でした。6歳のとき、今川家へ送られる途中で織田家に奪われ、尾張で2年を過ごします。8歳からは駿府の今川家の人質となり、桶狭間の戦いで今川義元が討たれる19歳まで、他家の屋根の下で暮らしました。自分の思いどおりにならない環境で、相手の顔色を見ながら機会を待つ。家康の我慢強さの土台は、この少年時代にあったと考えられます。駿府では、のちに北条家の外交役となる北条氏規とも親しくしていたと伝わります(北条氏規とは)。

源②:家臣に背かれた三河一向一揆

岡崎に戻って独立した家康を、22歳のとき大きな試練が襲います。三河一向一揆です。一向宗(浄土真宗)の門徒だった家臣の多くが一揆側につき、家康は自分の家臣と戦わなければなりませんでした。のちに家康の側近となる本多正信も、このとき一揆側にいた一人です。家康は一揆を鎮めたあと、背いた家臣の多くを許し、再び迎え入れました。力で押さえつけるより、時間をかけて人をつなぎとめる。この経験も、家康の我慢の形をつくったでしょう。

源③:三方ヶ原の大敗

31歳の家康は、浜松城の前を素通りする武田信玄の大軍に挑み、三方ヶ原で大敗しました。多くの家臣を失い、命からがら城に逃げ帰っています。この敗北のあと、家康は無理な戦いを避け、武田家の戦い方や軍法を学んでいきました。のちに武田家の旧臣を多く召し抱えたのも、その表れです(三方ヶ原の戦いとは、家康はなぜ軍法を「武田流」に改めたのか)。

いちばん重い我慢 ─ 築山殿と信康

天正7年(1579)、家康は正室の築山殿を死なせ、長男の信康を自害に追いこみました。江戸時代以来、信長から武田家と通じた疑いをかけられ、家康は同盟を守るために泣く泣く妻子を手にかけた、と語られてきました(徳川家康の妻たち一覧)。

▽ よく語られる話
家康は信長の命令に逆らえず、愛する妻子を泣く泣く失った。それが家康の我慢強さを象徴する出来事だった。
▼ 史実ではこうです
近年の研究では、信長の命令が本当にあったのかを疑い、家康と信康の親子の対立や、徳川家中の争いが原因だったとする見方が強くなっています。家康が苦しい決断をしたことに変わりはありませんが、「信長に耐えた家康」という語られ方は、のちの時代に整えられた面があります。

秀吉への臣従と関東移封

小牧・長久手の戦いで秀吉と互角に戦った家康は、天正14年に大坂城で秀吉に臣従しました。さらに天正18年には、秀吉の命で三河・遠江・駿河など先祖代々の地を離れ、関東へ移ります。どちらも家康にとって大きな我慢でしたが、臣従で高い官位と東国の取りまとめ役を得て、関東では約250万石という最大の領国を手にしました。我慢は、そのまま力をたくわえる時間にもなったのです(臣従した家康は何を得たのか)。

関東移封の翌年、天正19年には、伊達政宗が葛西大崎一揆のあと米沢から岩出山へ移されます。このとき岩出山城を手直しして政宗に引き渡したのは家康でした。先祖の地を離れた家康が、同じく本拠を移される政宗を迎え入れたことになります。家康が政宗にどんな言葉をかけたのかは、逸話の域を出ませんが、二人のつながりはここから深まっていきます(岩出山城)。

「鳴くまで待とう」はつくられた家康像

「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」の句は、江戸時代後期の随筆に、信長・秀吉・家康の性格を言い表した句として出てくるもので、家康が詠んだものではありません。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」で始まる遺訓も、後世につくられたものとされます。天下を取り、江戸幕府を開いたという結果から、家康は「耐えて待った人」として語られるようになりました。実際の家康は、関ヶ原で爪を噛んでいらだつなど、焦りを顔に出すこともある人でした(関ヶ原の戦いをわかりやすく解説)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第41回「家康の野望」は10月25日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、大政所まで人質に出されて家康がついに上洛しますが、それは形ばかりの上洛だと秀長は察します。松下洸平さん演じる家康が、頭を下げる場面でどんな表情を見せるかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

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よくある質問

Q. 家康はなぜ我慢強かったのですか?
A. 6歳から19歳までの人質生活、家臣に背かれた三河一向一揆、三方ヶ原の大敗といった若いころの経験が、慎重で辛抱強い性格を育てたと考えられます。

Q. 家康は何年間人質だったのですか?
A. 6歳で織田家、8歳から19歳まで今川家の人質として過ごしました。

Q. 「鳴くまで待とう」は家康の言葉ですか?
A. いいえ。江戸時代後期の随筆に見える句で、家康が詠んだものではありません。

Q. 築山殿と信康の事件は信長の命令だったのですか?
A. 江戸時代からそう語られてきましたが、近年は家康と信康の対立が原因だったとする見方が強くなっています。

まとめ

家康の我慢強さは、長い人質生活、家臣に背かれた三河一向一揆、三方ヶ原の大敗といった若いころの経験から育ったものでした。妻子を失った事件、秀吉への臣従、関東移封と、家康は大きな我慢を重ねながら、そのたびに力をたくわえていきます。ただ「耐えて待つ家康」の姿は、天下を取った結果から磨かれた面もあり、実際の家康は焦りやいらだちを見せることもありました。その人間らしさも含めて見ると、第41回の家康がいっそう面白く見えてきそうです。

参考:『三河物語』/『徳川実紀』/松浦静山『甲子夜話』/柴裕之『徳川家康』平凡社/平山優『徳川家康と武田信玄』角川選書

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