【筆者のもしも】茶々は本当は誰に嫁ぐはずだったのか:京極高次?羽柴秀勝?徳川家康? 石田三成・大野治長・木村重成説まで考えてみた ─ 『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」

秋の奥御殿の縁側で、何通もの書状を前に遠くを見つめる打掛姿の姫と侍女のイメージ(イラスト)

茶々(淀殿)が秀吉以外の誰かに嫁いでいたら ─ この記事は、そんな「もしも」を筆者が勝手に考えてみた読み物です。結論を先に書くと、筆者がいちばんありえたと考える相手は京極高次、次いで秀吉の養子・羽柴秀勝(於次)、外交の切り札としての徳川家康です。よく名前が挙がる石田三成・大野治長は後世の物語から生まれた組み合わせで、木村重成は年齢の点でまずありえません。史実で確かなことと筆者の想像は、はっきり分けて書いていきます。

※アイキャッチの絵はイメージ(イラスト)です。

目次

まず史実:妹たちは誰に嫁いだのか

「もしも」を考える前に、確かなことを押さえておきます。天正11年(1583)、北ノ庄城で母・お市の方と養父・柴田勝家を失った浅井三姉妹は、秀吉に引き取られました。三人の縁組は、秀吉の考えで決められていきます。

姉妹 夫 時期 ひとこと
茶々(長女) 豊臣秀吉 通説は天正16年ごろ(天正11年説も) 鶴松・秀頼を産む
初(次女) 京極高次 天正15年 浅井のかつての主筋。高次の母は長政の姉で、いとこ同士
江(三女) 佐治一成 → 羽柴秀勝(小吉)→ 徳川秀忠 最初の縁組は北ノ庄落城の翌年ごろ 三度目の夫・秀忠とのあいだに家光

妹たちの相手を見ると、秀吉が三姉妹の縁組に込めた考えが見えてきます。浅井家と縁の深い名家(京極)、織田家の縁者(佐治)、秀吉自身の身内(秀勝)、そして天下を争った相手の家(徳川)です。茶々の相手を考えるときも、この四つが手がかりになります。三姉妹の次女・初については初(常高院)とは、茶々の一生は茶々(淀殿)の生涯でくわしく紹介しています。

筆者が考える「茶々の夫」候補ランキング

ここからは筆者の想像です。「ありえた度」は筆者の勝手な見立てで、史料の裏づけがあるわけではありません。

第1位:京極高次 ─ ありえた度 ★★★★☆

史実では妹の初が嫁いだ相手です。京極家は近江の名門で、浅井家にとってはかつての主筋にあたります。しかも高次の母は浅井長政の姉で、三姉妹とはいとこ同士でした。秀吉の側室になった松の丸殿(京極竜子)は高次の姉妹です(秀吉の側室は何人いたのか)。

浅井の家名を立てるなら、長女の茶々を京極に、と考えるのはごく自然です。茶々が秀吉のもとに入ったからこそ、次女の初に京極家との縁が回ってきた、と見ることもできます。

第2位:羽柴秀勝(於次) ─ ありえた度 ★★★☆☆

信長の四男で、秀吉の養子になった於次秀勝です。茶々にとっては母方のいとこにあたります。秀吉の跡継ぎ候補と信長の姪を結べば、生まれる子は織田と浅井の血を引き、しかも豊臣家の跡取りになります。秀吉にとっては理想的な組み合わせです。

ただ、於次秀勝は毛利輝元の養女と縁組しており、天正13年の暮れに若くして亡くなりました。皮肉なことに、のちに妹の江が嫁いだのも、同じ「秀勝」の名を継いだ秀吉の甥(小吉秀勝)でした。秀吉の養子たちについては三好信吉(豊臣秀次)と秀吉の養子たちで関係図にしています。

第3位:徳川家康 ─ ありえた度 ★★☆☆☆

天正14年(1586)、秀吉は家康を臣従させるため、すでに嫁いでいた妹の旭姫を離縁させてまで家康に嫁がせました(旭姫と大政所)。もしこのとき茶々が秀吉の手元に独り身でいたら ─ 信長の姪で、年ごろの姫である茶々は、旭姫よりはるかに「格」の高い縁組の切り札になりえたはずです。

実際、浅井三姉妹の三女・江は、のちに家康の跡継ぎ・秀忠に嫁ぎ、三代将軍家光の母になりました。浅井の娘が徳川に嫁ぐ未来は、本当にあったのです。

番外:織田家ゆかりの武将 ─ ありえた度 ★★☆☆☆

三女の江が最初に嫁いだ佐治一成は、母が信長の妹という織田家の縁者でした。茶々も、まずは同じように織田の縁につながる武将へ、という道はありえたでしょう。ただ、秀吉が織田家の力をそいでいく流れの中では、長女を織田方に戻す縁組は、秀吉にとってうまみが少なかったとも考えられます。

▽ よく語られる話
茶々には秀吉の前に決まった婚約者がいて、秀吉がそれを横取りした。
▼ 史実ではこうです
そうした婚約者がいたことを示す確かな史料はありません。北ノ庄城が落ちたとき茶々は十代半ばで、母と養父を失い、縁組を決める立場の人はもう秀吉しかいませんでした。この記事のランキングは、妹たちの縁組の傾向から筆者が組み立てた想像です。

石田三成・大野治長・木村重成はありえたのか

石田三成 ─ ありえた度 ★☆☆☆☆

三成と茶々は、ともに北近江の出身です。そのため、小説やドラマでは二人のあいだに特別な思いがあったように描かれることがあります。しかし、三成は秀吉の家臣で、身分の点で信長の姪を妻に迎えられる立場ではありませんでした。二人の本当の関係は石田三成と茶々(淀殿)の関係で整理しています。

大野治長 ─ ありえた度 ★☆☆☆☆

治長の母・大蔵卿局は茶々の乳母で、治長は茶々の乳兄弟にあたります。幼いころから身近にいた人物ですが、乳母の子と主家の姫が夫婦になることは、当時の身分の感覚ではまず考えられません。江戸時代には二人の仲を取りざたする噂が広まりましたが、根拠はありません(秀頼は本当に秀吉の子だったのか)。

木村重成 ─ ありえた度 ☆☆☆☆☆

大坂の陣で名を残した木村重成は、母が秀頼の乳母で、秀頼とともに育った武将です。亡くなったときは二十代前半とされ、生まれたのは茶々が秀頼を産んだのと同じころです。茶々とは親子ほど年が離れていて、夫の候補にはなりえません。重成の活躍は大坂の陣をわかりやすく解説で紹介しています。

そもそも「別の誰か」の余地はあったのか ─ 天正11年説

ここで、ひとつ大きなひっくり返しがあります。茶々が秀吉の妻になったのは、通説では天正16年(1588)ごろとされます。ところが歴史学者の黒田基樹氏は、北ノ庄城が落ちた直後の天正11年、秀吉の姫路城滞在のころに茶々はすでに秀吉と結ばれていた、という見方を示しています。

この説が正しければ、茶々には「ほかの誰かに嫁ぐ」時間はほとんどなかったことになります。また近年は、茶々は単なる側室ではなく、正室に準じる「別妻」という立場だったとする見方も出ています。三姉妹の縁組の順番を考えると、長女の茶々が真っ先に秀吉のもとに入り、残る二人の行き先がそのあとで決まった、という流れはたしかに筋が通ります。茶々の生い立ちと年表は茶々(淀殿)の生涯で確認できます。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第39回「茶々の本心」では、跡継ぎのために新しい妻を迎えるよう秀長が秀吉に勧め、相手は織田の血を引く茶々しかいない、という流れが予告されています。秀吉は寧々の心中を思って強く反発します。「茶々の本心」というタイトルからすると、勧められる側の茶々自身がこの縁組をどう受け止めるのかが、回の終わりに見えてくるのでしょう。放送後は、この枠を実際の描かれ方に差し替えます。

もし茶々が秀吉に嫁がなかったら、歴史はどう変わったか

最後に、思いきり想像を広げてみます。茶々が京極高次に嫁いでいたら、秀吉に実の子は生まれず、豊臣家の跡は甥の秀次が継いだはずです(秀吉に実子はいたのか)。秀頼が生まれなければ、秀次事件も起きなかったかもしれません。関ヶ原の戦いや大坂の陣も、まったく別の形になっていたでしょう。

そう考えると、茶々が誰に嫁いだかは、一人の姫の縁組にとどまらず、豊臣家の運命そのものを決めた選択でした。『豊臣兄弟!』第39回のタイトル「茶々の本心」は、まさにその分かれ道を描く回になりそうです。茶々が秀吉を受け入れた理由は茶々はなぜ仇・秀吉の側室になったのかで、秀長が勧めたという話の真偽は秀長は本当に秀吉に茶々を勧めたのかで考えました。

よくある質問

Q. 茶々には秀吉の前に婚約者がいたのですか?
A. 秀吉より前に茶々の縁談が決まっていたことを示す確かな史料はありません。この記事の候補は、妹たちの縁組などをもとにした筆者の想像です。

Q. 茶々と石田三成は恋仲だったのですか?
A. 同じ北近江の出身であることから物語ではよく結びつけられますが、恋仲だったことを示す史料はありません(石田三成と茶々の関係)。

Q. 茶々が秀吉の妻になったのはいつですか?
A. 通説では天正16年(1588)ごろで、翌年に鶴松を産んでいます。北ノ庄落城直後の天正11年とする説もあります。

Q. 『豊臣兄弟!』で茶々を演じているのは誰ですか?
A. 井上和さんです。

まとめ

茶々が秀吉以外に嫁いでいたら ─ 筆者の見立てでは、いちばんありえたのは京極高次、次いで羽柴秀勝(於次)、外交の切り札としての徳川家康でした。石田三成や大野治長は物語が生んだ組み合わせで、木村重成は年齢の点でありえません。そして、茶々が早い段階で秀吉のもとに入っていたとする説に立てば、「別の誰か」の余地はもともとほとんどなかったことになります。放送後は、ドラマの茶々がどんな「本心」を見せたかを第39回「茶々の本心」あらすじ予想と史実に追記します。

参考:黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書ほか/福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房/呉座勇一「『豊臣兄弟!』で知りたい 茶々とねねの本当の関係」(幻冬舎plus)

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