秀吉と秀次はどういう関係だったのか:甥、人質、そして「候補のひとり」

八幡山城/アクセス・場所・地図 安土城の遺構を多く取り入れた豊臣秀次の居城 八幡山城

秀吉と秀次の関係を一言で言えば叔父と甥です。秀次の母は秀吉の姉・とも。血のつながりははっきりしています。ところが「秀吉の養子」という広く知られた説明のほうは、意外にはっきりしません。養子縁組を示す明証は確認されていないのです。そして秀吉には、秀次のほかにも養子や猶子が大勢いました。秀次は唯一の後継者だったのではなく、候補のひとりでした。

この記事のポイント
  • 秀次は秀吉の姉・ともの子。甥にあたる
  • 「秀吉の養子」とされるが、縁組の明証は確認されていない
  • 秀次が実際に養子に出されたのは宮部家と三好家で、秀吉の家ではない
  • 秀吉には信長の四男や家康の次男まで、養子・猶子が大勢いた
  • 秀次の弟二人も豊臣の一門として配られていた
図|豊臣家の後継候補は、秀次ひとりではなかった

後継の候補出自末路羽柴秀勝(於次)織田信長の四男天正十三年に病死豊臣鶴松秀吉の実子天正十九年に三歳で死去豊臣秀勝(小吉)秀次の弟文禄元年、巨済島で病死豊臣秀保秀次の弟。秀長の婿養子文禄四年に死去豊臣秀次秀吉の甥文禄四年に切腹豊臣秀頼秀吉の実子ただ一人、残る秀次は「唯一の後継者」ではなく、候補のひとりだった。候補が次々に死に、最後に実子が生まれたとき、順番は消えた。

宇喜多秀家・結城秀康・小早川秀秋も養子や猶子として迎えられている。
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まず血縁 ― 秀吉の姉の子

秀次の実父は三好吉房、実母は瑞竜院日秀尼、すなわち秀吉の姉の「とも」です。秀次は永禄十一年(一五六八)の生まれで、秀吉から見れば甥にあたります。

『豊臣兄弟!』第39回で秀長が言い切った「秀次には殿下の器はない」については、なぜ秀長は「秀次には殿下の器はない」と言ったのかで考えています。

秀吉に長く実子がいなかったことは知られています。姉の子は、その空白を埋められる数少ない血縁でした。

「秀吉の養子」だったのか

▽ よく語られる話
天正十九年、秀吉は秀次を養子(養嗣子)とし、関白の座を譲った。
▼ ただし
秀次を秀吉の養嗣子とする記述は多く見られますが、一方で養子縁組したことを示す明証は確認されていないという指摘もあります。家督と関白を譲られたことは確かでも、正式な縁組の史料は今のところ見つかっていません。

この違いは小さく見えて重いものです。養子でないなら、秀次の立場は制度に支えられていないことになります。秀吉の意思ひとつで動く位置だった、ということです。

秀次は二度、他家へ出されている

はっきりしているのは、秀次が秀吉以外の家には確かに養子に出されていることです。

一度目は元亀二年ごろ、浅井家臣の宮部継潤のもとへ。調略のための差し出しで、実質は人質でした。二度目は天正十年、阿波の三好康長のもとへ。長宗我部を牽制するための縁組です。

つまり秀吉にとって甥は、まず外へ配る駒でした。手元に置いて跡取りに育てた、という関係ではありません。

秀吉には、養子と猶子が大勢いた

ここが見落とされがちな点です。秀吉が迎えた養子・猶子は秀次だけではありません。

  • 羽柴秀勝(於次) 織田信長の四男。天正十三年十二月に病死
  • 豊臣秀勝(小吉) 秀次の弟。於次秀勝の死の直後に養子になったと見られる
  • 豊臣秀保 秀次の弟。豊臣秀長の婿養子となった
  • 宇喜多秀家 備前の大名・宇喜多直家の子。猶子として遇された
  • 結城秀康 徳川家康の次男
  • 小早川秀秋 正室ねねの親族

信長の四男も、家康の次男もいます。秀吉は血縁と同盟の両方から、後継になりうる少年を集めていたのです。秀次はその中の一人でした。

近江八幡山城跡の石垣

八幡山城跡。三兄弟がそれぞれ家を与えられた頃、秀次はこの城にいました。

三兄弟が、そろって配られた

もう一つ目を引くのが、秀次の兄弟の扱いです。

長男の秀次は宮部家を経て三好家へ。次男の小吉秀勝は秀吉の養子に。三男の秀保は秀長の婿養子に。姉の子三人が、それぞれ別の家に配られています。

これは長宗我部が弟たちに他家を継がせたやり方と、発想が重なります。血族を器に流し込んで、その家ごと取り込む。豊臣も同じ手を使っていました。

叱る立場にはあった

関係を示す具体的な出来事として残っているのが、白山林の敗戦のあとに秀吉が送った折檻状です。天正十二年、秀次は数え十七歳でした。

養子かどうかはともかく、秀吉が甥を叱り、教え、扱う立場にあったことはこの一件からわかります。そして叱られた翌年、秀次は近江八幡で四十三万石を与えられています。

順番が回り、そして消えた

候補が大勢いたということは、順番が動くということでもあります。

天正十三年に於次秀勝が病死。天正十九年に鶴松が三歳で死去。このとき秀次に順番が回ってきました。家督を譲られ、百万石と関白を得ます。

ところが文禄二年に秀頼が生まれます。そして文禄元年には小吉秀勝が朝鮮の陣中で病死し、文禄四年には秀保も世を去りました。候補が次々に消え、最後に実子が生まれた。この順番の変化が、そのまま秀次事件につながります。

豊臣秀次が築いた八幡山城跡

八幡山城跡。関白になる前の秀次が、この城にいました。

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まとめ

秀吉と秀次は叔父と甥です。養子だったとする説明は広く行われていますが、縁組の明証は確認されていません。秀次が実際に養子に出されたのは宮部家と三好家でした。

そして秀吉には、信長の子から家康の子まで、養子・猶子が大勢いました。秀次は唯一の後継者ではなく、候補のひとりだったのです。順番が回ってきたのも、消えたのも、本人の意思の外側で起きたことでした。

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