浅井井頼とは:茶々・初・江の弟、浅井家でただ一人生き延びた男子 ─ 小谷落城の年に生まれ、秀長に仕え、大坂の陣を戦い、京極家の「作庵」として終わるまで

瀬戸内の海を望む寺の縁側で、書状を手に遠くを見つめる僧形の男のイメージ(イラスト)

浅井井頼(あざい いより)は、北近江の戦国大名・浅井長政の子で、茶々(淀殿)・初・江の浅井三姉妹にとっては母違いの弟とされる人物です。小谷城が落ちた天正元年(1573)に生まれ、乳飲み子のまま織田方の追及を逃れました。成長すると羽柴秀勝、豊臣秀長、増田長盛らに仕え、大坂の陣では姉の茶々がいる大坂城に入って戦います。落城後は姉の初を頼って京極家の客分となり、「作庵(さくあん)」と号して生涯を終えました。浅井家の男子として武士の道を生き抜いた、ほとんど唯一の人物です。しかし、浅井家が大名として復活することは、ついにありませんでした。

※アイキャッチの絵は、晩年の井頼(作庵)をイメージしたイラストです。

目次

生まれと出自 ─ 小谷落城の年に生まれた「当年子」

井頼は浅井長政の庶子、つまり正室お市の方以外の女性から生まれた子とされます。生まれは天正元年(1573)、父・長政が織田信長に攻められて小谷城で自害した、まさにその年です。江戸時代に書かれた『浅井三代記』には、信長の追及を逃れた「当年子(その年に生まれた子)」の次男がいたと記され、これが井頼にあたると考えられています。

通称は喜八郎、のちに周防守。名乗りは政信・政賢・長春・長房など、記録によって多くの諱(いみな)が伝わり、一つに定まりません。歴史学者の小和田哲男氏は、浅井三姉妹の男きょうだいとして確かなのは、長男の万福丸とこの喜八郎だけだと指摘しています。

▽ よく語られる話
浅井長政の男子は小谷落城で全員命を落とし、浅井家の血を引くのは三姉妹だけになった。
▼ 史実ではこうです
長男の万福丸は落城ののちに命を落としましたが、ほかに男子がいたことが伝わっています。万寿丸は僧となり、喜八郎(井頼)は武士として生き延びました。とくに井頼は、秀吉や秀長の家臣団の記録にも名が見える、実在の確かな人物です。

母が誰なのかもはっきりしません。浅井家の系図には「万福丸と同じ母」とするものもありますが、のちに次女の初が残した遺言状の書きぶりから、お市の方以外の側室の子と考えるのが一般的です。浅井家と三姉妹の関係は浅井三姉妹のその後、母のお市の方についてはお市の方とはで紹介しています。

小谷落城のとき ─ 乳飲み子が生き延びた理由

天正元年8月、小谷城は信長の大軍に攻められて落ちました。お市の方と三人の娘は城を出て織田方に引き取られましたが、浅井家の男子には厳しい追及が及び、長男の万福丸は落城ののち命を落としています。小谷城の戦いの流れは小谷城の戦い(小谷落城)とはでくわしく書きました。

生まれたばかりの井頼が助かったのは、家臣や縁者の手で城の外へ逃がされ、身を隠して育てられたためと考えられます。どこで、誰に守られて育ったのかを示す確かな記録は残っていません。ただ、男子でありながら生き延びたこと自体が、浅井家にとっては奇跡のようなことでした。

なお、長政のもう一人の男子とされる万寿丸は、のちに近江の福田寺に入って僧になったと伝わります。出家すれば家を継ぐ立場からは外れます。武士として浅井の名を背負って生きたのは、井頼だけだったのです。

秀吉の時代 ─ 羽柴秀勝、秀長、増田長盛に仕える

天正11年(1583)、北ノ庄城が落ちて姉たちが秀吉に引き取られたのと同じころ、十歳ほどの井頼の名が記録に現れます。最初に仕えたのは、信長の四男で秀吉の養子だった羽柴秀勝(於次)でした。秀勝は姉たちのいとこにあたる人物です。

天正13年の暮れに秀勝が亡くなると、井頼は豊臣秀長に仕え、六百石を与えられました。『豊臣兄弟!』の主人公・秀長の家臣だった時期があるのです(豊臣秀長とは)。秀長の死後、跡を継いだ秀保が若くして亡くなると、大和郡山には増田長盛が入ります。井頼はこの増田長盛に仕え、三千石を与えられました(豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか)。

ここで注目したいのは、姉との扱いの差です。長姉の茶々は秀吉の妻となり、鶴松と秀頼を産んで豊臣家の中心に立ちました。一方、同じ浅井長政の子でありながら、井頼は大名どころか、ほかの大名の家臣として数百石から三千石を受ける身にとどまっています。秀吉には、自分が滅ぼした浅井家を大名として立て直すつもりはなかったのです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では、茶々(井上和)が第39回「茶々の本心」で物語の中心に出てきます。浅井井頼は登場人物として発表されていません。ただ、秀長に仕えた時期がある人物なので、茶々と秀長の縁を描くなかで名前が出てくる可能性はあります。登場が発表されたら、この枠を更新します。

関ヶ原のあと ─ 浪人として各地を渡り歩く

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのあと、主君の増田長盛は西軍に味方したとして所領を没収されます。井頼も浪人となりました(関ヶ原の戦いをわかりやすく解説)。

その後、井頼は讃岐の生駒一正を頼って丸亀城に身を寄せますが、やがて生駒家を出て、土佐の山内家に仕えます。ところが、もとの主家である生駒家が「奉公構(ほうこうかまい)」をかけたため、山内家を去らなければなりませんでした。奉公構とは、出ていった家臣をほかの家が召し抱えないよう求める、当時の武家の決まりです。浅井長政の子という血筋を持ちながら、井頼は仕官先を探して渡り歩く浪人の身でした。

大坂の陣 ─ 姉・茶々のいる大坂城へ

慶長19年(1614)、徳川と豊臣の大坂冬の陣が始まると、井頼は豊臣方として大坂城に入りました。城には長姉の茶々(淀殿)と、甥にあたる秀頼がいます。冬の陣では二の丸の東の守りについたと伝わります。

翌年の夏の陣では、毛利勝永の隊に加わって戦いました。夏の陣で討ち死にしたとする説もありますが、大坂城が落ちたあと城を脱け出し、ふたたび浪人になったとする見方が有力です。姉の茶々と甥の秀頼は、この落城とともに最期を迎えました。大坂の陣の流れは大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説で紹介しています。

姉の初は、このとき徳川と豊臣のあいだを取り持つ和平の使者として動いていました。井頼は豊臣方の将として、初は和平の使者として、同じ大坂の城をめぐってそれぞれの役目を果たしていたことになります(初(常高院)とは)。

最後 ─ 京極家の客分「作庵」として

大坂の陣のあと、井頼が頼ったのは次姉の初でした。初は若狭小浜の京極家に嫁いでいて、夫の高次はすでに亡くなっていましたが、息子の忠高が当主となっていました(初(常高院)とは)。井頼は京極家にかくまわれて出家し、「作庵」と号します。客分の扱いで五百石を与えられ、「京極作庵」とも呼ばれました。

初は亡くなる前に書いた遺言状で、作庵のことを「いまさら見捨てることはできない」という趣旨の言葉で京極家に頼んでいます。三姉妹のうち、最後まで弟の身を案じたのは初でした。

京極家はのちに讃岐丸亀へ移り、丸亀の玄要寺の過去帳には「京極作庵」の名が残っています。井頼の亡くなった年ははっきりしませんが、子孫は丸亀藩の藩士として続いたと伝わります。浅井家の血は、大名家としてではなく、京極家に仕える一家として細く受け継がれたのです。

浅井家はなぜ大名に戻れなかったのか

ここからは筆者の見方です。浅井家が大名として復活できなかった理由は、大きく三つ考えられます。

  • 秀吉に立て直す理由がなかった:浅井家を滅ぼした信長の家臣として、小谷攻めに加わったのは秀吉自身です。浅井の旧領・北近江も、秀吉が長浜城主として受け継いでいました。浅井家を大名に戻せば、自分の足元に旧主の家を立てることになります。
  • 浅井の血は「娘たち」が背負った:浅井の血筋の値打ちは、信長の姪でもある三姉妹の縁組に使われました。茶々は秀吉の妻に、初は京極家に、江は徳川家に。男子の井頼には、その役目が回ってきませんでした。茶々が誰に嫁ぐ可能性があったかは【筆者のもしも】茶々は本当は誰に嫁ぐはずだったのかで考えています。
  • 豊臣方についた:最後に大坂城に入って徳川と戦ったことで、徳川の世で大名に取り立てられる道は閉ざされました。

皮肉なことに、浅井の血そのものは、大名どころか天下の頂点に届いています。茶々の子の秀頼は豊臣家の当主に、江の子の家光は徳川三代将軍になり、江の娘の和子は後水尾天皇に嫁いで明正天皇の母となりました。浅井家は家としては滅びましたが、その血は将軍家と天皇家に流れ込んだのです。その流れから外れ、浅井の男子として一人で生き抜いたのが、井頼でした。

浅井井頼についてよくある質問

Q. 浅井井頼は茶々(淀殿)の弟ですか?
A. 浅井長政の庶子とされ、茶々・初・江にとっては母違いの弟にあたります。母はお市の方ではなく側室と考えられています。長姉・茶々の生涯は茶々(淀殿)の生涯で紹介しています。

Q. 浅井家の男子で生き残ったのは井頼だけですか?
A. 武士として生き延びて浅井の名を名のったのは、ほぼ井頼だけです。もう一人の男子とされる万寿丸は僧になったと伝わります。長男の万福丸は小谷落城ののちに命を落としました。

Q. 浅井井頼は豊臣秀長に仕えていたのですか?
A. はい。羽柴秀勝(於次)が亡くなったあと秀長に仕え、六百石を与えられたとされます。のちに増田長盛に三千石で仕えました。

Q. 浅井井頼は大坂の陣で戦死したのですか?
A. 夏の陣で戦死したとする説もありますが、落城後に脱出して浪人となり、のちに姉の初を頼って京極家の客分「作庵」になったとする見方が有力です。

Q. 浅井家は大名として復活しましたか?
A. 復活しませんでした。井頼の子孫は丸亀藩京極家の藩士として続いたと伝わります。

まとめ

浅井井頼は、小谷落城の年に生まれ、乳飲み子のまま生き延びた浅井長政の子です。羽柴秀勝、豊臣秀長、増田長盛に仕え、関ヶ原のあとは浪人として各地を渡り歩き、大坂の陣では姉の茶々のいる大坂城で戦いました。最後は次姉の初に救われ、京極家の客分「作庵」として生涯を終えます。浅井の名を背負った男子は彼一人でしたが、浅井家が大名として返り咲くことはありませんでした。姉たちが天下の中心へ嫁いでいったのとは対照的な、もう一つの浅井家の物語です。『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」の史実は第39回「茶々の本心」あらすじ予想と史実でまとめています。

参考:『浅井三代記』/『浅井氏家譜大成』/常高院(初)遺言状/小和田哲男『浅井長政のすべて』新人物往来社ほか

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