白地城跡:長宗我部元親が四国統一の根拠地にした「四国の十字路」と、大西氏二百五十年の城

白地城/アクセス・場所・地図 長宗我部元親の四国統一の重要な拠点となった白地城

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この記事のポイント
  • 白地城は、長宗我部元親が四国統一の根拠地とした城です。
  • もとは庄司の近藤氏が築き、郷名をとって「大西」と改姓しました。以後八代、およそ二百五十年の居城です。
  • 「大西」とは阿波の最西端を意味します。土佐・讃岐・伊予へ通じる四国の十字路でした。
  • 元親はここを改修して本拠とし、ここから四国へ出ていきました。
  • 秀吉の軍に敗れて土佐へ退いたあと、廃城となります。

長宗我部元親が四国を切り取っていくとき、本拠は土佐の岡豊城ではありませんでした。阿波の西の端、吉野川のほとりにある白地城です。ここは土佐・讃岐・伊予のどこへも出られる四国の十字路で、現地の案内板は「兵事交通の要路」と記しています。元親はこの城を奪い、改修し、四国統一の根拠地としました。そして秀吉に敗れたとき、土佐へ退いた起点もこの城でした。

目次

「大西」という名は、阿波の西の端を意味する

白地大西城址の案内板

城跡に立つ「白地大西城址」の案内板。この記事の芯は、ここに書かれていることです。

城跡の案内板によれば、白地大西城を築いたのは大西氏ではありません。田井庄の庄司であった近藤氏が、建武二年にこの地へ城を構え、郷名をとって「大西」と改姓したとあります。つまり家が土地の名を名のったわけです。

その「大西」とは、阿波の最西地を意味します。案内板はこう続けます。往時この地は土佐・讃岐・伊予の各地に通ずる兵事交通の要路であり、大西氏は外に出ては大剛、内にあっては民治に意を用いた領主であった、と。

以来八代、およそ二百五十年にわたる居城でした。

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四国統一の城は、降伏が決まった城になった|白地城と長宗我部元親

なぜここが「四国の十字路」なのか

白地城跡から見下ろす吉野川と池田の町

城跡から見下ろした吉野川と池田の町。この谷が四国を東西に貫いています。

地図を開くと、この城の値打ちがすぐ分かります。

吉野川に沿って東へ下れば阿波の平野と勝瑞へ。南へ峠を越えれば土佐へ。北へ抜ければ讃岐へ。西へ進めば伊予へ。四国の四か国すべてに、ここから道が伸びています。

逆に言えば、土佐の岡豊城は南に寄りすぎていました。四国全域へ兵を出す拠点としては、遠すぎるのです。元親がこの城を欲しがった理由は、地形そのものにあります。

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天正三年、阿波侵略が始まる

案内板は、元親の阿波侵略が天正三年に始まったと記しています。そして最初に領土を奪われたのは、南方の海部氏でした。

海部は阿波の南端、土佐との境にあります。土佐から北上する元親にとって、最初にぶつかる相手でした。

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そして天正五年、大西氏の番が来ます。案内板は「大西氏も防戦かいなくその所領を侵され」と書き、城主の大西覚養は身をもって讃岐の麻城へ難をさけたと続けます。城を捨てて逃げた、ということです。

案内板と、よく見る説明の食い違い

この城については、築城者と攻略の年に揺れがあります。

▽ よく語られる話

白地城は南北朝時代に大西氏が築いた城である。

▼ 現地の案内板はこう書いています

築いたのは田井庄の庄司・近藤氏で、建武二年のことです。城を構えたあとに郷名をとって大西と改姓したと記されています。大西という家があって城を築いたのではなく、城を築いてから大西を名のったという順序です。攻略の年についても、案内板は天正五年としています。

現地に立つ案内板が唯一の正解というわけではありませんが、地元が調べて掲げたものです。この記事では案内板の記述を軸に置きました。

元親は、この城をどう使ったのか

白地城址の石碑

城跡に立つ「白地城址」の石碑。木立に囲まれた静かな場所です。

案内板は短く、しかし決定的なことを書いています。「元親は白地城に入りこれを改修して根拠地とし四国統一の志をなしとげた」と。

奪ったあとに手を入れて、自分の城にしたということです。土佐の岡豊城は本国の城として残しつつ、四国へ出ていくための前線本部をここに置きました。阿波・讃岐・伊予への攻撃は、すべてこの城からの距離で測られることになります。

元親が弟たちにどの方面を任せたかは、こちらで図解しています。

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そして、退却の起点になった

天正十三年、秀吉の四国遠征軍が海を渡ってきます。十万が三方向から同時に入りました。

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案内板はこう締めます。「その後元親は天正十三年豊臣秀吉の四国遠征軍との戦に破れ土佐に退いた。以来大西城は廃城となった」

四国統一の根拠地が、そのまま撤退の起点になりました。ここから南の峠を越えて土佐へ引き返したとき、元親が十年かけて広げたものは、ほとんど残っていません。

元親がなぜ海で止められなかったのかは、別の記事で扱いました。

なぜ長宗我部元親は海で秀吉を止められなかったのか:八百艘の船団と、瀬戸内を持たなかった男

この城で、降伏が決まった

案内板は「土佐に退いた」の一行で済ませているが、そこに至るまでに、この城でひとつの場面があった。

秀長の本隊が取りついたのは阿波の一宮城である。城には九千余が籠もった。秀長はまず水の手を断ち、坑道を掘って城を物理的に崩しにかかった。力押しではなく、城が保たない条件を作っていく攻め方である。守将の江村親俊と谷忠澄(たに ただすみ)は、開城を決める。

そして忠澄は、ここ白地城へ戻ってきた。元親に会うためである。

忠澄が説いたのは兵力の差と、武器の質の差だった。前線で実際に相手を見てきた人間の報告である。戦っても勝てない、と彼は言った。

元親は、これに激怒する。『元親記』によれば、忠澄を罵倒し、切腹を申し渡した。

▽ よく語られる話
元親は四国統一の夢をあきらめ、潔く秀吉に降った。大きな相手との差を冷静に測れる人物だった。
▼ 史実ではこうです
白地城での元親は、まったく冷静ではない。降伏を勧めた家臣に切腹を申し渡している。十年かけて四国を押さえた男が、それを二か月で手放せと言われて素直にうなずけるはずがない。降伏は元親の判断というより、家臣たちが押し切った結果に近い。

忠澄は引かなかった。重臣たちを一人ずつ説き伏せ、最後は家臣が連名で元親に再考を願い出る形になった。ここで元親が折れる。七月二十五日付で、秀長が示した停戦条件を呑んだ。

興味深いのは、この役回りを担った忠澄がもとは武人ではなかったことである。土佐神社の神主で、元親に見出されて家臣になり、外交の仕事をしてきた人だった。刀で身を立てた者ほど、引くことを言い出しにくい。言えたのは、外から来た人間だった。

降伏を説いた男は、その後どうなったのか

谷忠澄の話には続きがある。

降伏の翌年、九州の戸次川で長宗我部の軍は壊滅し、元親の嫡男・信親が討たれた。このとき島津のもとへ信親の遺骸を受け取りに行ったのも、忠澄だった。敵方の陣へ入り、主君の息子の亡骸を引き取って帰る役である。

白地城で切腹を申し渡された男が、今度は元親のためにその仕事を引き受けている。のちに幡多郡の中村城代となり、行政を担った。

この城は、長宗我部が最も大きくなった場所であり、同時にその先を決めた場所でもある。四国統一の根拠地という顔と、撤退の起点という顔。そこにもうひとつ、家臣が主君を説き伏せた部屋という顔が重なる。

いま城跡に残るもの

案内板には、遺構についての記述もあります。「最近にいたるまで旧城の最高地の削平地、から堀、武者ばしり等が残存し、往時をしのぶことができた」—過去形です。

案内板を立てた時点で、すでに失われつつあったことになります。いま訪ねると、石碑と案内板、そして城跡から見下ろす吉野川の眺めが、主な手がかりです。

ただ、この眺めこそがこの城の本体でもあります。なぜ元親がここを欲しがったのかは、立ってみればすぐに分かります。

白地城跡へのアクセス

徳島県三好市池田町白地本名。吉野川に沿って走る道から、山側へ少し上がったところにあります。

近くには大西神社が建てられています。

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