中村城跡:京から下った一条家が築いた城と、助けた家に奪われた百年

中村城:公家の一条家が京都から下向して戦国大名へ 一条兼定の居城 土佐中村城
この記事のポイント
  • 中村城は、京の摂関家・一条家が土佐へ下ってきて築いた城です。
  • その一条家が、落ちぶれていた長宗我部を助けました。
  • 助けられた家の孫が、のちにこの城を奪います。
  • 見取図には十以上の門の名が並び、東・西・北の三の丸を持つ大規模な城でした。
  • いまの天守は昭和期に建てられた模擬天守です。

中村城は、京から下ってきた公家が築いた城です。応仁の乱を避けて土佐の幡多へ下向した一条家が、この地に館を構え、やがて戦国大名になりました。その一条家は、本拠を追われた長宗我部を保護し、岡豊城への復帰を取りもっています。そして助けられた家の孫にあたる元親が、のちにこの城を奪いました。土佐統一の最後の一手が、恩人の城でした。

目次

公家が、城を築いた

山上に建つ中村城の模擬天守と四万十の風景

城山に建つ天守。四万十川の流れる盆地を見下ろす位置にあります。

応仁の乱で京が焼けたとき、公家たちは荘園のある地方へ下りました。一条家もその一つで、土佐の幡多荘へ下向します。

普通なら、乱が収まれば京へ戻ります。ところが一条家はそのまま土佐に根を下ろし、戦国大名になりました。公家がそのまま大名化した、珍しい例です。

中村の町が「土佐の小京都」と呼ばれるのは、このとき京にならった町割りが行われたからだと言われます。

見取図が伝える、城の大きさ

中村城の見取図と由来を記した案内板

城跡に立つ「中村城 見取図」。門の名が番号つきで並んでいます。

城跡の案内板には、縄張りを描いた見取図が掲げられています。これを見ると、この城の規模がよく分かります。

曲輪は本丸のほかに二の丸、そして東・西・北の三方に三の丸があります。堀の代わりに蓮池と溜池が広がり、水をたたえた城でした。

そして門の名が番号つきで十以上並んでいます。大手一の門、大手二の門跡、中の門、内堀池門、外堀池門、ヤライ門、一の門、二の門……。なかに「不開門」があります。開かずの門です。

石垣を高く積む城ではありませんが、門と水で守る、平地の大きな城だったことが図から読み取れます。

長宗我部を助けたのは、この家だった

ここがこの城の物語の核心です。

長宗我部氏は元親の祖父・兼序の代に本拠の岡豊城を落とされ、家が滅びかけました。残された子の国親を保護したのが、この中村の一条家です。

国親は一条房家の庇護のもとで成長し、その口添えで岡豊へ戻ることができました。長宗我部が再び立てたのは、一条家のおかげです。

そして国親の子が元親でした。

▽ よく語られる話

元親は恩を仇で返し、一条氏を力ずくで滅ぼした。

▼ 史実ではこうです

当主の一条兼定を追放したのは元親の軍ではなく、一条家の家臣たちでした。そこに元親の働きかけがあったと見る説は有力ですが、直接手を下した形にはなっていません。元親は一条家をすぐには潰さず、兼定の子に自分の娘を嫁がせて当主として立てています。名目のうえでは主家を支える立場を保ちました。

力ずくというより、中身をじわじわ入れ替えていったと言うほうが実態に近いでしょう。

渡川の戦いで、土佐が一つになった

豊後へ去った兼定は、そのままでは終わりませんでした。天正三年、兵を集めて土佐へ戻り、渡川をはさんで元親と向き合います。

結果は元親の勝ちでした。これで土佐から長宗我部に抗う勢力は消えます。長浜の初陣から十五年が経っていました。

長宗我部元親はどうやって土佐を統一したのか:本山・安芸・一条と戦った十五年

幡多の地は、元親の弟・吉良親貞が受け持ったと伝わります。西を任された男です。

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いまの天守は、模擬天守

中村城の天守の屋根にのる鯱

天守の屋根にのる鯱。戦国の中村城に、こうした天守はありませんでした。

城山に建つ天守は、昭和期に建てられた模擬天守です。中身は郷土資料館になっています。

戦国の中村城に、こうした層塔型の天守はありませんでした。見取図が示すのは、館と曲輪と水堀で構成された城です。

ただ、この建物のおかげで城跡の位置がひと目で分かるという利点はあります。四万十の盆地のどこからでも見えるからです。

公家が下り、公家が去るまで

一条家が京から土佐へ下ってきて、戦国大名になり、家臣に追われて去るまで、およそ百年です。

その百年のあいだに、この家は一度だけ大きな仕事をしました。滅びかけた長宗我部の子を、匿ったことです。

もしあのとき国親を保護していなければ、長宗我部は戦国の途中で消えていました。四国を制する家も、一領具足という兵の仕組みも、幕末の土佐の上士と下士も、なかったかもしれません。

そして、その恩を受けた家に城を追われました。戦国の因縁として、これ以上のものはそうありません。

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中村城跡へのアクセス

高知県四万十市中村。城山公園として整備され、天守(郷土資料館)まで登れます。

一条氏が去ったあと、この城を預かった元親の弟については吉良親貞とはで紹介しています。

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