岐阜県中津川市に苗木城跡(なえぎじょうあと)がある。国指定史跡、続日本100名城142番。
この城には、日本の城の常識から外れた特徴がある。
天守が、巨大な岩の上にまたがって建っていた。

天守台に組まれた木の骨組み。巨岩の形に合わせて柱が立っている
二つの巨岩にまたがった天守
現地の案内板「苗木城天守建物」に、この天守の構造が詳しく書かれている。寸法まで残っているのがありがたい。
「苗木城の天守は二つの巨岩にまたがる形で作られ、三層となっていました。」
三層の内訳は、こうである。
- 地階……「天守縁下」と呼ばれ、板縁を入れて二間(4m)× 二間半(5m)程。岩の南西側隅にあった
- 1階……「玉蔵(たまくら)」。床面積は三間四方(6m × 6m)程。ここに地階と2階に通じる階段があった
- 2階……巨岩の上にあり、四間半(9m)× 五間半(11m)程の大きさ
地階から2階へ上がるにつれて、床が大きくなっていく。普通の天守と逆である。
理由は単純で、岩の形に合わせて建てたからだ。下は岩と岩の隙間、上は岩の上の平らな面。建物が地形に従っている。

「苗木城天守建物」の案内板。地階・1階・2階の絵図が添えられている
いま立っている柱穴は、当時のもの
案内板には、もうひとつ大事な一行がある。
「木造構造物は、この2階部分の床面を想定し復元したもので、岩の柱穴は当時のものを利用しています。」
岩に穿たれた柱穴が、そのまま残っている。
復元された展望台は、その穴に柱を立てている。四百年前の大工が岩に開けた穴に、いまも柱が刺さっているということである。
石垣が残る城は多い。だが「柱を立てた穴」がそのまま使える城は、そう多くない。
そして案内板はこう結ぶ。「苗木城天守2階部分は、展望台になっており眺望をお楽しみいただけます。」

天守台へ上がる階段。岩の間を縫うように付けられている
馬洗岩 — 米で馬を洗った岩
天守台の南下に、もうひとつ有名な岩がある。馬洗岩(うまあらいいわ)である。
現地の案内板によれば、絵図に「この石廻り二十三間弐尺」とあり、周囲45m程の花崗岩質の自然石だという。
そして名前の由来が、この城でいちばん語られる話である。
かつて苗木城が敵に攻められ、水の手を切られた時に、この岩の上に馬を乗せ、米で馬を洗い水が豊富であるかのように敵を欺いた——と案内板は伝える。
山城の最大の弱点は水である。水源を断たれれば、どれだけ堅い城でも落ちる。
だから籠城側は「まだ水はある」と見せかけようとした。遠目には、白い米が流れ落ちる様は水に見える。
この手の話は各地の山城に伝わり、「白米城伝説」と総称される。苗木城の場合、周囲45メートルの岩という具体的な舞台が現地にあるのが強い。

馬洗岩。周囲45メートル。天守台の南下に、どっしりと据わっている

馬洗岩の案内板。米で馬を洗って水があるように見せた話が書かれている

城内に露出する巨岩。この城は岩の上に築かれている
本丸には石が敷かれていた
本丸の案内板には、発掘の成果が書かれている。
絵図に描かれた玄関の位置や、本丸に石が敷かれていたことが整備前の調査で確認されたという趣旨の内容である。いまの石敷きは、その調査をもとに復元されたものだ。
そして玄関の右側にある巨岩には柱穴があり、この巨岩から外へはみ出す形で建物が建てられていたことも記されている。
岩を避けず、岩を取り込んで建てる。苗木城の建築は、最初から最後までこの方針で貫かれている。

本丸の案内板。発掘調査でわかったことが記されている
登城路をたどる — 綿蔵門・坂下門・菱櫓門
苗木城の面白さは、天守だけではない。登城路そのものが見どころである。
駐車場から本丸まで、いくつもの門跡を抜けていく。建物は何も残っていないのに、石段と礎石と標柱だけで、門があったことがはっきりわかる。順番に見ていきたい。

綿蔵門跡。石段と礎石が残っている

綿蔵門跡の案内板
案内板には、こう書かれている。
「本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進むことができませんでした。年貢として納められた真綿が、門の2階に保管されていたことが名前の由来となっています」
午後四時で閉門。それ以降は本丸に入れない。
戦いの話ばかりが語られる城だが、実際の城は役所であり、住まいであり、倉庫だった。門の名が「綿蔵」なのは、二階が年貢の真綿の倉庫だったからだ。防御施設が同時に蔵でもある。一万石の小藩の、実務的な素顔が見える一行である。

坂下門跡。礎石と手前の石段が、状態よく残っている

坂下門跡の案内板。別名「久世門」の由来が書かれている
「この門は、礎石と手前の石段が、現在も状態よく残されています」——案内板の書き出しのとおりである。道の下にあったから坂下門。名前の由来はそのままだ。
面白いのは別名のほうである。
坂下門は「久世門(くぜもん)」とも呼ばれた。三代領主・遠山友貞(ともさだ)の奥方の実家であり、苗木城の改修に力添えをした徳川家譜代の名家、久世家の名から来ていると伝えられている。
一万石の小藩が、城を直すのに妻の実家を頼った。そしてその恩を、門の名として残した。教科書には絶対に出てこない種類の話である。

菱櫓門跡。石垣に挟まれた石段を上がっていく
菱櫓門跡。石垣の間の細い石段を上がる。ここも守りの要で、道が細く折れているのがよくわかる。

大矢倉跡。礎石が整然と並んでいる
大矢倉跡 — 「石垣の城」と呼ばれる理由
登城路の途中で、いちばん目を引くのが大矢倉跡である。
三層の櫓が建っていた場所で、いまは礎石だけが規則正しく並ぶ。柱がどこに立っていたかが、地面の石で読める。

上から見下ろした大矢倉。石垣が何段にも重なって山肌を覆う
上から見下ろすと、石垣が段になって積み上がっているのがわかる。苗木城が「石垣の城」と呼ばれる理由は、ここでいちばんよく見える。

別の角度から。曲輪と石垣が段々に重なっている

千石井戸・本丸口門跡の案内板

本丸口門跡の標柱。ここから先が本丸である
千石井戸 — 城内で一番高いのに、枯れなかった
本丸の手前に、千石井戸(せんごくいど)がある。
案内板によれば、この井戸は苗木城内でいちばん高い場所にあるにもかかわらず、どんな日照りでも水が枯れることがなかったと伝えられている。千人の用を達するから千石井戸。
ここで、さきほどの馬洗岩の話を思い出してほしい。水の手を切られ、米で馬を洗って水があるふりをした——そういう伝説の残る城の、山頂近くに、枯れない井戸がある。
伝説と遺構が、同じ山の上で隣り合っている。どちらが本当かを決める必要はない。両方あることが、この城の歴史の厚みである。
井戸の西にあった本丸口門は、本丸と二の丸の境の門で、総欅で建てられていたことから欅門(けやきもん)とも呼ばれた。井戸の北側には懸造りの小屋が並び、渋紙蔵・山方蔵・郡方蔵などがあったという。

天守台の懸造。巨岩の上に木の骨組みが組まれている

天守台の展望台から。眼下に木曽川、正面に中津川の市街が広がる

木曽川が大きく蛇行している。城との比高差は約170メートル
木曽川との比高差は、百七十メートル
本丸跡の案内板が、この眺めを説明している。
苗木城の本丸は、巨岩が重なる岩山・高森山の頂上部(432メートル)一帯にある。眼下の木曽川との比高差は、約170メートル。正面にはかつての中山道・中津川宿の街並みと、その背後に恵那山(2,191メートル)が一際高くそびえる。右は根の上高原がある保古山(970メートル)、左には木曽山系の山並みと東山道の神坂峠。
「木曽川を天然の堀とした城」という言い方をされる。だが実際に立ってみると、堀という言葉が控えめに思えるほどの高低差である。堀ではなく、谷だ。
関ヶ原で、城を取り返した男
この城の歴史でいちばん劇的なのが、遠山友政の話である。
苗木城はもともと遠山氏の城だった。だが天正十一年(1583)ごろ、遠山氏は城を追われる。森長可の圧力によるものとされる。
城を失った遠山友政は徳川家康を頼り、十七年を流浪して過ごす。
そして慶長五年(1600)、関ヶ原。
友政は東軍として、かつての自分の城を攻めた。当時の城主は西軍の川尻秀長である。友政はこれを攻め落とし、苗木城を取り返した。
十七年かけて、生まれた城に帰ってきた。
そして苗木遠山家は、そのまま明治まで一万石の大名として続く。戦国期に一度城を失った家が、幕末まで同じ城に居続けた例は珍しい。
なぜ石垣だけが残ったのか
苗木城の見どころは、なんといっても石垣である。
建物は明治の廃城で失われた。だが石垣は、岩と一体になっているため壊しようがなかった。
山の上で市街地化もされず、飯田城のように街に飲み込まれることもなかった。
使われなくなり、誰も手を入れなかったから残った。玄蕃尾城と同じ理屈である。
苗木城の現地写真





的場跡と、遠山家の墓地

的場跡。弓や鉄砲の稽古をした場所である
城内には的場跡もある。いまは草の生えた細長い平場で、標柱がなければ通り過ぎてしまう。だがここで毎日、弓と鉄砲の稽古が行われていた。

苗木遠山家の大名墓地と家臣団墓地(中津川市史跡)
そして城の麓に、苗木遠山家の大名墓地と家臣団墓地が残っている。
関ヶ原で城を取り返した友政から、明治まで十二代。その一族と、仕えた家臣たちが、同じ場所に眠っている。一万石という小さな藩が、二百六十年以上続いたことの証拠のような場所である。

「苗木城址」の碑。漢文で城の由来が刻まれている
訪ねるときに
登城口から本丸まで、それなりに登る。整備はされているが山城であることに変わりはない。歩きやすい靴で訪ねたい。
見どころを挙げるなら、まず天守台の展望台。復元された木組みに上がると、木曽川を見下ろす眺望が開ける。この城がなぜここに築かれたのかが、景色でわかる。
次に馬洗岩。周囲45メートルの一枚岩を、実際に回ってみてほしい。
そして石垣群である。岩と石垣が混ざり合う光景は、ほかの城では見られない。
苗木城・場所・アクセス
〒508-0101 岐阜県中津川市苗木
JR中央本線「中津川駅」からバス/中央自動車道「中津川IC」から車で約10分。
苗木遠山史料館の駐車場を利用できます。
苗木城ゆかりの城
- 岩村城(岐阜県恵那市)… 日本三大山城。同じく東美濃、遠山一族の城
- 飯田城(長野県飯田市)… 街に飲み込まれて遺構が消えた城
- 高遠城(長野県伊那市)… 甲州征伐で唯一戦った城
- 新府城(山梨県韮崎市)… 武田勝頼が自ら焼いた城
- 玄蕃尾城(福井県敦賀市)… 使われなかったから遺構が残った城
- 大島城(長野県松川町)… 武田信玄が築き、戦わずに開かれた伊那谷の城
- 馬籠宿(岐阜県中津川市)… 中山道の宿場町。木曽路が開いて武田は滅んだ
苗木城から遠山氏を追った森長可については、森長可とは:森蘭丸の兄「鬼武蔵」で詳しく書いています。
