戦国時代– category –
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戦国時代
武田勝頼はなぜ御館の乱で景虎を見限ったのか|黄金一万両より、東上野と北信濃 ─ 和睦させて帰った四か月
この記事のポイント勝頼が越後へ入ったのは、景虎の実兄・北条氏政に援軍を求められたからでしたところが勝頼は景虎と戦わず、景勝と和睦します。見限ったというより、仲裁して帰った形ですその代わりに受け取ったのが、東上野と北信濃です。信玄が長く争... -
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斎藤義龍はなぜ父・道三を討ったのか|一万七千五百と二千七百 ─ 長良川の兵の数が語る、美濃が選んだもの
この記事のポイント道三は長男の義龍に家督を譲りながら、弟たちに目をかけていたと伝わります。そこから不和が始まりました弘治元年、義龍は病と偽って弟二人を招き、討ち取ります。翌年四月、父子は長良川で戦いました兵の数は義龍方が一万七千五百、道... -
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畠山義継はなぜ伊達輝宗を連れ去ったのか|五ヶ村を残して召し上げ ─ 降伏の話がちがった男と、天正十三年十月八日の粟ノ巣の変
この記事のポイント畠山義継が降伏を決めたとき、家中が頼みにしていたのは「伊達に奉公すれば本領は安堵される」という話でしたところが実際に示された条件は、五ヶ村を残してあとは召し上げ。大名としては終わりに近い内容です取りなしてくれたのは、隠... -
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家康はなぜ真田に替地を出したのに断られたのか|沼田の代わりの伊那 ─ 四年後、秀吉の裁定で昌幸が同じ土地を受け入れた理由
この記事のポイント替地は出ていました。天正十三年四月、家康は沼田の代わりに信濃の伊那郡中を与えると昌幸に示しています昌幸はそれを断りました。沼田は自分の力で切り取った土地で、徳川から与えられたものではなかったからです家康は三河以来の譜代... -
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毘沙門天と上杉謙信|「毘」の旗はどこまで本当か ─ 春日山の毘沙門堂と、「毘沙門天の化身」が生まれたところ
この記事のポイント毘沙門天は四天王のうち北を守る多聞天のことで、ひとりで祀るときの呼び名です。甲冑をまとった武の神で、武士の信仰を集めました謙信が毘沙門天を信じていたことは確かです。春日山城には毘沙門堂があり、跡も残っていますいっぽう「... -
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上杉謙信はなぜ戦に強かったのか|青苧が運んだ銭、雪が守った国、関東管領の名分 ─ そして落とせなかった四つの城
この記事のポイント越後は貧しい雪国ではなく、青苧(あおそ)という繊維の一大産地でした。その流通を押さえたことが、兵を長く動かす銭になりました本国が日本海と山に囲まれ、冬は雪が国境をふさぎます。長く国を空けても攻め込まれにくい国でした関東... -
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淀城:茶々が鶴松を産んだ「淀殿」の名の由来 ─ 秀長が改修した淀古城と、徳川の淀城跡の見どころ・アクセス
淀城は二つある。秀吉の命で豊臣秀長が改修し、茶々が鶴松を産んだ戦国の淀古城(伏見区納所)と、松平定綱が築き稲葉氏が治めた徳川の淀城(淀本町)。「淀殿」の由来、天守台の石垣、アクセスまで。 -
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名胡桃城:北条滅亡の引き金になった真田の城 ─ 名胡桃城事件の舞台と、一列に並ぶ曲輪の見どころ・アクセス
名胡桃城(群馬県みなかみ町)は真田昌幸が沼田攻めのために築いた城。秀吉の沼田裁定で真田に残され、北条方の猪俣邦憲に奪われた名胡桃城事件が小田原攻めの引き金に。続日本100名城の縄張り・見どころ・アクセス。 -
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松代城(長野市):武田信玄の海津城から真田十代の松代藩へ ─ 真田信之が上田から移った城と、太鼓門・本丸石垣の見どころ
この記事のポイント松代城(長野県長野市)は、武田信玄が川中島の戦いの拠点として築いた「海津城」がはじまりです。築城は永禄2年(1559)から翌年にかけてとされ、山本勘助が縄張りをしたと伝わります武田家の滅亡後は城主が次々に替わり、元和8年(162... -
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小泉城(大和郡山市):平埜生成が演じる羽田正親が守った郡山の西の城と、片桐石州の小泉藩陣屋
この記事のポイント小泉城(奈良県大和郡山市小泉町)は、室町時代に興福寺の衆徒・小泉氏が築いた平城です秀長が大和に入った天正13年(1585)、三家老のひとり羽田正親が四万八千石で城主となり、本城・郡山城を西から守る城として改修しました江戸時代... -
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高知城:天守と本丸御殿がともに残る唯一の城と、山内一豊が大高坂山に築いた土佐二十四万石の本拠
高知城は、関ヶ原の戦いのあと土佐を与えられた山内一豊が大高坂山に築いた城。長宗我部元親の大高坂山城、河中山から高知への改名、享保の大火と再建、天守と本丸御殿がともに残る唯一の城の見どころを解説します。 -
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金子城:武蔵から来た金子氏が三百年守った新居浜の山城と、金子元宅の天正の陣
特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶ 金子城(かねこじょう)は、愛媛県新居浜市の金子山にあった山城です。鎌倉時代に武蔵国から移ってきた金子氏が築き... -
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宇陀松山城:秀長の家臣が守った大和の山城と、小堀遠州が壊した総石垣の城、城下町に残る黒門
この記事のポイント宇陀松山城(奈良県宇陀市)は、南北朝時代に秋山氏が築いた「秋山城」がはじまりの山城で、国の史跡・続日本100名城です秀長が大和に入ると、伊藤義之・加藤光泰・羽田正親・多賀秀種と、豊臣方の武将が次々に城主を務めました関ヶ原の... -
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備中松山城:天守が残る唯一の山城と、標高430メートルの日本三大山城
現存十二天守でいちばん高い場所にある城。七百年の歴史と、なぜ天守が残ったのか、雲海の狙い方まで解説します。 -
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高取城跡(高取町):日本三大山城のひとつ、標高583メートルに残る総石垣の城
標高583メートル、高低差390メートル。日本三大山城のひとつ高取城の歴史と、石垣が残る山上のめぐり方。 -
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福井城跡:結城秀康が北ノ庄城の上に築いた越前六十八万石の城と、天守台の「福の井」
※この記事の写真は筆者が現地で撮影したものです。 福井城は、徳川家康の次男・結城秀康が関ヶ原の戦いのあとに築いた、越前六十八万石の城です。柴田勝家の北ノ庄城のすぐ隣に築かれ、いまは本丸の跡に福井県庁が建っています。天守は江戸時代の前半に焼... -
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佐和山城跡(彦根市):「三成に過ぎたるもの」と呼ばれた石田三成の城と、跡形もなく壊された理由
※この記事の写真は筆者が現地で撮影したものです。 「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」。石田三成の居城として知られる佐和山城は、滋賀県彦根市の佐和山(標高約230メートル)にあった山城です。関ヶ原の戦いの三日後に落城し、その... -
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小栗忠政とは:姉川で家康を守った「又一」の槍—2,550石の旗本はなぜ大名にならなかったのか
小栗忠政(又一)は徳川家康に仕えた三河の武将。姉川の戦いで家康のそばを守り、一番槍を重ねて「又一」の名を与えられたと伝わります。父・吉忠、石高2,550石と大成村の領地、大名にならなかった理由、子孫の小栗上野介までを解説します。 -
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松尾山城(関ケ原町):小早川秀秋が陣を敷いたのは、城だった
関ヶ原の布陣図に「小早川秀秋」とだけ書かれる松尾山。そこには浅井氏の時代から城がありました。三成が改修させ、秀秋が押し入った山城の遺構と、登り方をまとめました。 -
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館山城(城山公園):里見氏最後の居城と、八犬伝のモデルとされた八人の家臣
安房里見氏が最後に本拠とした館山城。天正十九年の移転から、大久保忠隣に連座した改易までのわずか二十四年と、倉吉で殉死した八人、そして城山公園の歩き方をまとめました。
