来島城(くるしまじょう)は、今治の沖に浮かぶ小さな島そのものを城にしたものです。来島海峡の潮がぶつかる場所にあり、村上水軍の三家のひとつ、来島村上氏が拠りました。天正十年(一五八二)、来島通総は毛利と河野から離れて織田方につきます。のちに秀吉の四国攻めでは先鋒として伊予へ渡り、かつての主家を攻める側にまわりました。島には石垣と本丸跡が残ります。
- 来島海峡に浮かぶ島の全体が城になっている、海城のなかの海城
- 村上水軍は能島・因島・来島の三家に分かれ、立場は一枚岩ではなかった
- 来島通総の離反によって、瀬戸内の海の秩序が割れた
- 四国攻めでは先鋒をつとめ、のちに一族は豊後の山国へ移される

来島海峡に浮かぶ来島。島そのものが城で、まわりの潮の流れがそのまま堀の役目を果たしていた。
潮が守る城
来島海峡は、瀬戸内でも指折りの難所です。潮の流れが速く、時間によって向きが変わります。船を通すには、潮を読める人間が要る。逆にいえば、潮を読める者がこの海峡を握れば、通る船すべてを管理できます。
来島城は、その海峡のただ中にある島を使った城です。曲輪は島の地形にそって置かれ、岩を削り、石を積んで平場をつくっています。岸には船を着けるための施設があり、岩に穿たれた柱の穴が今も残るとされます。堀を掘る必要はありません。まわりの潮がそれ以上に確かな防御でした。

「来島城址」と刻まれた石柱。背後の斜面には岩と石積みが重なり、島を城に変えた手が加わっている。
村上水軍は一枚岩ではなかった
追われて、戻ってきた
離反した通総は、当然ながら毛利氏と河野氏から攻められました。島の城は囲まれ、通総は備中にいた羽柴秀吉のもとへ逃れます。本領を失ったわけです。
状況が変わったのは本能寺の変のあとでした。秀吉が天下人としての地位を固めると、通総は来島へ戻ります。海の領主が自分の海へ帰れるかどうかは、陸の政治で決まる—この一連の流れは、そのことをはっきり示しています。

「来島城本丸跡」と記された木の看板。落ち葉に覆われた平場が、島でいちばん高いところにある本丸にあたる。
四国攻めの先鋒として
天正十三年(一五八五)の四国攻めで、通総は伊予方面の先鋒をつとめました。伊予を攻める軍の中心は毛利輝元と小早川隆景です。かつて自分を攻めた相手と同じ側に立ち、かつての主家である河野氏を攻めることになりました。
戦後、通総は風早郡に一万四千石を与えられ、鹿島城を居城とします。島の城主から、陸に領地を持つ大名になったことになります。湯築城の河野氏は所領を失い、伊予は小早川隆景のものとなりました。
海の大名が山国へ
通総は慶長の役で朝鮮へ渡り、そこで討死しました。家督は子の長親が継ぎます。関ヶ原の戦いで長親は西軍についたため、所領を没収されました。
ただし家は残ります。のちに豊後の森に一万二千石を与えられ、久留島と名を改めて幕末まで続きました。海峡を押さえた一族が、海のない山あいの小藩として二百六十年を過ごしたことになります。城を持たない陣屋の藩で、小城などと同じ格でした。
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来島城跡の訪ね方
来島へは今治の波止浜港から連絡船が出ています。数分の航海ですが、潮の速さは船の上でよくわかります。島には集落があり、その奥に城跡の平場と石積みが残ります。本丸跡の看板まで登れば、海峡と来島海峡大橋が見わたせます。
今治の周辺には海に関わる城が集まっています。今治城は藤堂高虎が海水を引き入れて築いた城で、波切城の九鬼氏と同じく、海を知る者が城をどうつくるかがわかります。湯築城まで足を延ばせば、伊予の勢力がどう入れ替わったかをたどれます。
所在地:〒794-0001 愛媛県今治市来島
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