湯築城跡(道後公園):石垣も天守もない河野氏の城と、発掘で現れた家臣の屋敷

湯築城/アクセス・場所・地図 豊臣秀吉の四国征伐で滅亡した名門河野通直の居城 湯築城

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道後温泉のすぐ隣にある道後公園は、伊予の守護をつとめた河野氏の居城、湯築城の跡です。石垣も天守もなく、丘を土塁と二重の堀で囲んだだけの中世の城ですが、その堀と土塁がほとんど埋められないまま残り、発掘によって家臣の屋敷まで姿を現しました。日本100名城に選ばれているのは、天守の壮麗さではなく、戦国の城がどう使われていたのかをこれほど具体的に見せてくれる場所がほかにないからです。

この記事のポイント
  • 伊予の守護・河野氏が二百五十年にわたって本拠とした平山城
  • 石垣も天守もなく、丘を二重の堀と土塁で囲んだ中世の城
  • 秀吉の四国攻めで開城し、跡継ぎを残せぬまま河野氏は絶えた
  • 発掘で家臣の屋敷が見つかり、土塀や建物が復元されている
目次

湯築城とは:石垣も天守もない、土と水の城

湯築城は松山市道後町、道後温泉本館から歩いて数分の丘にあります。建武2年(1335年)ごろ、伊予の守護だった河野通盛が風早郡の河野郷からこの地へ本拠を移して築いたと伝えられ、以後およそ二百五十年にわたって河野氏の居城であり続けました。標高七十メートルほどの丘を中心に、内堀と外堀の二重の水堀がめぐり、その間に土塁が築かれています。伊予松山城のような近世の城とは造りがまったく違い、高さで守るのではなく、堀と土塁の重なりで敵を止める考え方でできた城です。

道後公園・湯築城跡の案内板

道後公園の入口に立つ案内板。国の史跡に指定されており、公園全体が城跡にあたる。

河野氏はどこから来たのか:源平から元寇まで

河野氏は伊予の古い豪族で、源平の争乱では河野通信が源氏方について所領を広げました。ところが承久の乱で朝廷方に付いたために所領の多くを失い、一族は各地へ散ります。時宗を開いた一遍上人がこの通信の孫にあたると伝えられるのも、一族が没落した時期の話でした。

家運を立て直したのが元寇です。河野通有は博多湾の防塁を背にして陣を張り、退路を断って戦ったと伝えられ、この働きによって河野氏は再び伊予の有力者として認められました。南北朝の争いを経て守護の地位を得たのが通盛で、湯築城はその新しい立場にふさわしい本拠として構えられたことになります。

守護でありながら、戦国大名になりきれなかった河野氏

戦国期に入ると、多くの守護家は家臣や国人を組み込んで戦国大名へ変わっていきますが、河野氏はその道を最後まで進めませんでした。伊予は山が国を細かく分け、東予には金子氏や石川氏、南予には西園寺氏、山間には宇都宮氏と、それぞれの谷を押さえる国人が並び立っています。海には来島や能島の村上氏がいて、来島城を拠点とする一族は河野氏に従いながらも独自に動きました。一族の内紛も絶えず、当主の座をめぐる争いが繰り返されています。

天文4年(1535年)ごろ、河野通直は外側にもう一重の堀と土塁をめぐらせ、その内側に家臣の屋敷を並べました。散らばりがちな家臣を城内に住まわせて束ねようとしたわけで、湯築城の二重構造は河野氏が抱えていた弱さへの答えでもありました。発掘で見つかった屋敷の並びは、この改造のときにできたものです。

湯築城跡の内堀と土塁

内堀の水面と、その内側に立ち上がる土塁。石垣を積まず、土と水だけで城の輪郭がつくられている。

長宗我部元親の侵攻と、小早川隆景の包囲

天正9年(1581年)、岡豊城を本拠に四国の統一を進めていた長宗我部元親が伊予へ攻め込みます。東予の城が次々と落ち、仏殿城(川之江城)も長宗我部方の手に渡って、河野通直はついに元親に従いました。ところが天正13年(1585年)、羽柴秀吉が四国攻めの大軍を送り、伊予方面を任された小早川隆景が瀬戸内を渡ってきます。東予では金子元宅が居城に籠もって激しく抵抗し、討ち死にしました。

▽ よく語られる話

湯築城はひと月ほどの籠城であっさり降伏した。石垣も天守もない古い城で、守りが弱かったからだ。

▼ 史実ではこうです

隆景は湯築城を囲みながら力攻めを避け、開城の交渉に持ち込んでいます。同じ四国攻めで金子元宅の城が力ずくで攻め落とされたのと比べると、湯築城の扱いは対照的でした。降伏を決めたのは城の弱さというより、頼みの長宗我部元親が土佐で降伏し、援軍の望みが絶たれたためだったと考えられます。二重の堀と土塁は、力攻めをためらわせるだけの構えを備えていました。

名門河野氏の終わりと、湯築城が廃された日

四国攻めが終わると伊予は小早川隆景に与えられ、開城した河野通直は隆景の庇護を受けて安芸の竹原へ移りました。ところが天正15年(1587年)、通直は二十代の若さで没します。跡を継ぐ子はなく、源平の昔から伊予に根を張った河野氏はここで大名としての歴史を閉じました。隆景が三原城を本拠として筑前へ移されると、伊予には福島正則が入り、本拠を今治方面の山城に定めたため、湯築城は使われないまま廃城となります。

その後の伊予は、加藤嘉明が松前城(伊予)から伊予松山城へ本拠を移し、藤堂高虎が今治城を築き、南予には大洲城が構えられるという、近世の城の時代に入っていきます。土と水でできた湯築城は、その転換のちょうど手前で役目を終えた城でした。

湯築城跡に復元された武家屋敷区の土塀

外堀と内堀のあいだに広がる武家屋敷区。発掘の成果をもとに土塀や区画が復元されている。

発掘が掘り起こした武家屋敷

明治に道後公園として整備されたこの場所には、長く動物園が置かれていました。その移転にともなう発掘調査で、外堀と内堀にはさまれた平坦地から、区画ごとに整然と並ぶ屋敷の跡が現れます。溝で仕切られた敷地、建物の柱穴、土塀の基礎、庭園の池の跡までが見つかり、中世の武家屋敷がどう並んでいたのかがこれほどまとまって確認できた例はほとんどありませんでした。

出土した遺物も多彩で、中国から渡ってきた青磁や白磁、茶の湯の道具、将棋の駒まで見つかっています。守護の城に集まっていた人々が、戦さの合間にどんな暮らしをしていたのかが手に取るようにわかる資料です。復元された土塀と建物、そして湯築城資料館の展示をあわせて見ると、絵図の残らない中世の城の姿がはっきり像を結びます。

湯築城資料館

園内の湯築城資料館。発掘の成果や出土品が展示され、城の構造を解説している。

道後公園(湯築城跡)・場所とアクセス

愛媛県松山市道後公園。伊予鉄道の市内電車で道後公園電停を降りればすぐ、道後温泉本館からも歩いて数分の距離です。公園は自由に歩くことができ、湯築城資料館と復元された武家屋敷の見学も無料で、日本100名城のスタンプは資料館に置かれています。丘の上の展望台からは松山の市街と伊予松山城の天守が望め、中世の城から近世の城へ視線を移すことができます。外堀に沿って一周すれば、二重の堀と土塁がどう重ねられていたのかが体でわかります。

湯築城跡の外堀

園を取り巻く外堀。水をたたえた堀と土塁が、築かれたときの輪郭をほぼそのまま伝えている。

伊予と四国の城
  • 伊予松山城 ― 加藤嘉明が築いた連立式天守の城
  • 今治城 ― 藤堂高虎が海水を引きこんだ日本三大水城
  • 大洲城 ― 木造で復元された四重の天守
  • 松前城(伊予) ― 嘉明が松山へ移る前の本拠
  • 来島城 ― 瀬戸内の潮を押さえた水軍の島城
  • 岡豊城跡 ― 伊予へ攻め入った長宗我部元親の本拠
  • 三原城 ― 伊予を与えられた小早川隆景の瀬戸内の城

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