特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶
- 元親の出発点は、父・国親が取り返した岡豊城でした。
- 北の本山氏、東の安芸氏、西の一条氏を、この順で片づけています。
- 初陣の長浜から土佐統一まで、およそ十五年かかりました。
- 最後の相手は、かつて長宗我部を助けてくれた主家筋の一条氏でした。
▶ 元親を支えた弟:香宗我部親泰とは ─ 阿波を攻め、信長・家康と渡り合った外交役/長宗我部兄弟とは
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が土佐一国をまとめるまでに、およそ十五年かかっています。二十二歳の初陣からです。相手は三つありました。北の本山氏、東の安芸氏、そして西の一条氏。この順に片づけていったのですが、最後に残った一条氏は、かつて落ちぶれた長宗我部を助けてくれた家でした。恩のある家を倒して、土佐は一つになります。
出発点は、父が取り返した城だった
長宗我部氏は、元親の祖父・兼序の代に一度滅びかけています。本山・山田・大平といった土佐の国人たちに攻められ、岡豊城は落ちました。
このとき残された子が国親です。国親は西の中村にいた土佐一条氏に保護され、成長したのち、一条房家の口添えで岡豊へ戻ることができました。長宗我部が再び立てたのは、一条氏のおかげだったということになります。
国親は岡豊を足がかりに周囲へ手を伸ばし、家中を鍛え直しました。元親が受け継いだのは、この立て直しの途中にあった家です。

岡豊城跡。父・国親が取り返し、元親がここから土佐へ出ていきました。
本山氏とは何者だったのか
本山氏はもともと土佐の山間から出た家です。それが平野へ下り、長岡・土佐の両郡に広がって、浦戸湾の近くまで押さえるようになりました。元親が家を継いだころ、土佐でいちばん大きな勢力はこの家でした。
そしてややこしいことに、本山茂辰の妻は、国親の娘でした。元親から見れば姉が嫁いだ先です。土佐の国人同士は縁組で結ばれており、敵か味方かは、その時々で入れ替わりました。
戦国の地方の争いは、こういう近い者同士のつぶし合いとして進みます。
最初の相手は、北の本山氏だった
本山氏は土佐の中央から北へ勢力を張り、長宗我部にとって目の前をふさぐ家でした。国親の代から、すでに争いは始まっています。
永禄三年五月、長浜で両軍がぶつかります。これが元親の初陣でした。色白で物静かな若殿が、この日を境に「鬼若子」と呼ばれるようになる—その話は、こちらで扱いました。
そして戦いの翌月、父の国親が世を去ります。元親は勝った直後に、家督を継ぐことになりました。

本山城跡。土佐でいちばん大きかった家の本拠です。
本山氏を押し切るのに、八年かかっている
初陣に勝ったからといって、すぐ片づいたわけではありません。
元親は本山方の城を一つずつ削り、永禄六年、ついに本山茂辰は居城の朝倉城に火を放って山間へ退きます。それでも抵抗は続き、子の親茂が降伏したのは永禄十一年のことでした。長浜から数えて八年です。
本山氏の本拠については、こちらで扱っています。
本山城:長宗我部元親と土佐中央の覇権を巡って争った本山茂辰の城
図でみる|元親が土佐を統一するまで
図|北・東・西の順に片づいていきます。相手が三つあったこと、そのどれもが一度では終わらなかったことが分かります。

安芸城跡。城兵の助命を条件に、国虎は自刃したと伝わります。
安芸氏は、なぜ元親に挑んだのか
安芸国虎は、元親が北の本山氏に手を取られているあいだに動いています。本山方と結び、手薄になった岡豊を突こうとしたと伝わります。
結果としては、この判断が安芸氏の命取りになりました。北が片づいた元親が、そのまま東へ向かってきたからです。
土佐という国は、平野が狭く、勢力が並び立ちにくい土地でした。誰か一人が抜けると、あとは一気に決まる—本山と安芸の消え方は、それをよく示しています。
次は東の安芸氏 ― 安芸国虎の最期
北が片づくと、元親は東へ向かいます。相手は安芸国虎。土佐の東部、太平洋に面した安芸を押さえていた家です。
永禄十二年、両軍は八流でぶつかり、元親が勝ちました。安芸城は囲まれ、家臣の裏切りもあって落ちます。国虎は城兵の助命を条件に自刃したと伝わります。
敗れた側の最期が、こういう形で伝えられているのは、戦国の土佐にしては珍しい部類です。
安芸城:安芸国虎が長宗我部元親に戦を挑み敗戦し落城した安芸城
最後に残ったのは、恩のある一条氏だった
北と東を押さえた元親の前に残ったのが、西の中村にいた土佐一条氏です。もとは京の摂関家の流れをくむ名門で、長宗我部にとっては祖父の代からの恩人にあたります。
天正二年、当主の一条兼定は家臣たちに退けられ、豊後へ去りました。
渡川の戦い ― 土佐一国がそろう
豊後へ渡った兼定は、そのままでは終わりませんでした。天正三年、兵を集めて土佐へ戻り、渡川をはさんで元親と対峙します。
結果は元親の勝ちでした。これで土佐から長宗我部に抗う勢力は消え、一国がそろいます。長浜の初陣から十五年が経っていました。
このあと元親は、阿波・讃岐・伊予へ兵を出していきます。弟たちにどの方面を任せたかは、こちらで図解しました。
長宗我部兄弟とは何者か:元親を支えた吉良親貞と香宗我部親泰、四国を分けて攻めた三人
統一を支えたのは、田を耕す兵だった
土佐は豊かな国ではありません。その国が十五年で一つにまとまり、さらに四国へ出ていけた理由のひとつが、兵の集め方にありました。
田の畦に具足を置いておき、貝の音が鳴ればそのまま出る—一領具足と呼ばれた半農半兵の兵たちです。動員の速さが、そのまま長宗我部の強みでした。
一領具足とは:田の畦に具足を置いた兵と、土佐に二百六十年残った身分

岡豊城跡。土佐一国がそろったあと、元親の目は海の向こうへ向きました。
長宗我部氏はどうなったのか:戸次川で嫡男を失い、浦戸で国を失い、六条河原で家が絶えるまで
信親の戦死、関ヶ原での改易、一領具足が蜂起した浦戸一揆、そして盛親の最期までを追っています。
徳島城跡:阿波青石で積まれた石垣と、上田宗箇がつくったと伝わる庭
濡れると青く光る石垣。石垣も庭も、同じ阿波青石でできています。
十河存保とは何者か:阿波と讃岐を失い、秀吉を頼り、戸次川で長宗我部信親と同じ日に倒れた男
阿波と讃岐を長宗我部に奪われ、畿内へ渡って秀吉を頼った三好最後の大将。戸次川で長宗我部信親と同じ日に討ち死にしています。
そして元親は、海を渡らなかった
四国をほぼ手中に収めた元親でしたが、そこで秀吉の十万と向き合うことになります。海から三方向へ渡ってきた軍に対し、元親は海で止めることができませんでした。
土佐を統一するまでの十五年と、四国の大半を失うまでの速さは、あまりに対照的です。
なぜ長宗我部元親は海で秀吉を止められなかったのか:八百艘の船団と、瀬戸内を持たなかった男
四国国分とは ─ 元親は土佐一国、なぜ伊予は毛利のものになったのか
降伏のあと、四国はどう分けられたのか。土佐一国に戻された元親のその後です。
香宗我部親泰とは:長宗我部元親の弟、阿波を攻め信長と渡り合った外交役
兄の東を任され、外交の窓口となった三男。長門での急死が長宗我部家の転機になった。
NHK『長宗我部兄弟!』の内容と史実:金子元宅との約束、起請文と地検帳
宛名を自分と同じ高さに書いた元親の書状と、二万の小早川軍に二千で挑んだ伊予の国人・金子元宅。番組で描かれた兄弟の外交を史実とあわせて解説しています。
- 長宗我部兄弟!(NHK)の内容と史実 ─ 金子元宅との約束
- 金子元宅とは ─ 長宗我部と運命をともにした伊予の国人
- 天正の陣とは ─ 二千で小早川の大軍に挑んだ伊予の戦い
- 金子城 ─ 金子氏が三百年守った新居浜の山城
- 長宗我部兄弟とは ─ 元親を支えた吉良親貞と香宗我部親泰
- 香宗我部親泰とは ─ 信長・家康と渡り合った外交役の弟
- 長宗我部と香宗我部は何が違うのか
- 長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのか
- 長宗我部元親の妻は誰だったのか ─ 明智光秀につながる縁組
- 豊臣兄弟と長宗我部兄弟 ─ 二組の兄弟の違い
- 三好康長とは ─ 信長が長宗我部から乗り換えた相手
- 十河存保とは ─ 阿波と讃岐を失った三好最後の大将
- なぜ長宗我部元親は海で秀吉を止められなかったのか
- 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
- 豊臣兄弟!第36回 ─ 四国攻めはなぜ二か月で終わったのか
- 四国国分とは ─ 長宗我部に残された土佐一国
- 戸次川の戦いとは ─ 長宗我部信親の戦死
- 長宗我部氏はどうなったのか ─ 盛親と家の終わり
- 谷忠澄とは ─ 元親に降伏を説き、信親の亡骸を迎えた家臣
- 岡豊城跡 ─ 長宗我部氏の本拠
- 本山城 ─ 土佐中央を争った本山氏の城
- 日和佐城 ─ 親泰に降った阿波の日和佐氏
- 白地城跡 ─ 四国統一の根拠地「四国の十字路」
- 浦戸城跡 ─ 長宗我部の天守があった最後の城
- 一宮城(阿波)─ 秀長の本隊が攻め、谷忠澄が籠もった城
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