長宗我部元親はどうやって土佐を統一したのか:本山・安芸・一条と戦った十五年

岡豊城/アクセス・場所・地図 四国統一まで目前まで迫った名将 長宗我部元親の居城 岡豊城
この記事のポイント
  • 元親の出発点は、父・国親が取り返した岡豊城でした。
  • 北の本山氏、東の安芸氏、西の一条氏を、この順で片づけています。
  • 初陣の長浜から土佐統一まで、およそ十五年かかりました。
  • 最後の相手は、かつて長宗我部を助けてくれた主家筋の一条氏でした。

長宗我部元親が土佐一国をまとめるまでに、およそ十五年かかっています。二十二歳の初陣からです。相手は三つありました。北の本山氏、東の安芸氏、そして西の一条氏。この順に片づけていったのですが、最後に残った一条氏は、かつて落ちぶれた長宗我部を助けてくれた家でした。恩のある家を倒して、土佐は一つになります。

目次

出発点は、父が取り返した城だった

長宗我部氏は、元親の祖父・兼序の代に一度滅びかけています。本山・山田・大平といった土佐の国人たちに攻められ、岡豊城は落ちました。

このとき残された子が国親です。国親は西の中村にいた土佐一条氏に保護され、成長したのち、一条房家の口添えで岡豊へ戻ることができました。長宗我部が再び立てたのは、一条氏のおかげだったということになります。

国親は岡豊を足がかりに周囲へ手を伸ばし、家中を鍛え直しました。元親が受け継いだのは、この立て直しの途中にあった家です。

岡豊城跡:長宗我部元親の本拠と、発掘で現れた礎石建物跡

長宗我部氏の本拠だった岡豊城跡

岡豊城跡。父・国親が取り返し、元親がここから土佐へ出ていきました。

本山氏とは何者だったのか

本山氏はもともと土佐の山間から出た家です。それが平野へ下り、長岡・土佐の両郡に広がって、浦戸湾の近くまで押さえるようになりました。元親が家を継いだころ、土佐でいちばん大きな勢力はこの家でした。

そしてややこしいことに、本山茂辰の妻は、国親の娘でした。元親から見れば姉が嫁いだ先です。土佐の国人同士は縁組で結ばれており、敵か味方かは、その時々で入れ替わりました。

戦国の地方の争いは、こういう近い者同士のつぶし合いとして進みます。

最初の相手は、北の本山氏だった

本山氏は土佐の中央から北へ勢力を張り、長宗我部にとって目の前をふさぐ家でした。国親の代から、すでに争いは始まっています。

永禄三年五月、長浜で両軍がぶつかります。これが元親の初陣でした。色白で物静かな若殿が、この日を境に「鬼若子」と呼ばれるようになる——その話は、こちらで扱いました。

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長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのか

長浜の戦いで何が起きたのかを、詳しく追っています。

そして戦いの翌月、父の国親が世を去ります。元親は勝った直後に、家督を継ぐことになりました。

本山氏の居城だった本山城跡

本山城跡。土佐でいちばん大きかった家の本拠です。

本山氏を押し切るのに、八年かかっている

初陣に勝ったからといって、すぐ片づいたわけではありません。

元親は本山方の城を一つずつ削り、永禄六年、ついに本山茂辰は居城の朝倉城に火を放って山間へ退きます。それでも抵抗は続き、子の親茂が降伏したのは永禄十一年のことでした。長浜から数えて八年です。

本山氏の本拠については、こちらで扱っています。

本山城:長宗我部元親と土佐中央の覇権を巡って争った本山茂辰の城

図でみる|元親が土佐を統一するまで

元親が土佐を統一するまで相手何が起きたか永禄三年本山氏長浜の戦い。二十二歳の元親が初陣を飾る永禄六年本山氏本山茂辰が朝倉城を捨て、山間へ退く永禄十一年本山氏本山親茂が降伏。土佐の北が片づく永禄十二年安芸氏安芸国虎が自刃。土佐の東が片づく天正二年一条氏一条兼定が豊後へ追われる天正三年一条氏渡川の戦い。土佐一国を統一父・国親が奪い返した岡豊城から、十五年でここまで来た。

図|北・東・西の順に片づいていきます。相手が三つあったこと、そのどれもが一度では終わらなかったことが分かります。

安芸国虎の居城だった安芸城跡

安芸城跡。城兵の助命を条件に、国虎は自刃したと伝わります。

安芸氏は、なぜ元親に挑んだのか

安芸国虎は、元親が北の本山氏に手を取られているあいだに動いています。本山方と結び、手薄になった岡豊を突こうとしたと伝わります。

結果としては、この判断が安芸氏の命取りになりました。北が片づいた元親が、そのまま東へ向かってきたからです。

土佐という国は、平野が狭く、勢力が並び立ちにくい土地でした。誰か一人が抜けると、あとは一気に決まる——本山と安芸の消え方は、それをよく示しています。

次は東の安芸氏 ― 安芸国虎の最期

北が片づくと、元親は東へ向かいます。相手は安芸国虎。土佐の東部、太平洋に面した安芸を押さえていた家です。

永禄十二年、両軍は八流でぶつかり、元親が勝ちました。安芸城は囲まれ、家臣の裏切りもあって落ちます。国虎は城兵の助命を条件に自刃したと伝わります。

敗れた側の最期が、こういう形で伝えられているのは、戦国の土佐にしては珍しい部類です。

安芸城:安芸国虎が長宗我部元親に戦を挑み敗戦し落城した安芸城

最後に残ったのは、恩のある一条氏だった

北と東を押さえた元親の前に残ったのが、西の中村にいた土佐一条氏です。もとは京の摂関家の流れをくむ名門で、長宗我部にとっては祖父の代からの恩人にあたります。

天正二年、当主の一条兼定は家臣たちに退けられ、豊後へ去りました。

▽ よく語られる話

元親は恩を仇で返し、主家の一条氏を力ずくで滅ぼした。

▼ 史実ではこうです

兼定を追放したのは、元親の軍ではなく一条家の家臣たちでした。そこに元親の働きかけがあったと見る説は有力ですが、直接手を下した形にはなっていません。元親は一条家をすぐには潰さず、兼定の子・内政に自分の娘を嫁がせ、当主として立てています。名目のうえでは、主家を支える立場を保ったわけです。力ずくというより、じわじわと中身を入れ替えていったと言うほうが実態に近いでしょう。

渡川の戦い ― 土佐一国がそろう

豊後へ渡った兼定は、そのままでは終わりませんでした。天正三年、兵を集めて土佐へ戻り、渡川をはさんで元親と対峙します。

結果は元親の勝ちでした。これで土佐から長宗我部に抗う勢力は消え、一国がそろいます。長浜の初陣から十五年が経っていました。

このあと元親は、阿波・讃岐・伊予へ兵を出していきます。弟たちにどの方面を任せたかは、こちらで図解しました。

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統一を支えたのは、田を耕す兵だった

土佐は豊かな国ではありません。その国が十五年で一つにまとまり、さらに四国へ出ていけた理由のひとつが、兵の集め方にありました。

田の畦に具足を置いておき、貝の音が鳴ればそのまま出る——一領具足と呼ばれた半農半兵の兵たちです。動員の速さが、そのまま長宗我部の強みでした。

一領具足とは:田の畦に具足を置いた兵と、土佐に二百六十年残った身分

岡豊城跡に残る石段

岡豊城跡。土佐一国がそろったあと、元親の目は海の向こうへ向きました。

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そして元親は、海を渡らなかった

四国をほぼ手中に収めた元親でしたが、そこで秀吉の十万と向き合うことになります。海から三方向へ渡ってきた軍に対し、元親は海で止めることができませんでした。

土佐を統一するまでの十五年と、四国の大半を失うまでの速さは、あまりに対照的です。

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