特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶
長宗我部兄弟(ちょうそかべきょうだい)は、土佐の長宗我部元親と、その弟の吉良親貞・香宗我部親泰のことです。NHKの特番『長宗我部兄弟!』では、元親を土佐兄弟の卓也さん、親泰を弟のゆうきさんが演じ、父・国親の「弱く小さき一族は、強き者に利用されていずれ滅びる」という言葉から始まる兄弟の物語が描かれました。番組の場面と史実は長宗我部兄弟!(NHK)の内容と史実で、兄弟が最後まで守った伊予の同盟者は金子元宅とはで解説しています。
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)には、ともに四国を切り取った弟たちがいました。次弟の吉良親貞(きら ちかさだ)と、三弟の香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)です。二人とも長宗我部を名のっていません。元親が土佐の名族の名跡を継がせたからです。兄が岡豊城で全体を指揮し、弟たちが西と東の方面軍を率います。この分業があったからこそ、土佐一国の小勢力にすぎなかった長宗我部は、二十数年で四国のほぼ全域に手を伸ばすことができました。そして弟が死ぬたびに、その拡大は止まっています。

岡豊城跡。三兄弟はここから四国へ向かいました。

イメージ(イラスト)|三兄弟が受け持った方面へ、豊臣の軍が同時に渡ってきました。
- 兄・長宗我部元親(一五三九〜一五九九)、次弟・吉良親貞、三弟・香宗我部親泰の三人
- 弟たちは長宗我部姓ではなく、征服した土佐の名族の家を継いだ
- 親貞は土佐西部、親泰は土佐東部から阿波南部を担当した「軍代」
- 親泰は信長・秀吉との外交も担い、長宗我部の対外交渉の窓口だった
- 親貞は天正四年(一五七六)、親泰は文禄二年(一五九三)に没した
- 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか:兄が渡らなかった夏と、十万の指揮
- 豊臣兄弟と長宗我部兄弟:同じ形の兄弟が、なぜ違う場所に着いたのか
- なぜ長宗我部元親は海で秀吉を止められなかったのか:八百艘の船団と、瀬戸内を持たなかった男
- 土佐藩の上士と下士:板垣退助・後藤象二郎・吉田東洋と、武市半平太・岡田以蔵・坂本龍馬の家はどこから来たのか

イメージ(イラスト)。四国の絵図を前に、兄弟が方面を分けている場面。右で文箱を手にしているのが弟の親泰で、彼は信長・秀吉との交渉も担いました。※実在の肖像にもとづくものではありません親泰ひとりの生涯は香宗我部親泰とはで詳しく書いています。
■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■
当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります
※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。
長宗我部兄弟とは、誰と誰のことか
長宗我部国親の子として、元親、親貞、親泰の三人がいました。生年でいうと元親が天文八年(一五三九)、親泰が天文十二年(一五四三)。親貞はその間で、元親の二つ下にあたります。
ほかに、国親の妾腹の子とされる島親益もいました。この人物は早くに世を去りますが、その死が長宗我部の進路を大きく変えることになります(島親益とは)。
注意したいのは、弟たちが「長宗我部」を名のっていないことです。親貞は吉良氏、親泰は香宗我部氏。どちらも土佐の名族で、長宗我部が屈服させた家です。名跡を弟に継がせ、その家ごと取り込みます。これが長宗我部の拡大の型でした。
兄・元親 ―「姫若子」から四国の覇者へ
元親は若い頃、色白で物静かなことから「姫若子(ひめわこ)」とあだ名されました。二十二歳での初陣、永禄三年(一五六〇)の長浜の戦いで一変し、「鬼若子」と呼ばれるようになります。
この初陣に、弟の親貞も並んで出ています。兄弟がそろって戦場に立ったところから、長宗我部の拡大は始まりました。元親個人の話は長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのかでくわしく扱っています。
元親が拠ったのは岡豊城(おこうじょう)。土佐のほぼ中央、国分川を見下ろす丘の上の山城です。晩年には海に面した浦戸城へ移りますが、四国を切り取った時期の司令部はずっと岡豊城でした。
次弟・吉良親貞 ― 西を任された男
吉良親貞は永禄六年(一五六三)、兄の命によって土佐の名族・吉良氏に婿養子として入り、家督を継ぎました。以後、軍代として土佐西部の制圧を担当します。
土佐の西には、京都から下向して戦国大名になった一条氏がいました。中村城を本拠とする一条兼定です。公家の家柄という権威を持つ相手で、正面から敵に回すのは難しかったのです。この方面を長く担ったのが親貞でした。
ところが親貞は天正四年(一五七六)に早世します。元親がまだ土佐統一を終えたばかりの頃で、四国へ本格的に出ていく直前でした。西の司令官を失ったことは、決して小さくありません。
三弟・香宗我部親泰 ― 東を制圧し、外交を担った男
香宗我部親泰は永禄十年から十一年(一五六七〜六八)ごろ、香宗我部親秀の娘を娶って婿養子に入り、家督を継ぎました。担当は土佐東部です。
東には安芸国虎がいました。親泰は兄とともにこれを攻め、天正三年までに安芸郡を完全に制圧。安芸城の城主となって郡の統治を任されます。
土佐を出てからも、親泰の担当は東でした。阿波へ進み、海部城を落とすとその守備を任され、阿波南部の軍代を兼ねます。牛岐城にも配され、日和佐城を降伏させたのも親泰でした。阿波の南半分は、事実上この弟が切り取った土地です。
そしてもう一つ、親泰には兄が任せられなかった役目がありました。外交です。
信長・秀吉との窓口は、弟だった
長宗我部が四国で動けたのは、畿内の織田信長と話がついていたからです。その交渉にあたったのが親泰でした。天正八年には安土城に赴いています。
元親の嫡男は信長から一字を受けて信親と名のりました。長宗我部の跡取りの名に織田の「信」が入るという関係を取り付けたのが、この弟の仕事です。
もっとも、信長との関係はのちに悪化します。四国の切り取りをめぐって織田家の方針が変わり、天正十年には長宗我部討伐軍が編成される寸前まで行きました。それを止めたのが本能寺の変です。
信長が死ぬと、次は秀吉が相手になります。ここでも窓口は親泰でした。兄が戦い、弟が交渉します。この分担は最後まで変わっていません。
島親益の死が、阿波侵攻の入口になった
四人目の兄弟、島親益については記録が少ないのですが、その死は長宗我部の歴史に深く刻まれています。
親益は阿波の海部で、海部城主の海部友光に殺害されたと伝えられます。長宗我部にとって、これは弟を殺されたという私的な事件であると同時に、阿波へ攻め込むための大義名分になりました。のちに元親と親泰は海部城を落とし、親泰がそこに入ります。
弟の死が、次の弟の任地を生みました。血のつながりが、そのまま軍事の論理に接続されています。長宗我部という一族の性格がよく出ている話です。
「軍代」と「名跡を継がせる」という二段構え
元親のやり方を整理すると、二つの仕組みが見えてきます。
一つは軍代(ぐんだい)。方面ごとに司令官を置き、その方面の作戦と統治をまとめて任せる制度です。西は親貞、東は親泰。兄はその上で全体を見ます。
もう一つが名跡を継がせることです。吉良氏、香宗我部氏。滅ぼした家を消さずに、弟に継がせて中身を入れ替えます。旧臣はそのまま家中に残り、領民から見れば主家は変わっていません。抵抗が少なく、しかも確実に長宗我部の力になります。
この方法は子の世代にも使われました。元亀二年(一五七一)に三男の親忠を津野氏へ、天正六年(一五七八)に次男の親和を讃岐の香川氏へ送り込んでいます。血族を名族の器に流し込んでいきます。長宗我部が短期間で四国に広がれたのは、戦の強さだけが理由ではありませんでした。
弟が死ぬと、兄は止まる
長宗我部兄弟の物語には、はっきりした区切りが二度あります。
一度目が天正四年(一五七六)の親貞の死。二度目が文禄二年(一五九三)の親泰の死です。親泰は朝鮮出兵の陣中で病没したとも伝えられます。
その間に、元親はもっと重い喪失を経験していました。天正十四年(一五八六)の戸次川の戦いで、嫡男の信親を失っています。頼りにした弟、期待した嫡男。支えを順に抜かれていった晩年の元親は、後継をめぐって家中を割り、慶長四年(一五九九)に六十一歳で世を去りました。
四国が豊臣の軍門に降った経緯は四国平定・九州平定をわかりやすく解説にまとめています。一宮城は、その最後の攻防の舞台になった城です。
豊臣兄弟と長宗我部兄弟
兄を弟が支えるという形は、同じ時代の豊臣家にもありました。並べてみると、似ているところと決定的に違うところがあります。
秀長がどう兄を支えたかはなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで扱っています。
兄弟の足跡をたどる城
- 岡豊城 元親の居城。長宗我部の司令部
- 浦戸城 晩年の元親と盛親の居城
- 本山城 土佐中央の覇権を争った本山氏の城
- 中村城 公家大名・一条氏の本拠。西の攻略目標
- 安芸城 親泰が城主となった土佐東部の拠点
- 海部城 島親益の死の舞台であり、阿波侵攻の足がかり
- 牛岐城 親泰が配された阿波の城
- 日和佐城 親泰の侵攻で降伏した阿波南部の城
- 一宮城 豊臣秀長との激戦地
長宗我部元親の妻は誰だったのか:石谷家の娘と、明智光秀の重臣につながっていた縁組
元親の正室の実家は、明智光秀の重臣・斎藤利三の兄が継いだ家でした。春日局へつながる線を図解しています。
長宗我部氏はどうなったのか:戸次川で嫡男を失い、浦戸で国を失い、六条河原で家が絶えるまで
信親の戦死、関ヶ原での改易、一領具足が蜂起した浦戸一揆、そして盛親の最期までを追っています。
豊臣兄弟!第36回「姫若子と鬼若子」史実解説|四国攻めはなぜ二か月で終わったのか
三方面から入った十万の軍と、二か月で決着した理由。
十河存保とは何者か:阿波と讃岐を失い、秀吉を頼り、戸次川で長宗我部信親と同じ日に倒れた男
阿波と讃岐を長宗我部に奪われ、畿内へ渡って秀吉を頼った三好最後の大将。戸次川で長宗我部信親と同じ日に討ち死にしています。
金子元宅とは:長宗我部と運命をともにした伊予の国人、武蔵から来た金子一族の三百年
金子氏の先祖は武蔵の武士団。なぜ伊予の新居浜にいたのか、なぜ河野氏ではなく長宗我部と結んだのか、元宅の死後に一族はどうなったのかをたどります。
NHK『長宗我部兄弟!』の内容と史実:金子元宅との約束、起請文と地検帳
宛名を自分と同じ高さに書いた元親の書状と、二万の小早川軍に二千で挑んだ伊予の国人・金子元宅。番組で描かれた兄弟の外交を史実とあわせて解説しています。
- 長宗我部兄弟!(NHK)の内容と史実 ─ 金子元宅との約束
- 金子元宅とは ─ 長宗我部と運命をともにした伊予の国人
- 天正の陣とは ─ 二千で小早川の大軍に挑んだ伊予の戦い
- 金子城 ─ 金子氏が三百年守った新居浜の山城
- 香宗我部親泰とは ─ 信長・家康と渡り合った外交役の弟
- 長宗我部と香宗我部は何が違うのか
- 長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのか
- 長宗我部元親の妻は誰だったのか ─ 明智光秀につながる縁組
- 豊臣兄弟と長宗我部兄弟 ─ 二組の兄弟の違い
- 長宗我部元親はどうやって土佐を統一したのか
- 三好康長とは ─ 信長が長宗我部から乗り換えた相手
- 十河存保とは ─ 阿波と讃岐を失った三好最後の大将
- なぜ長宗我部元親は海で秀吉を止められなかったのか
- 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
- 豊臣兄弟!第36回 ─ 四国攻めはなぜ二か月で終わったのか
- 四国国分とは ─ 長宗我部に残された土佐一国
- 戸次川の戦いとは ─ 長宗我部信親の戦死
- 長宗我部氏はどうなったのか ─ 盛親と家の終わり
- 谷忠澄とは ─ 元親に降伏を説き、信親の亡骸を迎えた家臣
- 岡豊城跡 ─ 長宗我部氏の本拠
- 本山城 ─ 土佐中央を争った本山氏の城
- 日和佐城 ─ 親泰に降った阿波の日和佐氏
- 白地城跡 ─ 四国統一の根拠地「四国の十字路」
- 浦戸城跡 ─ 長宗我部の天守があった最後の城
- 一宮城(阿波)─ 秀長の本隊が攻め、谷忠澄が籠もった城
長宗我部の記事をまとめて読むなら 長宗我部氏特集 へ。
次弟の生涯は吉良親貞とは、四人目の弟は島親益(島弥九郎)とはで、それぞれ詳しく書いています。
元親の嫡男で、『豊臣兄弟!』では林裕太さんが演じる信親については長宗我部信親とはで紹介しています。
まとめ
長宗我部兄弟とは、元親・親貞・親泰の三人です。弟たちは長宗我部を名のらず、吉良氏と香宗我部氏を継いで、西と東の方面軍を率いました。親泰はさらに信長・秀吉との外交も引き受けています。
弟に他家を継がせるという方法が、長宗我部の急拡大を可能にしました。同時にそれは、兄弟が欠けたときに代わりがきかないという弱さでもありました。親貞が死に、信親が死に、親泰が死にます。そのたびに長宗我部は一段ずつ足場を失っていきます。
四国の覇者と呼ばれた一族の強さと脆さは、どちらも同じ「兄弟」という仕組みから生まれていました。
- 香宗我部親泰とは
三男・親泰ひとりの生涯。安土で信長に会い、長門で急死するまで。 - 豊臣兄弟と長宗我部兄弟
秀吉・秀長と元親・親泰。同じ形の兄弟が、なぜ違う場所に着いたのか。 - 長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのか
兄・元親、二十二歳の初陣。 - 長宗我部元親はどうやって土佐を統一したのか
親泰が安芸城主になるまでの戦い。 - 長宗我部元親の妻は誰だったのか
石谷家と明智光秀。親泰の外交を支えた縁。 - 長宗我部と香宗我部は何が違うのか
一文字違いの名字と「宗我部」という地名。 - 十河存保とは何者か
中富川で親泰らに敗れた三好最後の大将。 - 第36回「姫若子と鬼若子」史実解説
豊臣兄弟と長宗我部兄弟がぶつかった四国攻め。 - 長宗我部氏はどうなったのか
弟たちを失った兄と、長宗我部家の行方。
戸次川の戦いとは:仙石秀久の渡河と、長宗我部信親・十河存保の戦死
大敗した仙石は大名に返り咲き、戦死した側の家は衰えました。九州攻め前哨戦の明暗。

