長宗我部兄弟とは何者か:元親を支えた吉良親貞と香宗我部親泰、四国を分けて攻めた三人

長宗我部元親には、ともに四国を切り取った弟たちがいました。次弟の吉良親貞と、三弟の香宗我部親泰です。二人とも長宗我部を名のっていません。元親が土佐の名族の名跡を継がせたからです。兄が岡豊城で全体を指揮し、弟たちが西と東の方面軍を率いる。この分業があったからこそ、土佐一国の小勢力にすぎなかった長宗我部は、二十数年で四国のほぼ全域に手を伸ばすことができました。そして弟が死ぬたびに、その拡大は止まっています。

この記事のポイント
  • 兄・長宗我部元親(一五三九〜一五九九)、次弟・吉良親貞、三弟・香宗我部親泰の三人
  • 弟たちは長宗我部姓ではなく、征服した土佐の名族の家を継いだ
  • 親貞は土佐西部、親泰は土佐東部から阿波南部を担当した「軍代」
  • 親泰は信長・秀吉との外交も担い、長宗我部の対外交渉の窓口だった
  • 親貞は天正四年(一五七六)、親泰は文禄二年(一五九三)に没した
図|元親は弟たちにどこを任せたか

阿波国(南部)海部城・牛岐城・日和佐城土佐国(東西に細長い国) ← 西     東 →吉良親貞(次弟)土佐西部・幡多方面中村城の一条氏と対峙長宗我部元親(兄)土佐中央岡豊城・本山城香宗我部親泰(三弟)土佐東部・安芸郡安芸城の城主となる兄が中央から全体を見て、弟たちが西と東を受け持った。東を固めた親泰は、そのまま海を越えて阿波南部の軍代を兼ねる。

弟たちは長宗我部を名のらず、征服した家の名を継いだ。これが長宗我部の拡大を速めた。
目次

長宗我部兄弟とは、誰と誰のことか

長宗我部国親の子として、元親、親貞、親泰の三人がいました。生年でいうと元親が天文八年(一五三九)、親泰が天文十二年(一五四三)。親貞はその間で、元親の二つ下にあたります。

ほかに、国親の妾腹の子とされる島親益もいました。この人物は早くに世を去りますが、その死が長宗我部の進路を大きく変えることになります。

注意したいのは、弟たちが「長宗我部」を名のっていないことです。親貞は吉良氏、親泰は香宗我部氏。どちらも土佐の名族で、長宗我部が屈服させた家です。名跡を弟に継がせ、その家ごと取り込む。これが長宗我部の拡大の型でした。

兄・元親 ―「姫若子」から四国の覇者へ

元親は若い頃、色白で物静かなことから「姫若子(ひめわこ)」とあだ名されました。二十二歳での初陣、永禄三年(一五六〇)の長浜の戦いで一変し、「鬼若子」と呼ばれるようになります。

この初陣に、弟の親貞も並んで出ています。兄弟がそろって戦場に立ったところから、長宗我部の拡大は始まりました。元親個人の話は長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのかでくわしく扱っています。

元親が拠ったのは岡豊城(おこうじょう)。土佐のほぼ中央、国分川を見下ろす丘の上の山城です。晩年には海に面した浦戸城へ移りますが、四国を切り取った時期の司令部はずっと岡豊城でした。

次弟・吉良親貞 ― 西を任された男

吉良親貞は永禄六年(一五六三)、兄の命によって土佐の名族・吉良氏に婿養子として入り、家督を継ぎました。以後、軍代として土佐西部の制圧を担当します。

土佐の西には、京都から下向して戦国大名になった一条氏がいました。中村城を本拠とする一条兼定です。公家の家柄という権威を持つ相手で、正面から敵に回すのは難しい。この方面を長く担ったのが親貞でした。

ところが親貞は天正四年(一五七六)に早世します。元親がまだ土佐統一を終えたばかりの頃で、四国へ本格的に出ていく直前でした。西の司令官を失ったことは、決して小さくありません。

三弟・香宗我部親泰 ― 東を制圧し、外交を担った男

香宗我部親泰は永禄十年から十一年(一五六七〜六八)ごろ、香宗我部親秀の娘を娶って婿養子に入り、家督を継ぎました。担当は土佐東部です。

東には安芸国虎がいました。親泰は兄とともにこれを攻め、天正三年までに安芸郡を完全に制圧。安芸城の城主となって郡の統治を任されます。

土佐を出てからも、親泰の担当は東でした。阿波へ進み、海部城を落とすとその守備を任され、阿波南部の軍代を兼ねます。牛岐城にも配され、日和佐城を降伏させたのも親泰でした。阿波の南半分は、事実上この弟が切り取った土地です。

そしてもう一つ、親泰には兄が任せられなかった役目がありました。外交です。

信長・秀吉との窓口は、弟だった

長宗我部が四国で動けたのは、畿内の織田信長と話がついていたからです。その交渉にあたったのが親泰でした。天正八年には安土城に赴いています。

元親の嫡男は信長から一字を受けて信親と名のりました。長宗我部の跡取りの名に織田の「信」が入るという関係を取り付けたのが、この弟の仕事です。

もっとも、信長との関係はのちに悪化します。四国の切り取りをめぐって織田家の方針が変わり、天正十年には長宗我部討伐軍が編成される寸前まで行きました。それを止めたのが本能寺の変です。

信長が死ぬと、次は秀吉が相手になります。ここでも窓口は親泰でした。兄が戦い、弟が交渉する。この分担は最後まで変わっていません。

島親益の死が、阿波侵攻の入口になった

四人目の兄弟、島親益については記録が少ないのですが、その死は長宗我部の歴史に深く刻まれています。

親益は阿波の海部で、海部城主の海部友光に殺害されたと伝えられます。長宗我部にとって、これは弟を殺されたという私的な事件であると同時に、阿波へ攻め込むための大義名分になりました。のちに元親と親泰は海部城を落とし、親泰がそこに入ります。

弟の死が、次の弟の任地を生んだ。血のつながりが、そのまま軍事の論理に接続されている。長宗我部という一族の性格がよく出ている話です。

「軍代」と「名跡を継がせる」という二段構え

元親のやり方を整理すると、二つの仕組みが見えてきます。

一つは軍代(ぐんだい)。方面ごとに司令官を置き、その方面の作戦と統治をまとめて任せる制度です。西は親貞、東は親泰。兄はその上で全体を見る。

もう一つが名跡を継がせることです。吉良氏、香宗我部氏。滅ぼした家を消さずに、弟に継がせて中身を入れ替える。旧臣はそのまま家中に残り、領民から見れば主家は変わっていない。抵抗が少なく、しかも確実に長宗我部の力になります。

この方法は子の世代にも使われました。元亀二年(一五七一)に三男の親忠を津野氏へ、天正六年(一五七八)に次男の親和を讃岐の香川氏へ送り込んでいます。血族を名族の器に流し込んでいく。長宗我部が短期間で四国に広がれたのは、戦の強さだけが理由ではありませんでした。

弟が死ぬと、兄は止まる

長宗我部兄弟の物語には、はっきりした区切りが二度あります。

一度目が天正四年(一五七六)の親貞の死。二度目が文禄二年(一五九三)の親泰の死です。親泰は朝鮮出兵の陣中で病没したとも伝えられます。

その間に、元親はもっと重い喪失を経験していました。天正十四年(一五八六)の戸次川の戦いで、嫡男の信親を失っています。頼りにした弟、期待した嫡男。支えを順に抜かれていった晩年の元親は、後継をめぐって家中を割り、慶長四年(一五九九)に六十一歳で世を去りました。

四国が豊臣の軍門に降った経緯は四国平定・九州平定をわかりやすく解説にまとめています。一宮城は、その最後の攻防の舞台になった城です。

豊臣兄弟と長宗我部兄弟

兄を弟が支えるという形は、同じ時代の豊臣家にもありました。並べてみると、似ているところと決定的に違うところがあります。

▽ 似ているところ
兄が前に出て、弟が実務と交渉を引き受ける。弟は兄の代理として軍を率い、外部との折衝にあたる。そして弟を失ったあと、兄の政権はどちらも傾いた
▼ 決定的に違うところ
秀長は最後まで豊臣の一員として大和郡山の大名になりました。対して長宗我部の弟たちは他家の名を継ぎ、長宗我部を名のっていません。豊臣が「豊臣という新しい家」を大きくしたのに対し、長宗我部は「土佐の古い家々」を内側から乗っ取っていった。同じ兄弟政権でも、土地との向き合い方が正反対です。

秀長がどう兄を支えたかはなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで扱っています。

兄弟の足跡をたどる城

  • 岡豊城 元親の居城。長宗我部の司令部
  • 浦戸城 晩年の元親と盛親の居城
  • 本山城 土佐中央の覇権を争った本山氏の城
  • 中村城 公家大名・一条氏の本拠。西の攻略目標
  • 安芸城 親泰が城主となった土佐東部の拠点
  • 海部城 島親益の死の舞台であり、阿波侵攻の足がかり
  • 牛岐城 親泰が配された阿波の城
  • 日和佐城 親泰の侵攻で降伏した阿波南部の城
  • 一宮城 豊臣秀長との激戦地

まとめ

長宗我部兄弟とは、元親・親貞・親泰の三人です。弟たちは長宗我部を名のらず、吉良氏と香宗我部氏を継いで、西と東の方面軍を率いました。親泰はさらに信長・秀吉との外交も引き受けています。

弟に他家を継がせるという方法が、長宗我部の急拡大を可能にしました。同時にそれは、兄弟が欠けたときに代わりがきかないという弱さでもありました。親貞が死に、信親が死に、親泰が死ぬ。そのたびに長宗我部は一段ずつ足場を失っていきます。

四国の覇者と呼ばれた一族の強さと脆さは、どちらも同じ「兄弟」という仕組みから生まれていました。

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