香宗我部親泰とは:長宗我部元親の弟、阿波を攻め信長と渡り合った外交役と、長門での死

香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)は、土佐の長宗我部元親の弟です。長宗我部国親の三男として天文十二年(1543年)ごろに生まれ、若くして土佐の名家・香宗我部家の養子に入りました。兄が四国統一を進めるなかで、親泰は東の安芸と阿波の攻略を任され、さらに織田信長や徳川家康との交渉を担う外交役として働きます。文禄二年(1593年)、秀吉の朝鮮出兵に向かう途中の長門で急死しました。親泰を失ったあと、元親の判断は乱れ、長宗我部家は衰えていったと言われます。

この記事のポイント
  • 長宗我部国親の三男で、元親の弟。香宗我部家の養子となり香宗我部を名のった
  • 安芸城主となり、阿波では軍代として攻略の最前線に立った
  • 安土城で信長に拝謁し、本能寺の変後は勝家や家康と通じた長宗我部家の外交役
  • 朝鮮出兵に向かう途中、長門で兄より先に急死。親泰の死が長宗我部家の転機になった
目次

香宗我部親泰とは|元親の弟、名家を継いだ三男

親泰は、岡豊城を本拠とした長宗我部国親の三男です。長兄が元親、次兄が吉良家を継いだ吉良親貞で、兄弟はそれぞれ土佐の有力な家を継ぐことで、長宗我部家の力を土佐じゅうに広げていきました。親泰が養子に入った香宗我部家は、土佐の香美郡を本拠とする古い家です。当主の香宗我部親秀は、隣り合う安芸氏などとの争いのなかで長宗我部家との結びつきを求め、弘治四年(1558年)、国親の三男だった親泰を跡継ぎに迎えました。長宗我部と香宗我部の名字の違いは長宗我部と香宗我部は何が違うのかで書いています。

安芸城と阿波の最前線|兄の東を任される

永禄十二年(1569年)、元親が土佐東部の安芸氏を滅ぼすと、親泰は安芸城主となり、土佐の東側を任されました。やがて長宗我部家の目が阿波へ向かうと、親泰は阿波南部の海部城を拠点に攻略の最前線に立ちます。天正七年(1579年)には富岡城を奪い、元親の代わりに現地の軍勢を率いる「軍代」として、阿波の国衆を切り崩していきました。兄の元親が土佐を固め、次兄の親貞が西の伊予方面を、親泰が東の阿波方面を受け持つ役割分担は、長宗我部兄弟とは何者かで詳しく書いています。土佐統一までの流れは長宗我部元親はどうやって土佐を統一したのかをどうぞ。

安土城で信長に会う|長宗我部家の外交官

親泰のもう一つの顔が、外交役です。天正八年(1580年)六月、親泰は海を渡って安土城で織田信長に拝謁し、阿波で争っていた三好康長ら三好氏との和睦を願い出ました。長宗我部家と信長のあいだをつないでいたのは、元親の妻の実家である石谷家や、その縁で結ばれた明智光秀でした。しかし信長はやがて三好氏の側に立ち、四国攻めを計画します。その直前に起きたのが本能寺の変でした。長宗我部家と光秀の関係は長宗我部元親の妻は誰だったのか、三好康長については三好康長とは何者かで書いています。

▽ よく語られる話
本能寺の変は、信長の四国攻めから長宗我部家を守ろうとした明智光秀が起こしたものだった。
▼ 史実ではこうです
信長が長宗我部家への方針を変えたことで、交渉役だった光秀の立場が悪くなったのは確かで、これを変の原因の一つとみる「四国説」は近年注目されています。ただ、変の原因はほかにも多くの説があり、四国問題だけで説明できるわけではありません。親泰が信長との交渉の最前線にいたことは、この時代の四国と中央の関係を考えるうえで欠かせない点です。

勝家・家康と結ぶ|秀吉包囲網のなかで

本能寺の変のあと、長宗我部家は阿波の中富川の戦いで十河存保を破り、四国の大半を手に入れます。一方で、中央では羽柴秀吉が力を強めていました。親泰は、秀吉と対立する柴田勝家や、小牧・長久手の戦いで秀吉と争った徳川家康と連絡をとり、長宗我部家を秀吉包囲網の一角に置きます。遠い四国から中央の情勢を読み、手を結ぶ相手を選ぶのが、親泰の役目でした。十河存保との戦いは十河存保とは何者か、小牧・長久手の戦いは小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?で書いています。

四国攻めと牛岐城|兄弟が秀吉に敗れるとき

天正十三年(1585年)、秀吉は弟の秀長を総大将に四国攻めを始めます。親泰は阿波の牛岐城を守り、秀長の大軍を迎え撃つ側に立ちました。しかし十万ともいわれる軍勢の前に阿波の城は次々と落ち、元親は降伏して土佐一国だけを残されます。「豊臣兄弟」と「長宗我部兄弟」が正面からぶつかったこの戦いは、第36回「姫若子と鬼若子」史実解説豊臣兄弟と長宗我部兄弟で書いています。戦後の領地の分け方は四国国分とはをどうぞ。

長門での急死|弟を失った兄

四国攻めのあと、長宗我部家は豊臣の大名として九州攻めや朝鮮出兵に動員されます。文禄二年(1593年)十二月、親泰は朝鮮へ向かう途中の長門で急死しました。五十一歳でした。兄の元親より先の死です。すでに次兄の親貞も早くに亡くなっており、元親は戸次川の戦いで嫡男の信親まで失っていました。支えとなる弟たちを失った元親は、その後、跡継ぎ問題などで強引な判断を重ね、長宗我部家は元親の死後、関ヶ原の戦いを経て改易されることになります。その行方は長宗我部氏はどうなったのかで書いています。

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まとめ|「もうひとつの兄弟の物語」の要

香宗我部親泰は、兄の元親が四国統一を進めるなかで、阿波の攻略と中央との外交という、長宗我部家の外側の仕事を一手に引き受けた人物でした。秀吉を支えた秀長のように、親泰もまた兄を支える弟だったのです。そして秀長の死が豊臣家の転機になったのと同じく、親泰の死は長宗我部家の転機になりました。元親の若き日については長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのかをご覧ください。

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