長宗我部と香宗我部は何が違うのか:一文字違いの名字と、「宗我部」という土佐の古い地名

長宗我部と香宗我部。一文字しか違いません。しかも兄が長宗我部、弟が香宗我部を名のっている。他人の空似にしては似すぎているし、同じ家にしては名が違う。答えは土地の名にあります。土佐には「宗我部(そがべ)」という古い地名があり、「長」と「香」は人名ではなく郡の名前でした。長岡郡の宗我部だから長宗我部、香美郡の宗我部だから香宗我部。どちらの郡の宗我部か、という意味だったのです。

この記事のポイント
  • 読みはちょうそかべこうそかべ
  • 共通する「宗我部」は土佐にあった古い地名・部の名
  • 「長」は長岡郡、「香」は香美郡。郡名で区別した
  • ただし出自まで同じとは伝わっていない。長宗我部は秦氏を称し、香宗我部は中原氏の流れとされる
  • 永禄十年から十一年ごろ、元親の弟・親泰が香宗我部家に入って二つの家がつながった
図|なぜ一文字違いなのか

宗我部(そがべ)土佐にあった古い地名・部の名長宗我部(ちょうそかべ)長岡郡の宗我部秦氏の後裔を称する香宗我部(こうそかべ)香美郡の宗我部中原氏の流れと伝わる永禄十年から十一年ごろ、元親の弟・親泰が香宗我部家へ養子に入る別々に名のっていた二つの宗我部が、ここで血でつながった「長」と「香」は人名ではなく、郡の名。どちらの郡の宗我部か、という意味だった。

同じ「宗我部」を名のっていたが、出自までは同じと伝わっていない。
目次

読み方は「ちょうそかべ」と「こうそかべ」

まず読みから。長宗我部=ちょうそかべ香宗我部=こうそかべです。

どちらも難読ですが、共通部分の「宗我部」をそかべと読むと覚えれば迷いません。前に付く一文字が違うだけです。

「宗我部」とは何か

宗我部は、土佐にあった古い地名です。もとをたどれば古代の部民制に行き着く名で、「蘇我部」とも書かれました。

長宗我部氏の初代とされる能俊が、土佐国長岡郡の宗部郷に住みついたことから、その地名を名のったと伝わります。『南海通記』では、治承四年(一一八〇)に能俊が土佐の曾我部に住んだことから曾我部の姓を賜った、とされています。

「長」と「香」は郡の名前だった

ここが核心です。

土佐には宗我部という地名が二か所ありました。長岡郡の宗部郷と、香美郡の宗我郷です。そして、それぞれの土地に住んだ一族が、どちらも「宗我部」を名のった。

同じ名では区別がつきません。そこで郡の名を頭に付けたのです。長岡郡の宗我部は宗我部、香美郡の宗我部は宗我部。

つまり一文字違いなのは偶然ではありません。もともと区別するために一文字だけ足したのですから、似ているのが当たり前なのです。

出自まで同じとは伝わっていない

では二つの家は同族だったのか。ここは慎重に見る必要があります。

▽ 思いがちなこと
名字がほとんど同じなのだから、長宗我部と香宗我部はもともと一つの家が分かれたものだろう。
▼ 伝えられているのは
同族とする説もありますが、出自は別に伝えられています。長宗我部氏は秦氏の後裔を称し、香宗我部氏は香美郡の地頭職に補任された中原秋家の子・秋通を初代とし、甲斐源氏の子孫とも伝えられます。同じ地名を名のっただけで、血筋まで同じとは限らないのです。

長宗我部の「秦氏の子孫」という伝承

長宗我部氏は、古代の渡来系氏族である秦氏の子孫を称しました。秦河勝の子孫である秦能俊が土佐へ入った、という筋です。入国の時期は平安時代末期から鎌倉時代初期と考えられています。

ただしこれは資料による裏づけが不十分で、自称の範囲にとどまるとされています。戦国大名が由緒ある家系を名のるのはよくあることで、そのまま史実として受け取るのは危ういところです。

面白い見方もあります。作家の海音寺潮五郎は、長宗我部氏の祖は蘇我部の管理人であった秦氏、あるいは蘇我部そのものの末裔ではないかと述べています。渡来人が古代の部を管理する側にいた、という読み方です。

香宗我部氏は中原氏の流れ

一方の香宗我部氏。土佐国香美郡の宗我・深淵郷の地頭職に補任された中原秋家の子・秋通が香宗我部氏を称して初代となったと伝わります。中原秋家は一条忠頼の家臣で、甲斐源氏の子孫とも伝えられます。

鎌倉幕府の地頭として土佐へ入った家、ということになります。土着の一族ではなく、東国から下ってきた側です。

四百年後、二つの宗我部がつながった

そして戦国末。二つの家は、ついに一つの血でつながります。

香宗我部氏の当主・親秀は、安芸氏の攻撃で嫡男の秀義を失っていました。跡取りがいない。そこへ長宗我部国親の三男・親泰が養子として入ります。永禄十年から十一年(一五六七〜六八)ごろのことです。

兄の元親が弟に他家を継がせたのは、征服した家を滅ぼさずに取り込むためでした。しかしこの縁組は、それだけではありません。鎌倉のころに別々の郡で同じ名を名のりはじめた二つの家が、四百年ののちに一つになったのです。

元親は土佐東部の攻略をこの弟に任せ、親泰は安芸城の城主となって郡を治めました。皮肉なことに、養父の跡取りを奪った安芸氏を討ったのが、養子に入った親泰でした。

「長宗我部」と「長曽我部」、どちらが正しいのか

本や資料で「長曽我部」「長曾我部」という表記を見ることがあります。どちらが正しいのでしょうか。

答えはどちらも使われているです。理由は元になった地名にあります。本貫である長岡郡の宗我部郷は、古くから「宗部」「曽加倍」などと記載が一定しませんでした。もとの表記が揺れているのですから、名字の表記も揺れます。

現在は「長宗我部」が一般的ですが、「長曽我部」も誤りではありません。

家紋は「七つ酢漿草」

長宗我部の定紋は七つ酢漿草(ななつかたばみ)です。カタバミという、道端にも生える小さな三つ葉の草を紋にしたものです。

由来が変わっています。長宗我部氏に三千貫を領知する綸旨が下された際、賜った盃にカタバミの葉が浮かんでいたことから、これを家紋にしたと伝わります。

武具や動物ではなく、盃に浮いた草。一領具足という田を耕す兵に支えられた家にふさわしい、土のにおいのする紋です。

まとめ

長宗我部と香宗我部が一文字違いなのは、同じ「宗我部」という地名を、別の郡で名のったからです。「長」は長岡郡、「香」は香美郡。区別のために足した一文字でした。

出自は別に伝えられています。長宗我部は秦氏を称し、香宗我部は中原氏の流れ。それでも戦国の終わりに、兄弟による養子縁組で二つの宗我部は一つになりました。

名字は土地の記憶です。土佐の二つの郡に残った古い地名が、四百年かけて一つの家の名にまとまっていった。そう読むと、この一文字違いも見え方が変わってきます。

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