特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶
長宗我部と香宗我部。一文字しか違いません。しかも兄が長宗我部、弟が香宗我部を名のっている。他人の空似にしては似すぎているし、同じ家にしては名が違う。答えは土地の名にあります。土佐には「宗我部(そがべ)」という古い地名があり、「長」と「香」は人名ではなく郡の名前でした。長岡郡の宗我部だから長宗我部、香美郡の宗我部だから香宗我部。どちらの郡の宗我部か、という意味だったのです。
- 読みはちょうそかべとこうそかべ
- 共通する「宗我部」は土佐にあった古い地名・部の名
- 「長」は長岡郡、「香」は香美郡。郡名で区別した
- ただし出自まで同じとは伝わっていない。長宗我部は秦氏を称し、香宗我部は中原氏の流れとされる
- 永禄十年から十一年ごろ、元親の弟・親泰が香宗我部家に入って二つの家がつながった
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読み方は「ちょうそかべ」と「こうそかべ」
まず読みから。長宗我部=ちょうそかべ、香宗我部=こうそかべです。
どちらも難読ですが、共通部分の「宗我部」をそかべと読むと覚えれば迷いません。前に付く一文字が違うだけです。
「宗我部」とは何か
宗我部は、土佐にあった古い地名です。もとをたどれば古代の部民制に行き着く名で、「蘇我部」とも書かれました。
長宗我部氏の初代とされる能俊が、土佐国長岡郡の宗部郷に住みついたことから、その地名を名のったと伝わります。『南海通記』では、治承四年(一一八〇)に能俊が土佐の曾我部に住んだことから曾我部の姓を賜った、とされています。

岡豊城跡。長宗我部氏が拠った、長岡郡の城です。
「長」と「香」は郡の名前だった
ここが核心です。
土佐には宗我部という地名が二か所ありました。長岡郡の宗部郷と、香美郡の宗我郷です。そして、それぞれの土地に住んだ一族が、どちらも「宗我部」を名のった。
同じ名では区別がつきません。そこで郡の名を頭に付けたのです。長岡郡の宗我部は長宗我部、香美郡の宗我部は香宗我部。
つまり一文字違いなのは偶然ではありません。もともと区別するために一文字だけ足したのですから、似ているのが当たり前なのです。
出自まで同じとは伝わっていない
では二つの家は同族だったのか。ここは慎重に見る必要があります。
長宗我部の「秦氏の子孫」という伝承
長宗我部氏は、古代の渡来系氏族である秦氏の子孫を称しました。秦河勝の子孫である秦能俊が土佐へ入った、という筋です。入国の時期は平安時代末期から鎌倉時代初期と考えられています。
ただしこれは資料による裏づけが不十分で、自称の範囲にとどまるとされています。戦国大名が由緒ある家系を名のるのはよくあることで、そのまま史実として受け取るのは危ういところです。
面白い見方もあります。作家の海音寺潮五郎は、長宗我部氏の祖は蘇我部の管理人であった秦氏、あるいは蘇我部そのものの末裔ではないかと述べています。渡来人が古代の部を管理する側にいた、という読み方です。
香宗我部氏は中原氏の流れ
一方の香宗我部氏。土佐国香美郡の宗我・深淵郷の地頭職に補任された中原秋家の子・秋通が香宗我部氏を称して初代となったと伝わります。中原秋家は一条忠頼の家臣で、甲斐源氏の子孫とも伝えられます。
鎌倉幕府の地頭として土佐へ入った家、ということになります。土着の一族ではなく、東国から下ってきた側です。
四百年後、二つの宗我部がつながった
そして戦国末。二つの家は、ついに一つの血でつながります。
香宗我部氏の当主・親秀は、安芸氏の攻撃で嫡男の秀義を失っていました。跡取りがいない。そこへ長宗我部国親の三男・親泰が養子として入ります。永禄十年から十一年(一五六七〜六八)ごろのことです。
兄の元親が弟に他家を継がせたのは、征服した家を滅ぼさずに取り込むためでした。しかしこの縁組は、それだけではありません。鎌倉のころに別々の郡で同じ名を名のりはじめた二つの家が、四百年ののちに一つになったのです。
元親は土佐東部の攻略をこの弟に任せ、親泰は安芸城の城主となって郡を治めました。皮肉なことに、養父の跡取りを奪った安芸氏を討ったのが、養子に入った親泰でした。
「長宗我部」と「長曽我部」、どちらが正しいのか
本や資料で「長曽我部」「長曾我部」という表記を見ることがあります。どちらが正しいのでしょうか。
答えはどちらも使われているです。理由は元になった地名にあります。本貫である長岡郡の宗我部郷は、古くから「宗部」「曽加倍」などと記載が一定しませんでした。もとの表記が揺れているのですから、名字の表記も揺れます。
現在は「長宗我部」が一般的ですが、「長曽我部」も誤りではありません。

岡豊城跡の石段。二つの宗我部は、同じ土佐の別の郡に分かれていました。
家紋は「七つ酢漿草」
長宗我部の定紋は七つ酢漿草(ななつかたばみ)です。カタバミという、道端にも生える小さな三つ葉の草を紋にしたものです。
由来が変わっています。長宗我部氏に三千貫を領知する綸旨が下された際、賜った盃にカタバミの葉が浮かんでいたことから、これを家紋にしたと伝わります。
武具や動物ではなく、盃に浮いた草。一領具足という田を耕す兵に支えられた家にふさわしい、土のにおいのする紋です。
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まとめ
長宗我部と香宗我部が一文字違いなのは、同じ「宗我部」という地名を、別の郡で名のったからです。「長」は長岡郡、「香」は香美郡。区別のために足した一文字でした。
出自は別に伝えられています。長宗我部は秦氏を称し、香宗我部は中原氏の流れ。それでも戦国の終わりに、兄弟による養子縁組で二つの宗我部は一つになりました。
名字は土地の記憶です。土佐の二つの郡に残った古い地名が、四百年かけて一つの家の名にまとまっていった。そう読むと、この一文字違いも見え方が変わってきます。
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