上杉謙信はなぜ戦に強かったのか|青苧が運んだ銭、雪が守った国、関東管領の名分 ─ そして落とせなかった四つの城

この記事のポイント
  • 越後は貧しい雪国ではなく、青苧(あおそ)という繊維の一大産地でした。その流通を押さえたことが、兵を長く動かす銭になりました
  • 本国が日本海と山に囲まれ、冬は雪が国境をふさぎます。長く国を空けても攻め込まれにくい国でした
  • 関東管領を継いだことで、関東へ出る大義名分を得ました。敵の側から見れば「幕府の秩序に逆らう側」にされてしまう
  • いっぽうで城攻めは得意ではありません。小田原・唐沢山・臼井と、落とせなかった城がいくつもあります

上杉謙信は「軍神」と呼ばれます。ただ、強さの中身を聞かれると、答えに詰まる方が多いのではないでしょうか。本人が猛かったから、というだけでは、二十年にわたって関東・信濃・北陸へ出続けた説明がつきません。ここでは、謙信の強さを人柄ではなく、越後という国の造りから見ていきます。銭と、地形と、名分です。そして最後に、強くなかった部分も正直に書きます。

春日山城跡からの眺望
春日山城跡からの眺め。高田平野と日本海が見渡せます(春日山城跡)
目次

強さの土台① 越後は豊かな国だった

雪国というと貧しい土地を思い浮かべますが、戦国の越後はちがいました。青苧(あおそ)という作物の一大産地だったのです。カラムシとも呼ばれる麻の一種で、茎から取れる繊維は上質な布になります。これが京で高く売れました。

大事なのは、作っていたことより、その流れを押さえていたことです。越後の青苧は直江津の湊から船に積まれ、日本海を西へ、越前や若狭の湊に着いてから京へ運ばれました。長尾家の御用商人だった蔵田五郎左衛門は青苧座の頭目をつとめ、京で課税の権利を持っていた公家の三条西家と、その減額を交渉したとも伝わります。

越後の青苧(あおそ)が京へ運ばれる道この流れを押さえたことが、長尾・上杉家の銭になりました越後の村々青苧を育てる麻の一種、上質な繊維直江津の湊商人が買い集め船に積む日本海を西へ越前・若狭の湊へ敦賀・小浜京青苧座で売られ布になる・越後は青苧の一大産地でした。京で布に織られ、高く売れる品です・その流通を束ねたのが、長尾家の御用商人だった蔵田五郎左衛門ら越後の商人です・京で課税の権利を持っていたのは公家の三条西家。蔵田はその減額を交渉したと伝わります

兵を動かすには銭がいります。米だけでは、国を空けて半年も遠征はできません。謙信が毎年のように国の外へ出られたのは、この銭があったからです。城そのものの造りについては春日山城跡 ─ 山ひとつが城だった謙信の居城にまとめています。

強さの土台② 本国が攻められにくい

地図を思い浮かべてください。越後の北は日本海です。背後から攻められる心配がありません。南と東は三国山脈をはじめとする山並みで、冬になれば雪が国境をふさぎます。

春日山城から、三つの方向へ日 本 海 — 背後に敵はいない春日山城越後・謙信の本拠越中・能登七尾城を攻める信濃川中島で武田と五度関東北条と争う三国峠を越える南と東は山。冬は雪が国境をふさぎます。謙信が長く国を空けられたのは、本国が攻められにくかったからでもあります。

この造りのおかげで、謙信は長く国を空けられました。関東へ出れば数か月は帰りません。ふつうの大名なら、その間に本国を突かれます。謙信の場合、攻め込める道が限られていた。逆に言えば、謙信のほうは越中・能登へも、信濃へも、三国峠を越えて関東へも出られる。一方向からしか攻められない国が、三方向へ攻められたわけです。武田との五度にわたる戦いは川中島の戦い(前編)でくわしく追っています。

強さの土台③ 関東管領という名分

永禄四年、謙信は鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領の職を譲り受けました。長尾景虎から上杉政虎になったのはこのときです。

関東管領は、室町幕府が関東を治めるために置いた役です。戦国の世ではもう実権がありませんが、名分としては生きていました。謙信が関東へ出るのは「私の欲で攻める」のではなく「管領として関東の秩序を正す」という形になる。攻められる北条の側は、逆に秩序を乱す者にされてしまいます。関東の国衆が謙信に従ったのは、強いからというだけではなく、この名分があったからでもありました。憲政が守り切れなかった本拠については平井城跡(藤岡市)に書いています。

もっとも、名分は人の心までは縛りません。謙信が越後へ帰れば、関東の国衆はまた北条につきます。翌年また出てくる、その繰り返しでした。

ただし、城攻めは強くなかった

ここは正直に書いておきます。野戦の謙信は恐ろしく強い。けれども、城を落とすのは得意ではありませんでした。

城 いつ 結果
小田原城(相模) 永禄四年 十万とも伝わる軍で囲んだが落とせず退いた
唐沢山城(下野) 永禄年間〜天正四年 一万五千で囲んでも落ちず、たびたび撃退された
臼井城(下総) 永禄九年 土の城に跳ね返され、大きな損害を出した
七尾城(能登) 天正四〜五年 一年攻めあぐね、最後は内応で開いた

どれも石垣のない、土と地形でできた城です。唐沢山城は関東随一の山城で、佐野氏は一族の加勢を得ながら謙信を何度も退けました。臼井城跡は土塁と空堀だけの城ですが、謙信の大軍を跳ね返しています。七尾城跡にいたっては一年かかり、力攻めではなく内側から門が開いて決まりました。

城を囲めば兵糧と時間を食います。謙信の遠征が毎年くり返しになったのは、落とせないまま冬が来て引き揚げる、という形が多かったからでもあります。

では、謙信の強さとは何だったのか

こうして並べると、見えてくるものがあります。謙信の強さは「勝ち切る強さ」ではなく、「負けない強さ」でした。

攻められにくい国を背に、銭で兵を養い、名分を掲げて出ていく。思うように落とせなければ引き揚げ、翌年また出る。これを二十年続けられること自体が、ほかの大名にはできない芸当です。武田も北条も、本国を空ければ背後を突かれる位置にいました。謙信だけが、それを気にせず出られた。

そして、その強さは謙信ひとりのものでした。天正六年に謙信が急死すると、跡目をめぐって景勝と景虎が争い、越後は内側から割れます(御館跡 ─ 直江兼続が世に出た御館の乱)。攻められにくい国が、内側からは崩れたのです。

よくある疑問

Q. 謙信は生涯無敗だったのですか?
A. いいえ。臼井城では大きな損害を出して退いていますし、小田原も唐沢山も落とせていません。「七十戦して負けは二度」といった数え方は江戸時代の軍記に基づくもので、何を一戦と数えるかによって変わります。

Q. 越後は貧しい国ではなかったのですか?
A. 青苧という高く売れる品の産地で、日本海の湊も持っていました。米の石高だけで国の豊かさは測れません。

Q. なぜ冬に関東へ出たのですか?
A. 雪が越後の国境をふさぐあいだは、本国が安全だからです。関東側は雪が少なく、兵を動かせました。

Q. 川中島で武田に勝ったのですか?
A. 五度戦って、どちらかが相手の国を取ったわけではありません。第四次は激戦でしたが、勝敗の評価は分かれています。

Q. 天下を狙わなかったのですか?
A. 謙信の出兵は、関東管領として関東の秩序を正す、あるいは助けを求めてきた者を救う、という形を取るものが多く、領地を広げて天下を取るという動きとは性格がちがいました。

まとめ

上杉謙信が強かった理由は、青苧が運んできた銭、日本海と雪に守られた国の造り、そして関東管領という名分の三つに整理できます。この三つがそろっていたから、毎年のように国を空けて遠くまで出ていけました。いっぽうで城攻めは不得手で、小田原も唐沢山も臼井も落とせていません。勝ち切る強さではなく、負けずに出続けられる強さだった、と見るのがいちばん実像に近いと思います。

  • URLをコピーしました!
目次