- 替地は出ていました。天正十三年四月、家康は沼田の代わりに信濃の伊那郡中を与えると昌幸に示しています
- 昌幸はそれを断りました。沼田は自分の力で切り取った土地で、徳川から与えられたものではなかったからです
- 家康は三河以来の譜代に接するやり方で、国衆である真田に替地を命じました。そこに食いちがいがありました
- 四年後、秀吉の裁定で昌幸が受け取った代わりの地は、伊那郡箕輪領。家康が示していたのとほぼ同じ土地でした
沼田をめぐって徳川と真田がもめた話は、「家康が真田の領地を勝手に北条へ渡そうとした」という形で語られがちです。たしかに真田からすれば理不尽な話ですが、家康の側も手ぶらで要求したわけではありませんでした。替地は示されていたのです。それでも昌幸は断り、戦になった。しかも四年後、昌幸はほぼ同じ土地を受け取っています。何がちがったのかを見ていきます。
まず事実から ─ 替地は出ていた
話の出発点は天正十年です。本能寺の変のあと、旧武田領をめぐって徳川・北条・上杉が争い、徳川と北条が和睦しました。甲斐と信濃は徳川、上野は北条。この線引きで、上野にある沼田は北条領ということになります。ところが沼田を実際に押さえていたのは真田昌幸でした。しかも昌幸は、和睦の話し合いの場にいません。沼田という土地がどういうところだったのかは徳川と真田がもめた沼田はどんな土地だったのかにまとめています。

そして天正十三年四月、家康は甲府まで兵を進め、昌幸に沼田の引き渡しを求めます。このとき示されたのが、信濃の伊那郡中を替地とする案でした。昌幸はこれを拒みます。七月には次男の信繁を人質として上杉景勝に従い、閏八月には徳川勢が上田へ攻め寄せました。第一次・第二次上田合戦で書いたとおり、約七千の徳川勢は二千の真田に退けられます。
昌幸はなぜ断ったのか ─ 土地の広さの問題ではない
伊那郡は決して痩せた土地ではありません。それでも昌幸が断ったのは、替地の中身ではなく、替地を受け取るという行為そのものに引っかかったからだと思います。
沼田は、真田が自分の力で切り取った土地です。武田の下にいたころから、岩櫃・名胡桃と手を伸ばし、武田が滅んだあとも手放さずに守ってきました。それを「徳川の指図で北条に渡し、代わりに徳川から別の土地をもらう」となると、話の筋が変わります。自力で保っていた本領が、主君から預かる知行に変わってしまう。昌幸という人の身の処し方は真田昌幸とは ─ 「表裏比興の者」と呼ばれた知将にまとめましたが、この人が守り抜いたのは土地であると同時に、土地を自分の判断で持ち続けられる立場でした。
江戸時代に書かれた『上田軍記』には、昌幸が「家康は自分を扱いにくい者と見て、領地を削り、真田の家を滅ぼすつもりだ」と考えたという記述があります。後の世の書物ですが、昌幸が感じていた不信の方向はよく伝えています。
家康の側から見ると
いっぽうの家康に、真田を潰す意図があったかというと、そうとも言えません。替地を用意しているのですから、形のうえでは筋を通しています。
問題は、そのやり方が三河以来のものだったことです。徳川家では、土地は主君が預け、家臣はその土地で働く。主君が「あちらへ移れ」と言えば移る。本多も榊原も井伊も、それで動いてきました。この感覚でいけば、沼田の代わりに伊那を出すのは、むしろ気を遣ったほうに入ります。家中で土地と役がどう結びついていたかは石川数正の地位と石高はどれくらいだったのかでも触れました。
しかし真田は徳川の譜代ではありません。武田が滅びたあと、徳川を頼ることにした国衆です。頼る先は上杉にも北条にも替えられる。その相手に、譜代と同じ口ぶりで本領の替えを命じれば、断られるのが道理でした。同じころ徳川を離れた小笠原貞慶の動きを見ても、信濃の国衆が徳川をどう見ていたかが分かります。
四年後、昌幸は同じ土地を受け取った
ここがこの話のいちばん面白いところです。
天正十七年、秀吉が沼田問題に裁定を下します。沼田領の三分の二は北条へ、名胡桃を含む三分の一は真田に残す。そして真田が失う分の代わりとして与えられたのが、信濃の伊那郡箕輪領でした。四年前に家康が示していた替地と、ほぼ同じ土地です。
昌幸は今度は受け入れました。土地が変わったからではありません。土地を渡す相手が変わったからです。
家康の替地は「徳川に従え」という話でした。受ければ徳川の家臣になり、以後は家康の裁量のうちに入ります。秀吉の裁定は「天下人が双方の言い分を聞いて決めた」という形です。真田は徳川の下に入るのではなく、公儀の裁きに従う大名として扱われた。面目が立つうえに、立場も保てる。同じ伊那の土地でも、意味がまるでちがいました。
もっとも、この裁定も長くは保ちませんでした。翌年、北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を奪い、それが小田原攻めの引き金になります(名胡桃城事件とは)。
この一件が残したもの
替地をめぐる食いちがいは、徳川と真田のあいだに長く尾を引きました。第一次上田合戦で徳川は手痛い損を出し、十五年後の第二次上田合戦では秀忠の軍が足止めを食って関ヶ原に間に合わなくなります。上田城はなぜ落ちなかったのかで書いたとおり、この城は二度にわたって徳川の大軍を退けました。
もし天正十三年の時点で、家康が真田を国衆として扱い、沼田の件を交渉として運んでいたら。あるいは替地の話を、命令ではなく取引として持ちかけていたら。歴史に「もし」はありませんが、少なくとも上田で二度も痛い目に遭うことはなかったかもしれません。
よくある疑問
Q. 家康は本当に替地を出したのですか?
A. 出しています。天正十三年四月、沼田の引き渡しを求めた際に、信濃の伊那郡中を替地として示しました。
Q. では昌幸がわがままだったということですか?
A. そう単純でもありません。国衆にとって本領は、自分の力で保ってきた家の根です。替地を受けることは、その立場を手放すことを意味しました。
Q. 四年後の替地はまったく同じ土地だったのですか?
A. 伊那郡箕輪領で、家康が示していた伊那郡中とほぼ重なります。渡し手が家康から秀吉の裁定に変わった、というのが大きなちがいでした。
Q. なぜ和睦の話し合いに真田が入っていなかったのですか?
A. 徳川と北条という大名どうしの和睦だったからです。国衆の領地は、その線引きのなかで処理される扱いでした。
Q. 沼田は結局どうなりましたか?
A. 秀吉の裁定で三分の二が北条領になりましたが、翌年の名胡桃城事件をきっかけに小田原攻めが起こり、北条が滅びます。沼田はその後、真田の手に戻りました。
まとめ
家康は替地を出しました。昌幸は断りました。四年後、ほぼ同じ土地を秀吉の裁定で受け取りました。この三つを並べると、もめごとの正体が土地ではなかったことが見えてきます。徳川家では土地は主君から預かるもので、替えを命じられれば従う。真田にとって本領は自分の力で保つもので、替えを命じられる筋合いはない。家康は前者のやり方で後者に接し、そこで話が壊れました。同じ土地でも、誰がどういう形で渡すかによって、受け取れるものと受け取れないものがある──そういう話だったのだと思います。

